大下さんのたいした事情
ほんの一年前の出来事だった。
大下さんは、毎日を忙しなく働いていた。
サービス残業123時間、めっきり口数の減ったある時、ふと嫌~な予感がした。
誰かにつけ狙われているような気がするのだ。
振り向き、振り向き家に帰るようになった。
それをつい、口にすると、家で待つ奥さんの顔が、歪んだ。
後から知ったのだが、妻は浮気を疑っていたのだ。
三日後、家に帰ると、置手紙があり、
「あなたについて行けません。さようなら」
離婚届けの欄にきっちり書かれて、ついでにハンコまで押してある。
家の中の荷物はあらかた無くなっていた。
そして、次の朝、出社すると会社のガラスの扉が開かず、張り紙がしてあった。
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永い間、ご愛顧を賜りまして、誠にありがとうございます。
この度誠に勝手ながら、弊社を閉めさせて頂きます。
代表取締役社長 何某
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あまりのタイミングの良さに、あっ気に取られて佇んだ。
ガラス扉越しに覗くと、壁に貼ってある営業成績の棒グラフが見えた。
その結末に笑えた。
ゴルフ三昧の社長は、とっくに夜逃げをしていた。
営業マンとして働き、自社の製品を売り、それで生活の糧を得ていた。
しかし、それが薬事法違反で効き目がない商品だと訴えられたのだ。
テレビのニュースにも大々的に、出た。
もちろん、出資金を募りとかの商売じゃぁなかったから、取り付け騒ぎにはならなかった。
大した効き目のない商品を、営業力で売りつけてしまったのだ。
それは結果的に、詐欺の片棒を担いだことになる。
その前は長いこと、小さな会社の営業マンだった。
そこも倒産した。
「申し訳ない」後悔の念でいっぱいになり、もう一度、廻って回収し、代金を返し歩いた。
健康食品は、目障りなので、ゴミの日に出した。貯金はパァ~。
偶然、隣町で妻に再会した時、冷たく突き放された。
「あなた、確か・・・あのテレビの商品、売ってたわ~」
「ああ・・・」
弁解の余地もない。薄々気がついてはいた。
止める勇気もない。
だからいつも、後ろめたさが付きまとった。
奥さんとの復縁もこれで、諦めた。
離婚届けの記入事項をもれなく書き込み、ハンコを押し、その足で区役所へ持って行った。
すると、また後をつけて来るやつの気配を感じた。
早足で歩き、路地でやり過ごすと、
そいつのクビを羽交い絞めにして、怒鳴りつけた。
「おい! お前は誰だ! どう言うことか、説明して貰おうじゃないか!」
☆☆☆
大下さんは、あるお金持ちの家に呼ばれて、応接間に通された。
出てきたのは、この家の女主人。
物々しく、背広の男性が二人控えていた。
弁護士と公証人なのだそうだ。
女主人は大下さんの顔を、じぃ~と観察していた。
あらかじめ、どういう関係かは、知らされていた。
自分の親の親、つまり祖父の妻に当たる。
不愉快だった。自分の母親が妾の子だなんて、知りたくもなかった。
「あんな、子供たちにしてしまったのは、自分の責任でもあるわ。
探偵を使って、愛人の孫を探し出してみたら、なるほどねぇ」
「…」
「自分の子供や孫よりも人間の出来がいいとはねぇ~。
探偵の調べによるとだけどね。だったら、本妻だの、亭主が稼いだ財産の正統な分け前なんてものは、何だったんだろうねぇ?」
(そんなこと知るかい!)と、心の中で思った。
「それで、ものは相談なんだけど、このお金で、思う存分、あんたの好きなように、パァーと使ってやっとくれよ。夫に仕え、よき妻、良き母親として、厳しく育てあげたつもりだったけど、今や、私の死を待つハゲタカばっかり」
「…」
「誰が一番分け前を貰えるか? いつ死ぬんだろうってね。顔も見せないで、便り一つもよこさない。情がないねぇ、まったく。淋しいのを通り越して、怒りすらこみ上げてきたわ。こんな年寄りの自由にできることといったら、遺産を散財してやることぐらいしか ないんだからねぇ」
つくづく不運を絵に描いたような自分に向かって、こんなに金が余っている~♪ って言う自慢話かい? バァさんの言葉は、自分にとって、嫌味な当てつけにしか聞こえない。
「この私の目の黒いうちにあんたに託すから、思いっきりバカを おやんなさい。そして、報告しておくれ。これは、義務だよ」
「…」
大下さんは、同意した訳ではない、
従って返事もしない。
憮然としていた。
「どうせ、私も地獄に行くなら、冥土の土産に愉快なものに使っておくれ。そうね~、こんなにお金があるばっかりに、海外に語学の勉強だと称して、留学させてしまったのが、いけなかったのかしらねぇ? 誰のお陰で優雅に暮らしてると思ってるんだね」
だんだん、事情が呑み込めてきた。
「語学が堪能で優秀だからって、行ったきり。
それだったら、もうちょっと貧乏な家だったら、せめて日本に居てくれたかも知れない。いくら私が意固地でも、あの子たちを育てた親だよ。金髪の奥さん貰って、孫も日本語を一言もしゃべりゃ~しない」
「ハァ~」
要するに、子や孫の態度が気に入らないから、遺産を分けてやるもんか! なのである。
ワガママなバァさんだ。
早く話を済ませて、とっとと帰ろう、
遺産の相続なんて断ろう、と思っていた大下さんも、
その最後の一言で考えが変わった。
「そうなりゃ、金持ちがギャフンと言って、貧乏な人が喜ぶ何かがいいわね~」
バァさんの目が、
いたずらっぽくキラリと光った。
「その話、乗った!」
「そうかい、商談成立だねぇ~」
バァさんは、にんまり笑うと、
「さぁ、三三七拍子~」
と言って、そこにいる一同起立! 四人で手拍子を打った。
「いよぉ~
シャンシャンシャン
シャンシャンシャン
シャンシャンシャンシャンシャンシャン シャン」
サラリーマン時代の宴会で、さんざんやったシメに、思わず反応してしまった。
習慣というものは恐ろしい。
「私が死んだら、あんたの手で、海に散骨しておくれ」
ばあさんの一時の気まぐれかとも思った。
「じゃあ、後は顧問弁護士に頼むわね」
バァさんは、さっさと部屋を出た。
「…」
しばし、あっけにとられていた。
大下さんは、おずおずと聞いてみた。
「あの~、お加減でも、悪いのですか? 何かご病気でも」
弁護士は事務的に答えた。
「・・・いや、全然」
大下さんは、それから荷物を整理してマンションを売り払い、家具を売り払い、この中古のキャンピングカーを買った。
しばらく遠出もして、二ヵ月ほど生活してみた。
そうして、ある日公園に行ってみたのだ。
そして、コウジに出会った。
女主人は、自分の部屋に戻って腰をおろした。
実は一人息子は、ニューヨーク赴任中の銀行マンで、航空機事故で命を落とした。
跡継ぎは誰もいない天涯孤独の身。
だったら、このお金何に使おう…長い時間の末の結論だった。