マアトの天秤
神前裁判当日。
裁判には、事実上のリーダーであるアッサイと、神の加護を受け、神官の目の敵にもされているイスメトが村の代表として出ることになった。
「もちろん、ボクも付き添うよ」
さらに知識を持つエストもサポートに加わる。
裁判の申し出を受け付けた若い神官は、訴訟人が〈砂漠の民〉であると知るや、あからさまに嫌そうな顔をした。が、エストの言う通り、申し出自体は難なく受理された。
「間もなく、裁判が始まるよ。最後にもう一度おさらいしておこうか?」
「ああ、頼む」
神殿の中庭にあるベンチで待機していた二人は、手続きから戻ったエストに今後の流れを再確認する。
「まずは聖水で手と口を清めてから審議の間に入るよ。そして、足音を立てないようにゆっくりと奥の祭壇へ。一歩手前で止まって、神殿の主人――この神殿ならアヌビス神だね――その像に向かって膝をついてご挨拶」
神殿内での動作には、やたらと細かなしきたりがあるらしかった。
「挨拶が終わったら、その場に並んで大神官さまの言葉を待つ。まあ、細かい動作はボクの真似をしてくれれば十分だと思う」
イスメトにせよアッサイにせよ、何もかもが初めてのことばかりだった。
一般人はそもそも、何か特別な祭りや事情でもない限り、中庭より先の神殿内部へは進入できないことになっている。
制度としては『誰でも受けられる』裁判。しかし、実態が伴っているかは別の問題である。
「〈マアトの天秤〉は祭壇の上に置かれているよ。そして、その横に大神官さまが控えてる。その大神官さまを女神マアトに見立てて、原告、被告の順に申し開きをするんだ。その後、マアトの神像を渡されるから、両者同時に天秤に乗せる」
「ええっと……天秤が傾いた方が有罪、なんだっけ」
「そう。〈マアトの天秤〉は物の重さじゃなくて、罪の重さを計るものだからね」
一通りの確認が終わり、エストはベンチから立ち上がった。
「それじゃあ、行こっか」
イスメトとアッサイは目を合わせ、言葉なく頷く。
武器を手に敵と対峙するのとはまた違う、独特の緊張感があった。
【アヌビス大神殿ねェ……偉くなったモンで】
神様同士というのは、やはり知り合いだったりするのだろうか。
少し気になるイスメトだったが、今はセトの独り言に付き合える状況でもなかった。
「我はアヌビスの代行者。我が主の名の下、天秤の計量を執り行う」
一連の細かな流れが終わり、いよいよ裁判が始まった。
口上を述べた大神官は、次にこちらへ手を差し伸べてくる。
「まずは原告側の陳情を」
打ち合わせ通り、アッサイが進み出た。
同時に、講堂には筆記具の音が響き始める。部屋の両脇に並べられた机で、数人の書記たちが裁判の記録を取っているのだ。
「我らは東の村の代表、アッサイ、およびイスメト。神殿による食糧配給について、不服を申し立てる。今年の麦の収穫量に比して、我が村への分配はあまりに少なく、村人は飢えに苦しんでいる。よって、その分配基準の不当性を訴える」
続いて、大神官は被告側――村を襲った禿げ頭の神官に発言を促した。
「我はアウシットの上級神官、シヌヘ。アヌビス大神殿を代表し、弁明する。食料の分配量は、規定に則った正確な計算によって導き出されたもの。よってその正当性を訴える」
さらにシヌヘは続ける。
「また、原告らは言論ではなく暴力によりて食料の簒奪を企て、神殿の聖域を血で汚した。その罪こそ、裁かれるべきものとここに進言する」
「っ! それはお前たちが……!」
アッサイは声を荒げそうになったが、エストに制され踏みとどまる。
エストはアッサイの続きを引き継ぐように口を開いた。
「我は王都シリビスの書記、エスト。裁判を滞りなく行うため、原告の代わりに発言することを許されたい」
大神官が首肯するのを見届けて、エストは続ける。
「同村による先日の暴動に関しては、度重なる原告側の訴えをことごとく退け、取り合わなかった被告側にも非があったものと反論する。また、本裁判はそもそも神殿による食料分配の不当性についてを審議するもの。他の諍いに関しては、場を改めて告発されたし」
一拍の間を置いて、大神官が口を開いた。
「原告側の主張に同意する。本裁判は、神殿において行われた同村への食料分配が、正当であったか不当であったかについてのみを審議するものとする」
イスメトは心の中でほっと息をついた。
「では、マアトの像を」
「は、はい……」
イスメトとシヌヘは大神官から女神像を手渡される。そして、金の天秤が置かれた祭壇へと進み出た。
頭に羽根飾りをつけ、膝を立てて座る小さな女神の像。
彼女の判断がイスメトたちの生死を分ける。
「わ、我らは……」
何度も練習したはずの言葉に、声が震えた。
【オイオイ、手ェ震えすぎだろ……間違っても像を落とすんじゃねェぞ?】
セトに指摘され、イスメトは自分が情けなくなる。震えも酷いが手汗もすごい。聖水で清めた意味がなくなってしまったのではと心配になるほどだった。
「深呼吸、深呼吸」
エストに小声でアドバイスを受け、イスメトは深く息を吸って吐く。
いくらか落ち着いた。
「……我らは、女神マアトに誓う。我らが訴えの正当性、我らが心の潔白を」
神官シヌヘも同様の口上を述べ、いよいよ天秤に二つの像が捧げられる。
イスメトの像は左皿。シヌヘの像は右皿。
像から手を離したイスメトは思わず目を閉じた。静寂をこれほど重く感じたのは初めてだった。
「審判は下った」
大神官の言葉に、イスメトは恐る恐る目を明ける。
天秤は確かに傾いていた。
左皿に。
――あれ? 真実があるほうに傾くんだっけ?
「そ、そんな……そんなはず……」
声を出したのはエストだった。
「そ、そんなはずないよ! ボクはちゃんと調べたんだ! ここの穀物収穫量、そして租税として王都に送られた量も! 明らかに差があった!」
エストは取りすがるように大神官の前に跪いた。
「大神官さま! ボクも裁判に参加します! ボクの今の話が虚偽か、真実か、確かめさせてください!」
「よかろう。神像を」
今度はエストとシヌヘが、同じように誓いを立てて天秤に像を置く。
しかし、女神の答えは変わらなかった。
「ほっほ。神はすべてを見ておられるのだよ」
シヌヘの得意げな顔が癪に障る。
「嘘だ……こんなの、おかしい……おかしいよ……」
「エ、エスト……」
エストはその場に座り込んでしまった。
「そういえば、有罪になったらどうなるかは聞いていなかったな……」
アッサイの声には焦燥がにじんでいる。
「有罪……? 有罪に、なったら……」
「神兵よ、この者どもを捕らえろ」
エストの弱々しい言葉を引き継ぐように、命令を飛ばしたのは大神官だった。
「その書記も同罪だ。蛮族の言葉を信用し、神殿の――我らが神の決定に異議を唱えたのだからな」
「コイツを真っ先に縛り上げろ! 危険な男だ!」
脇で叫んだのはシヌヘ。その指先はイスメトに向けられていた。
「うぐっ……!?」
イスメトはあっという間に神兵に囲まれ、背中から馬乗りにされる。さらに腕を後ろ手に縛られ、身動きが全く取れなくなってしまった。
【ハッ……こりゃ分が悪ィ】
さすがのセトも、この状況は不利と判断したらしい。
イスメトたちはそのまま神兵たちに連行された。




