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アヌビスの助言

【久方ぶりだな、小さき王女よ】


 エストと共にアヌビス大神殿の最深部――〈至聖の場〉へ赴くと、寸秒と待たずに聞き慣れない声が頭に響いてきた。静かながら芯の通った、落ち着いた男声である。

 部屋の奥に置かれた神像が淡い光を放っている。声はそこから発せられているように感じた。


「アヌビス! よかった、今度はすぐに出てきてくれた!」


 エストはまるで往年の友に再会したかのような調子でその像に駆け寄る。すると像がひときわ(まばゆ)く光った。

 光の中から現れたのは一つの人型――ジャッカルの頭部を持つ男神である。

 感情の読み取れない面差しと、すらっとした体躯からは洗練された印象を受ける。普段よく見る神像とはまた違った威厳があった。


「アヌビスのお陰で、たくさんの人たちが救われたよ。ありがとう!」


 まるで知り合いと雑談するような距離感で、神に話しかけるエスト。

 イスメトは驚くと同時に彼女らしいとも思った。


「あ、あの……アヌビス、神。僕からも、お礼を……」


 深い夜の闇を感じさせる青い瞳を向けられ、イスメトは身をこわばらせる。

 怖い――という感情とは少し違う。人がけして触れてはいけない禁忌の宝玉を前にしているかのような、恐れ多さと緊張感があった。

 その青き深淵の先に、死の匂いを感じるとでも言えばいいか。


「礼を言うべきは、むしろこちらだ」


 アヌビスは気にする素振りもなく、人の耳にも聞こえる声で言葉を返す。


「セトの言う通り、我は現世における諸問題において、いささか放任的すぎた。我に代わって民を守り、〈混沌〉に立ち向かったこと――礼を言う、セト。そして、セトの子よ」

【ハッ。俺がわざわざテメェのために働いてやったとでも?】


 返す言葉を吟味する間もなく、セトがアヌビスに突っかかる。

 この二柱の関係性などイスメトには分からない。ただ、万が一にでも神同士の対立に発展したらと思うと気が気ではなかった。


「――否。そなたの目的は理解している。さしあたっては地下にある古き神殿のことだろう」

「あっ、そうだった! 実はそのことでお願いしたいことがあるんだけど……」


 エストはセトの地下神殿の復旧についてアヌビスに直接、お伺いを立て始める。

 確かに交渉は頼んだ。が、まさか神殿の主人を直接相手にするとは思ってもいなかった。


「セトの望むように」


 アヌビスは特に渋るでもなく、その願いを聞き入れてくれる。


「この州はもともと、セトの大神殿によって築き上げられた土地。古き神殿の主が帰還しただけのことだ。復興を望む民がいるのならば、我が意見することでもない」

【ほォん? そうか。んじゃ、まずはお前の神殿を地下に引っ込めて、俺がお前の神殿をもらおうか。それから、州の守護神の座も渡せよ】

「セ、セト……!」


 セトは汚らしく笑い声をあげた。


「それは……民の心に委ねよう」

【ハッ。相変わらず冗談の通じねェヤツだぜ】


 どうやら冗談のつもりだったらしい。

 相変わらずなのはどちらなのだかと、イスメトはため息をつきたくなった。


「しかし、ホルスとセトの〈依代〉が一堂に会する――まして我の前に揃って現れるなど、戦場を除いては有り得ぬことと認識していたが……どのような風の吹き回しか」

【テメェに説明してやる義理は――】

「それはね、ボクがお願いしたからだよ!」


 ほぼ同時に、セトとエストが答えた。いや、問いに正しく答えたのはエストだけだったが。

 セトは面倒くさそうに舌打ちし、黙り込む。


「ふむ……三百年前の真相を探りたい、と」


 エストはことの成り行きを掻い摘まんでアヌビスに説明した。

 その上で、歴史書に名を残さないセトという神格について、知っていることを教えてほしいと願い出る。


「セトは古くからナイルシア屈指の戦神――その一柱。度重なる王位戦争では、ホルスと共に、その名を広くこの国に轟かせた」


 イスメトは正直、驚いた。

 この期に及んでセトの力を疑っていたわけではない。ただ、本人から経歴を語られるのと、第三者から伝え聞くのとでは、やはり真実味が異なった。


「でも、歴史書のどこにもセトの名前は無かったよ?」

「平和の世に争いの神は不要……そう考えた人間がいたのだろう。セトは王位簒奪を目論む者たちにつくことが多かった。ゆえに、時にはその存在自体が争いの火種ともなった」


 セトの性格や日頃の発言を見ても、イスメトには納得するところしかない。要は昔からこんな調子だったということだ。


「もっとも、それはセトに限った話ではない。ナイルシアは神多き国。信仰の対立など日常茶飯事だ。何を奉り、何を排斥するか……それらは最終的に、時の権力者の手に委ねられる」


 時の権力者。つまりは王族。


「それじゃあ、セトさんが三百年前のホルス派に――ボクのご先祖様に裏切られたっていう話は、本当のことなの……?」


 エストはいささか語気を弱めて尋ねる。大昔の話とは言え、自分の先祖の話だ。心穏やかではないだろう。

 イスメトも唾を飲み込んだ。だがこちらはエストよりも深刻だ。返ってくる答えによっては執行猶予なし、即処刑なんてことも普通に有り得るのだから。


 アヌビスは考えるようにしばし沈黙する。

 その静かな瞳は寸分の揺らぎも見せなかった。


「我は死者の声に寄り添い、その魂を守る者。三百年前の騒乱では、確かに多くの血が流された――それについて我が意見を述べれば、十中八九、偏った認知の押しつけとなろう。セトにとっても、ホルスにとっても……よって我は固く口を閉ざす」


 アヌビスはあくまでも中立的な立場を見せる。


「だが、未来の女王に一つだけ助言を与えるとするならば……」


 その上で、エストに告げた。


「汝は、汝が信念のもとに生きよ。己が信念に勝る真実など、この世には存在せぬ。汝らの旅は過去を訪ねる旅ではなく、己が信念を問う旅と心得ることだ」

「ボクの、信念……?」


 エストは胸に手を当て、目を伏せる。神の言葉をゆっくりと咀嚼するように。

 そうして再び顔を上げたときには、いつものまっすぐな瞳でアヌビスを捉えていた。


「……わかった。ボク、色んな神様に話を聞いて、それから……ちゃんと自分で考えるよ。ありがとう、アヌビス!」


 こうして、神との謁見は何事もなく終わった。

 セトの神殿を整備する許可を得られ、イスメトとしては肩の荷が一つ下りたような心持ちである。


「セトの子よ」


 出しなに呼び止められ、心臓が跳ねた。


「えっ? ぼ、僕……?」


 セトの息子になった覚えは断じてない。が、文脈的にその語の意味する人物は自分しかいなかった。


「……多幸を」

「え……」


 それだけ残して、アヌビスの化身は姿を消した。

 普通ならば人前に姿を見せることすらない大神の言葉。世間一般の人ならば、ありがたいことだと大感激する場面なのだろう。

 しかし、イスメトはまったく喜べなかった。

 よりにもよって死者の神から、幸福を祈られてしまうというのはどうだろう。セトのこともあるだけに、その言葉には裏があるように思えてならなかった。


 今夜はとても良い夢を見られそうにない。


「イスメト、やっぱりまだ具合悪いんじゃない? 顔、真っ青だよ?」


 よっぽどさえない顔をしていたのか、部屋を出たところでエストが心配そうに覗き込んでくる。


「い、いや……なんでも、ないよ」


 イスメトは苦笑いでごまかした。


「そう……? でも、無理しないでね。いくら普通の人より傷の治りが早いって言っても、体への負担はかかってるはずだし。出発の日までお家でゆっくりしてた方がいいよ」

「あ……うん。そうするよ。ありがとう」


 ――出発の日、か。


 エストと別れたイスメトは一人、村への帰路についた。

 気付けば旅立ちの日までもうひと月を切っていた。

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