道を開く者
「【感謝する、戦神セト。そしてセトの子よ】」
――サナク、さん?
イスメトは見知った青年の顔を見て、しかし違和感を覚えていた。
彼の言葉使いや表情にはいつもの柔和な雰囲気がまるでない。むしろ近寄りがたく思うほどの威厳に満ちている。
そして何より――彼の黒瞳は普段よりも濃く深く、ほのかに青い光を宿していた。
「【感謝だァ? ハッ! 呑気なモンだぜ。つくづく現世のことは二の次だよなテメェは……州の守護神サマが聞いて呆れるぜ】」
セトの――正確には自分のだが――しかめっ面を見て、イスメトの疑問は確信に近づく。
「【……返す言葉もない】」
サナク――いや、サナクの姿をした何かは、面目なさそうに目を伏せる。
「【ゆえに、後のことは我が引き受けさせてもらう】」
【だとよ。命拾いしたな、小僧】
「え……? う――ッ!」
唐突に体の主導権が戻ってくる。当然、イスメトは傷の痛みに再びうずくまった。
サナクはそこへ歩み寄り、膝を折る。
「【傷を診せよ】」
「サ……ナク、さん……」
サナクはどこからともなく取り出した包帯を、慣れた手つきでイスメトの体に巻いていく。
「【――我は清めの幕屋の主人。死者の霊魂を導く者。なれど、縁ありて今はこの男の体を借りている】」
いや、慣れているどころではなかった。
包帯が自ら動いているのではと疑うほどの早さで、イスメトの傷口は清めの白布で覆われていく。同時に痛みも和らいでいった。
それもそのはず、包帯には神力が宿っている。それも、いつぞや足に巻いてもらったものとは比べものにならないほどの強い力を感じた。
「も、もしかして……アヌビス、神?」
「【いかにも】」
見知った男の姿で現れたのは、死者を守る神にしてこのアウシット州の守護神――アヌビスだった。
サナクはアヌビスの〈依代〉となっていたのだ。
「【我が繰るは清めの力。こぼれ落ちる砂を留め置き、あらゆる穢れから庇護するもの。治癒の力とは似て非なるものゆえ、しばしの安静を提言する】」
言い終わるやサナク――いやアヌビスは立ち上がり、地を這う大蛇に向けて手をかざす。
その手の内から光線のように放出されたのは、光をまとう無数の白い帯だ。そのうちのいくつかが、大蛇と化したムアドの体に絡みつき、その進行を食い止めた。
【ぬ……っ!? ぐおおっ!?】
ムアドは困惑するように身をよじらせる。
が、光の帯を振り解くことはできない。
アヌビスが光の帯を手繰るように腕を引き、その場で身を捻るたびに、ムアドの体は地響きと砂煙を上げながらこちらに引き寄せられていった。
「【我、現世においては戦神にあらず。よって〈混沌〉を滅す力は持ち合わせておらぬ――が】」
ムアドとの距離が縮まったところで、アヌビスは岩肌を蹴って跳躍した。
あまりの素早さにイスメトはその姿を見失う。
なんとか目で追えたのは、まるで足跡を残すかのように大蛇の周囲で舞い上がるわずかな砂煙だけである。
「【応えよ、〈守護の杖〉!】」
その声に顔を上げたときには、大蛇のはるか頭上に彼の姿はあった。手に握られているのは、〈支配の杖〉によく似た黒い杖。
「【我、道を開く者。万物を正しき理のもとへと導かん】」
いつの間にか光の帯はアヌビスの手を離れ、大蛇の体に幾重にも絡みついている。帯の先端は周囲の岩山に結びつけられ、巨体の動きを完全に封じていた。
「【その悪しき魂もろとも――冥府へ墜ちよ!】」
アヌビスは黒い杖を投げ放ち、大蛇の足下に突き立てる。そこを起点に地面がひび割れ、やがてどこまでも続くような黒い空間が生み出された。
まるで地面そのものが怪物と化して巨大な口を開いたかのようだ。
「な、なんだあれ……!?」
【神界への入り口だ。冥界神の力だな】
「え……!?」
岩山の上から事態を見守っていたイスメトは、セトの回答に息を呑む。
周囲にはまだ負傷した村人たちが残っている。そこへあれほどの規模の攻撃――巻き添えを喰らっていてもおかしくはない。
しかし、セトは落ち着き払っていた。
【心配ねェ。神界への道が開いたところで、生者はその境界を越えられん。アレはあくまでも死者の魂を導くための力。理を乱さねェ範囲でしか使えない限定的な力だ。が――】
セトは悦に入ったように笑う。
【ククク……〈混沌〉に身を捧げたことが仇になったなァ? 州侯の本体はすでに骸。つまり――ヤツは死者だ】
セトの言葉と呼応するかのように、けたたましい男の叫びがイスメトの脳内を掻きむしった。
【ぐあァァァァッ! な、なんだ、この力はぁぁっ!】
ムアドの声だった。
大蛇はまるで尾の先から溶け出すかのように、地面に開いた黒い空間へと吸い込まれていく。巨体を地下へと引き込むのは、神界から新たに伸び出た無数の白い光の帯――アヌビスの力だった。
光に触れられた大蛇の皮膚からは、煙のようなものが立ち上っている。
【アア、熱い! 体が……体が焼けるゥゥ――ッ!】
もがき苦しむように体をくねらせる大蛇の目の前に、アヌビスは軽やかに降り立つ。
「【――哀れな男よ、覚えておけ。汝に死後の安寧など存在せぬ。死者と我が同胞を利用し、弄んだ罪は、こちら側にて存分に贖ってもらうぞ】」
【ぐぬァァァッ! か、神よ……じ、慈悲を! 慈悲、ゥをォォォォォ――ッ!】
その願いに応える神などこの場に存在するはずもない。しかし、男はなおも見苦しく言葉を吐き出し続けた。
その異形の瞳はイスメトを捉えている。
【ぐあ――っ、そ、うだ! なん、でも……くれてやる! 〈砂漠の民〉には、一生、手に届かないような……褒美、を……】
その言葉が自分に向けられたものであることに気付いたイスメトは、目を見開いた。
【オ前タチ、家族ニハ……償イ、ヲ……】
この男は、この期に及んで何を言っているのだろう。
めまいすら覚えそうだ。
「今さら……! 今さらお前が……ッ! 僕に償えるモノなんて無い! あるわけないだろッ!!」
イスメトは右手に〈支配の杖〉を呼び出した。
そして、痛みも忘れて振りかぶる。槍投げの訓練など受けたことはないが、体は自然に動いていた。
「地獄に、落ちろよ――ッ!!」
イスメトは神器を投擲する。その一投は、流星のごとく鋭い光となって異形の頭に突き刺さった。
【グ……アガ、ガ……ッ】
蛇の体はまだもがき抗っていたが、それ以降、ムアドの言葉は聞こえなくなった。
大蛇の体は暗く深い闇の世界へと沈んでいく。やがて大地は巨体を完全に飲み込むと、食事を終えたかのように口を閉じていった。
あとに残されたのは、何事もなかったかのごとく広がるいつもの岩場の風景。
呆気にとられる村人たちの姿。
そして、涼しげな顔で州侯の消えた場所へ立つ、細身の神官だけだった。
サラサラと砂の流れるような異音を耳にし、イスメトは意識を自分のいる岩山へ戻す。見ると、干からびた州侯の死体が朽ち落ちていくところだった。
それが、独りよがりな信仰のために多くを巻き込み、恐らくは人としての魂をも失った男の末路だった。
「……ごめん、セト。神器、また投げちゃった」
【ハッ! あんな虫ケラ以下のゴミ野郎に神界の空気を穢されるよか百倍マシだ。今の一撃で消滅してることを切に願うぜ】
「あ、はは……」
イスメトは小さく笑って、力無くその場に座り込む。
アヌビスの包帯のお陰で痛みはあまり感じないが、なんだか頭がフラフラする。血が足りていないのかもしれない。
「【さて……】」
ぼんやりする意識が闇に沈みかけたのも束の間。
至近距離からの声を聞き、イスメトは内心飛び上がる。
先ほどまで地上にいたはずのサナクもといアヌビスが、何の予兆もなく気付けば傍らに立っていた。
「【汝には早急な療養が必要と見た。ひとまずセトの神域まで送り届けよう】」
言いながらアヌビスはイスメトの体を両腕で抱え上げる。サナクの細腕では本来不可能であろう芸当だ。
が、これはまだまだ序の口だった。
「はひ――ッ!?」
ありがとうございます――そう返そうと口を開いたイスメトは、危うく舌を噛むところだった。目を閉じることもままならないほどの風圧に突如襲われ、顔面の筋肉が震えたからである。
渇いた目を何度か瞬かせて、次に見えたものは――砂レンガでできたセトの簡素な社。村の広場だった。
イスメトは社の前で尻餅をついたような格好になっている。
「な、な、な? しゅ、瞬間移動? 神術?」
【いや、ただ運ばれただけだぜ。走ってな】
「走っ……え?」
恐るべき早業だった。
全力を出したセトでも、アヌビスとのかけっこには勝てないかもしれない。
【――今の全力では、な】
セトは憮然とした様子でイスメトの想像に異論を申し立てていた。
「【汝らには改めて礼を言いたい】」
アヌビスは改まったようにその場に居直る。途中の動作がことごとく視認できていないため、毎度毎度イスメトはぎょっと肩を跳ねさせていた。
なかなか心臓に悪い動きをする神である。
「【が、時と場を改めさせてもらおう。まだ本来の責務が残っているゆえ】」
「本来の……責務?」
イスメトの問いかけに対し、アヌビスは静かな眼差しを返す。
「【我は墓守。死者の霊魂を導き、その安寧を守る者。この地にてさまよえる魂を救済せねばならぬ。そして――】」
アヌビスは〈支配の杖〉によく似た杖を再びその手に召喚する。杖の先端にはアヌビスの頭部を象った装飾がついていた。
「【我が神力をもって、真実の女神マアトに告げる】」
杖の天に向けてかざし、サナクの口は呪文のような文言を紡ぎ始める。
「【聞け。我が民の声。世に立ちこめたる暗雲を払い、人々の心のわだかまりを解かん】」
杖から発せられた青白く淡い光が、半球状に広がって辺りを包み込む。
それはやがて村を、町を、州全体を包み込んでいった。
それによって何が成されたのか。
その時のイスメトには知るよしもなかった。
その場でアヌビスに尋ねることもできただろう。しかし、イスメトはそうしなかった。正確には、できなかった。
セトの力の反動にいよいよ体が抗えなくなっていたのである。
例のごとく、全身が地面に押さえつけられるような倦怠感と急激な眠気に襲われ、イスメトはその場にゆっくりと横たわった。
アヌビスを宿したサナクの姿は、もうその場にはない。
少しして事態に気づいた村人が駆け寄ってくる。
その頃にはもう、イスメトの意識は優しい夢の中へと溶けていた。




