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終焉の足音

「終わっ……た……」


 吐息のような呟きをこぼして、イスメトもまた無骨な岩肌に膝をつく。

 生温かい感触が(もも)を伝って落ちた。傷はもう完全に開いてしまっている。ムアドのもとまで辿り着けたのは、ひとえに気合いの賜物だった。


【クハハッ! オイオイ、死ぬ気かよ。俺様ばりに暴れやがって】


 セトの声にはどこか楽しげな色が滲んでいる。


【上出来だ。テメェにしてはよくやった】


 さすがに声を出す余裕はなかったが、イスメトは口元に笑みを作っていた。

 やはり明日は砂嵐か、岩の雨でも降るに違いない。もしくはこのまま明日の朝日を拝めずに死ぬか。


【ハッ! 死にたくねェなら、そこでおとなしく寝とけ】


 セトに言われるまでもなく、イスメトはうずくまるように地に上体を預けていた。そのまま腰から下の力も抜けて、横向きに寝転がる。

 さすがにもう起き上がれそうにない。傷の痛みはもちろん、セトの力の反動も出ているようだった。


【村の連中がこっちに集まって来ている。村まで運ばせれば手の打ちようが――】


 不意にセトの言葉が途切れる。

 イスメトの心に一抹の不安がよぎった。


【チッ! しぶとい野郎だぜ……!】

「ぐ……っ、愚か、な……砂漠の、民めが……!」


 絞り出すような恨みの声は、間違いなく州侯ムアドのものだった。


「この(ひょ)に神は……二つと()らぬ! 唯一神の治める国こ(しょ)が……本当の安寧を、享受(ひょうひゅ)できるというのに……っ!」


 砕けた歯の隙間からひゅうひゅうと空気を漏らしながら、それでも男は口を開く。

 素手だったとはいえ、先の一撃はセトの力を乗せたもの。もろに喰らった男の頬骨は歪み、片目は潰れている。恐らくは顎の骨も砕けているであろう。

 そんな状態でもなお、男は地を這って動き出した。よほどの執念である。


「真の神はただ一柱! 我らが……唯(ひつ)絶対の神、アテン神のみ!」

【ハッ! 真の神だァ? 事実この世に『唯一』じゃねェ時点で、満足に神格を得ることすら叶わなかったナイルシア史上最弱の神をしてよく言うぜ!】


 セトは息巻く。

 しかし、ムアドには聞こえていないだろう。なおも独り言のようにブツブツと何事かを呟いている。


「この世を乱すのは……いつだって神同士の醜い争いなのだ……唯一神のもとで、初めてこの国は一つに……」


 イスメトは力を振り絞り、両腕で地を押して上体を持ち上げる。

 州候はもっともらしいことを言っているようでいて、やはり歪んでいる。事実、いまこの州の平和を乱しているのはどの神でもない、この男自身だ。


「……っ、何の話か、知らないけど……呪いの力で皆を苦しめて、貶めて……そんなお前こそ、よっぽど争いを振りまく〈混沌〉じゃないか!」


 痛みも忘れるほどの憤りを、ようやく声として絞り出す。

 それでもムアドは、反省の色もなく笑うだけだった。


「ふ……ふはは……そうさ。〈混沌〉は……〈混沌〉こそは、我らが神の半身。アテン様の意志……」


 ムアドの話はイスメトの理解の範疇を超えている。


「ど、どういう、意味だ……?」

【さァてな。俺にもさっぱり分からん】


 セトですら合点のいかない様子だった。

 そんなこちらの困惑を知ってか知らずか、ムアドは声高らかに叫ぶ。


「〈混沌〉は……〈混沌〉こそが、神を殺せる唯一の力! 我らが神は〈混沌〉をこの世に遣わし、こうおっしゃっているのだ! 『これを用いて全ての神を滅ぼし、唯一神たる我を降臨させよ』と!」


 ――すべての神を、滅ぼす?


 イスメトの頬を冷たい汗が落ちた。


 神は人々の信仰の結晶。人々の望みを体現し、力を発揮する。

 しかし、セトの言葉通りなら、アテンはまだ神としての存在を確立できていない。唯一神としての力を発揮するためには、本当にこの国で唯一無二の神にならなければならないのだ。

 ムアドは、アテン以外の神々を滅ぼすことで、それを実現しようとしている。そして、神を喰らう力を持つ〈混沌〉は、その目的のためにアテンが遣わした存在だと信じているようだ。


【ク……ッ、ハハハッ! こいつァ、ヤベェ。本気でイカレてやがるぜ……!】


 ムアドの考えが見当違いなものであることは、セトの反応からも伝わってきた。


【小僧、真に受けるなよ。狂信者の世迷い言だ】

「うん……それは、僕でも分かる」


 唯一神の治める国。それがどんなものなのか、イスメトには分からない。

 ただ一つだけ、確かなことがあるとすれば。

 どんな大義名分を振りかざされようとも、父を失った悲しみは消えない。


「せめて……せめてこの州だけでもアテン様への供物として……〈混沌〉に、捧げる!」


 ムアドは這いつくばったまま、首にさげていた何かを握りしめる。

 それは手のひら大の宝玉。首紐からそれを引きちぎり、何を思ったか岩肌に叩き付け始めた。


「この命――果てても!」


 突拍子もない行動にイスメトが困惑したのも束の間。

 ひび割れた宝玉から闇が煙幕のように吹き上がってムアドを包んだ。

 ――正確には、宝玉から飛び出した無数の小さな黒い蛇が、体をうねらせながらムアドへと群がっている。


「――っ! あれ……まさか、アポピス!?」


 それは大神官が呪文を唱えて呼び出した、あの黒い蛇と同じように見えた。

 しかし、今回州侯は呪文を唱えてなどいなかった。ただあの宝玉を割っただけである。


【――チッ! 最後の最後にとんでもねェモン出しやがったな!】

「知ってるの……!?」

【アレは〈混沌〉の化身――アポピスそのものを封じた呪具だろう。大神官の最後っ屁がアポピス召喚の呪文なら、コッチは召喚したアポピスを封じ込め、誰でも任意のタイミングで呼び出せるようにした代物だぜ……!】


 大神官と州侯は癒着していた。

 ならば、そういった呪具の貸借が無かったとも言い切れない。


「アテン様ァ! 不肖このムアド、あなた様にこの身を捧げまするゥゥッ!」


 ムアドは己が信ずる神の名を叫びながら〈混沌〉の闇へと飲み込まれていく。

 イスメトは動かない体で、ただ息を呑んでその様子を眺めることしかできなかった。


【野郎……アポピスの奴に体を与えやがったな】


 セトの声には明らかな焦燥がうかがえる。


 ムアドは言葉にならない苦鳴を喉から絞り出しながら、岩の上をのたうち回る。その体の至るところから、骨が軋み、折れるような不気味な音が響いていた。

 やがてムアドの体内から、その背中を引き裂くようにして〈混沌〉の化身が姿を現す。それは、全長30キュビトを超えそうなほど巨大な、黒い蛇だった。


【おお……これは素晴らしい……! 力が溢れる……!】


 突如、頭に直接響く声がイスメトの脳を痺れさせる。

 セトの声ではない。これは間違いなく、さっきまでそこにいた男の声。

 ムアドの体は干からびた餓死者のように転がっている。まるで背中から生まれ出た大蛇に全ての養分を吸い取られたかのようである。とても生きているようには見えなかった。


【ハッ……! 熱心に太陽神(アテン)信仰してた割にゃあ、〈混沌〉と相性がいいみてェだなァ! むしろアポピス信者だろ】

「まさか……〈依代〉に、なったのか? アポピス、の……?」

【そういうこった。もっともここまで変体しちまうと、もはやどっちの体か分かったモンじゃねェが】


 大蛇と化したムアドの周囲からは、黒い闇が冥界(ドゥアト)から染みだすかのように湧き上がっている。空はたちまち暗雲に包まれ、月の光さえ消し去った。


【おお……神の声が聞こえるぞ! 生きとし生けるもの、すべてを原初の無に帰せと! ああ、我が神! 私の魂はあなたとともに!】


 大蛇は岩山を一滑りして地面に降り立つ。

 イスメトのことなど今や眼中にないようだ。蛇の頭が向いている先には人里――東の村がある。


【ハッ、思考までアポピスに毒されてやがる。クソ蛇野郎が。現世(こっち)側でも俺の邪魔をする気か!】

「ぅッ……早く、止め、ないと……!」


 イスメトは〈支配の杖(ウアス)〉を支えに立ち上がろうとした。

 しかし、とうに限界点は超えている。腕に力を入れようとしても息が上がるだけで一向に体は動かない。

 腕がダメならと足を動かせば、自分の血で濡れた岩肌に靴裏を滑らせてまた四つん這いに戻ってしまう。


「セ、ト……頼む……」


 ままならない体に歯噛みし、イスメトはなけなしの力を振り絞って神に願った。


「アイツを……止め……」


 視界が暗くなっていく。無理に動こうとしたせいで流血が増えたようだ。

 しかし、途切れた言葉の先をセトは正しく読み取っていた。


【――その願いが何を意味するか、承知の上か?】


 最後の確認。イスメトは声もなく頷いた。


【ハッ。聞くまでもなかったな。他がために命をなげうつ――お前は最初からそういうニンゲンだった。卑屈すぎるのが玉に(きず)だが】


 その紫紺の眼差しが、セトの力を象徴する赤い眼光へと変わっていく。


【正直、ここで手放すのは惜しい】


 少年は神器を拾い上げ、ゆっくりと立ち上がる。

 傷口からしたたり落ちる血が、その命の期限を知らしめるように全身を赤く染め上げていた。


【が、〈依代〉の最期(・・)の願いには、神として応えてやらねェとな】

「――否、その必要はない」


 突如、少年の背に言葉を投げかける者がいた。

 セトは最小限の動きで声の方向へと体を向ける。しかし、振り返る前からそこに何が(・・)いるのかは気配ですでに察知していた。


【……ハッ! ようやくお出ましかよ。犬っころが】


 そこに立っていたのはイスメトもよく知る黒髪の神官――サナクだった。


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