疫病神
「……ただいま」
「あら、おかえり。イルニス」
帰宅したイスメトは、寝室に横たわる母の顔色を見て一安心する。昨日と変わりはない。
「朝早くからどこに行ってたの……?」
「長老のとこだよ、母さ――メムト」
昨夜から留守にしていたことに、母は気付いていないらしい。余計な説明はしなくて済みそうだ。
【あァ? お前、イルニスなんて名だったか……?】
セトの問いに、今は答えることができない。
母に心配をかけないためにも、この厄介な状況はひとまず隠しておきたかった。
幸い、セトの声はイスメトにしか聞こえないらしい。
「何か……あったの?」
「む、麦を貰ってきただけだよ」
イスメトはケゼムから渡された昨夜の分け前を棚にしまい、作り置きのチーズと昨日絞っておいた山羊の乳をひとまず母のもとへ運んだ。
最近では、食事をする手元もおぼつかなくなった母。
食事の手伝いをしたあとは、自分も適当にチーズを口に放り込み、山羊の搾乳をするために瓶を持って再び外へ出る。
【なんだアレは。痴呆か?】
家畜小屋で乳を絞っていると、待ちかねたようにセトが話しかけてきた。
正直話したくはないが、話さなければ延々と聞かれそうなので、イスメトは渋々口を開く。
「……父さんが死んでから、ちょっと、な」
【ほォん……疫病神だとか言われていたことと、何か関係があるようだな】
「ぅ……」
言わずともいくらかの事実が確実に伝わってしまうというのは、実に厄介な話である。
セトはこちらの記憶や心のすべてを把握しているわけではないようだが、その時々の感情や意識の表層は読み取れるらしかった。
「……大したことじゃないよ。父さんが罪人で、人を殺してしまったってだけ。それで有罪になって……処刑されて。連帯責任で、その年の村の税がちょっと上がった」
【ハハァン。そりゃあ疫病神呼ばわりされても仕方ねぇな】
「あ、はは……本当にな」
【んで。母親はショックで気が狂っちまったと】
この神様は遠慮というものを知らないらしい。
変に気を遣われるよりはマシかもしれないが。
「母さんは……」
その続きは口に出す気にもなれなかった。
異変は、ある日突然やってきた。
あれは確か14歳の誕生日を過ぎた頃だったと思う。
それまで女手一つでイスメトを育ててくれた、頼れる母。そんな彼女が急に、いつものように農作業から帰宅した息子を見て涙を流した。
そしてイスメトを力強く抱きしめ、こう言ったのだ。
『ああっ、イルニス……! 戻ってきてくれたのね!』
その年は近年まれに見る豊作の年だった。食料が有り余っていて、ちょうど成長期だったイスメトの身長もぐんと伸びた年。
「母さんはきっと……昔の父さんの面影を、僕に見てしまってるだけだよ」
もちろん、現実を説明しようと試みたことは何度もあった。しかし、母はその度に取り乱し、泣き叫ぶのである。
そんな母を見るのは辛い。次第にイスメトは、自分の立場よりも日々の平穏を重んじるようになっていった。
「ほんと、最悪な父親だよな……」
だが、最後の一言は口先だけの言葉だった。
本当は認めてなどいない。
こんな日々を強要されてもなお、イスメトは父への敬慕を忘れずにいた。
なぜなら瞼の裏に焼き付く父との日々は、どれも温かなものばかりだったからだ。
一緒に麦を育てた思い出。
狩りや釣りを教わった思い出。
木彫りの作り方や、縄の編み方を教えてくれたのも、父だった。
村で一番の戦士だった父さん。村に迷い込んだワニをたった一人で退治して見せたその背中を、イスメトは今でもありありと思い出せる。
父さんのように優しくて、勇気のある男になることが、幼い頃の夢だった。
もし、ここに村人全員がやってきて、『お前の父は罪人だ』と口々にまくし立てたとしても、イスメトはけして譲らないだろう。
父さんはそんなことしない。罪を犯したなんて嘘だ、と。
『悪いのはお前の親父だ。お前とお袋さんは関係ねぇだろ!』
ケゼムの言葉に頷いて返せなかったのは、そんな子供じみた意地のせいだ。
現実を受け止めきれない弱さのせいだ。
僕が虐められるのは、父さんが悪い奴だったから……?
――違う。きっとジタが言うように、僕が生まれつきの疫病神だからだ。
そうやって、誰も理解してくれない、誰の得にもならない意地を張り続けていたら、いつの間にか10年もの月日が流れていた。
そして、気付いたら家にはイスメトの居場所がなくなっていた。
【……忠告だ、小僧】
不意に、セトの声が冷たくなった気がした。
【俺に対して、心にもないことを口にするのはやめろ。虫唾が走るんだよ】
その鋭い指摘を、イスメトは笑ってごまかすより他なかった。
「ごめんくださーい!」
セトとの間に気まずい沈黙が横たわりかけた頃。
静寂を打ち破るように、家の戸口の方から聞き慣れない声がした。
村人以外の来客とは、随分と珍しい。
「あ、いきなりごめんなさい。少し、食料を分けてもらえないかと伺いました。旅の途中で盗難にあってしまって……」
現れたのは旅装束に身を包んだ二人組だった。
一人は20歳くらいの女性。もう一人は14、5歳の少年だ。顔は似ておらず、親子や兄弟には見えない。
「それは大変ですね……」
イスメトは思案する。気の毒だとは思うが、人に分けてあげられるほどの余裕など今の家にはない。
「あまり蓄えがなくて……これだけですが」
悩んだ末、台所からチーズの入った小さな壺を持ってきた。
チーズなら山羊の乳から作ることができる。家計への打撃は比較的少ない。
「ご親切にありがとうございます。不躾なお願いをして申し訳ありません。助かりました」
女性は丁寧に会釈をした。
どこかの屋敷に仕えていたりでもするのだろうか。女性の身のこなしは美しく、農民のそれとはどこか違う印象を受けた。
「ありがとう! キミはとても良い人だね!」
一方で、あどけなさの残る顔をしたボサボサ髪の少年は、人なつっこく笑ってこちらに手を差し出してくる。
〈太陽の民〉にしては随分と友好的な反応だとイスメトは新鮮に思った。
「ボク、エスト! キミの名前は?」
「イスメトだよ」
「イスメト! キミに神様のご加護がありますように!」
「あ、はは……ありがとう」
まさに現在進行形で、その『神様』の一柱につきまとわれているわけなのだが。
イスメトは苦笑いを浮かべるしかない。
「おーい! イスメトー!」
二人と別れの挨拶を交わしていると、唐突にケゼムが割って入ってきた。
今日は来客の多い日である。
「あれ、何か忘れ物でもしてた?」
「ち、違ぇよ! 一大事だ! 昨日のことで、神官たちが早々に村に乗り込んで来やがった!」
「え……ッ!?」
「アッサイが捕まって……と、とにかくこっちだ!」
イスメトは旅人たちに謝辞を述べ、挨拶もそこそこにケゼムの後を追った。




