生き様
「ふっ……はははっ! 愚か! 実に愚かだ!」
ムアドの高笑いが遠く耳鳴りのように聞こえる。
イスメトは力無くその場に蹲った。自分の体から流れ出た血液が川のように地面を流れていくのが見える。
「ぐ……ゴホッ! な……んで……」
【喋んな。無駄に消耗するだけだ】
セトの声はいつになく落ち着き払っていた。お陰でイスメトもいくらか平常心を取り戻し始める。
とはいえ、全身を痺れさせるほどの激痛を耐えるのは至難の業だった。
「くっくっく……良いザマだ。私が何の策もなくお前を待ち伏せると思ったか? やはりまだガキだな」
ムアドは勝利を確信したような顔で、安全圏から笑っている。
「安心しろ。死後はお前も屍兵にしてやる。これからはずっと大好きな父親と一緒だ。……殺れ」
そして、配下の戦士に指示を下した。
【チッ! 歯ァ食いしばっとけ!】
セトの叫びが響くと同時に、イスメトは傷口をおさえながらもその場から飛び退いた。直後、その場に剣が突き刺さる。
体を動かしたのは言うまでもなくセトだ。
「ァぐッ……!?」
当然ながら、イスメト本人は自分の体の予期せぬ動きに苦鳴を噛みつぶしていた。
「おいどうした。手負いのガキだぞ、何を取り逃がしている」
幸い、追撃はすぐには襲ってこなかった。
イスメトの父――イルニスの姿をした屍は、しばし呆然とその場に立ち尽くす。腐り落ちずに残った左の眼球は、今しがた突き立てた剣の柄に揺れる飾り布を見つめている。
その目に息子を斬りつけた罪悪感や悲しみといった感情は一切見られない。同様に、闘志もまた感じられなかった。
「ええい何をしている! とっとと殺せ!」
痺れを切らしたムアドの叱声によって、屍はようやく剣を地から引き抜く。が、次にその剣が振り下ろされたとき、その刃の先にいたのはイスメトではなかった。
「……ッ! 嫌な予感ってのは、当たるもんだなぁっ!」
イスメトを背に庇い、屍の攻撃を豪腕ではじき返したのはアッサイだ。
彼を筆頭に、後ろから村の男達が続々と応援に駆けつけてきていた。
「ちっ……増援か。まあいい。こちらも手数を増やすだけよ!」
しかし、これもムアドの想定内だったのだろう。墓地の周辺から何体もの屍兵が立ち上がり、男達に飛びかかる。
「イスメト! 大丈夫か!」
アッサイは如才なくイルニスに向き合ったまま、背で問うてくる。
そして、痛みに声を出せないこちらの様子を悟ってか、今度は後方の仲間に呼びかけた。
「ジタ! イスメトを連れて――」
「わ、分かってら!」
アッサイが言い終わるよりも先に、イスメトはジタに担ぎ起こされている。
ジタはイスメトに肩を貸し、半ば引きずりながら前線から離脱させた。
「クソ! なんで……なに負けてんだよ。神がついてんじゃなかったのかよ。なんでイルニスさんが……なんでこんなことになってんだよ……ッ!」
ジタは苛立つように小さく吐き捨てる。
イスメトに向けての文句――というよりは、焦りや戸惑いから出る独り言のようだった。
【オイ小僧。俺と交代だ】
ジタの補助もあって何とか木に背を預けたところで、セトが言った。
イスメトはその要請に疑問を抱く。
先ほどもセトのお陰で攻撃を避けられた。しかし、そもそもセトはホルスの護符によって力の制約を受けているのではなかったか。
【ハッ! 舐めてんじゃねェぞ。ここは俺の神域も同然だっつったろ。ヤツの〈依代〉も近くにはいない。その首輪も、今はただの金属に過ぎねェんだよ】
セトはこれまでも、自分の社の近くでなら驚異的な力を発揮してきた。
同様にホルスの首輪も、ホルスやホルスの信仰拠点からの距離によって効力に違いがあるようだ。
【別に断ってもいいぜ? どっちみち気絶して交代だ】
「わかっ……た」
イスメトはセトに身を委ねることを同意した。直後、痛覚を含めたあらゆる肉体の感覚から解放される。
セトの言うとおり、あのままではいずれ痛みに意識を失って昏睡するだけだっただろう。
「【――オイ。下手に触るな。包帯を巻く前にやることがある】」
急に平然としゃべり出したイスメトを見て、ジタは肩を跳ねさせる。ちょうどイスメトに応急処置を施そうとしているところだった。
「セ、セト神……なのか?」
恐る恐るといった様子で尋ねるジタを無視し、セトは傷口に手を当てる。すると、傷口からジュウと肉を焼く時のような音と蒸気が上がり始めた。
【臓器は傷ついていない。間一髪、俺が重心を反らせたからな。ったく、安い挑発に乗りやがって】
イスメトには返す言葉もない。
【俺とのシンクロ率を高めて完治させるのが最良だが――それをやるにはちと社が遠い。ひとまず傷口を乾燥させて血を止める。終わったら、とっとと州侯をぶっ殺す。ここからはスピード勝負だ。傷がまた開く前に終わらせるしかない】
――父さんは? 父さんは、どうするの?
【このままヤツに任せる。必要なら不意を突いて〈混沌〉を払うが――最優先は術者だ】
前線ではアッサイとイルニスが今も激しく打ち合っている。
今のところ互角――少なくともイスメトにはそう見えた。
【術者を潰せば、この手の呪術は解ける。例外はない】
そこまで聞いて、イスメトの心に不安の陰がよぎる。
呪術で操られている屍は、冥界へ行けなかった魂の成れの果て。だとしたら呪術が解けたとき、屍は――父の魂はどうなるのだろうか。
【何度も言わせんじゃねェ。ありゃただの屍だ。とっくに死んでる】
――で、でも! 魂があるって、お前が言ったんじゃないか……! どうなるんだよ!
魂の結末について言及しないセトに、イスメトの懸念はますます大きくなる。
セトはそれを知ってか、渋々といった様子で返した。
【……そこまでは分からん。ケースバイケースだ。運良く自我が残ってりゃ、神界に流れ着いてアヌビスか、生前に拝んでた神に拾われる。運が悪けりゃ……そのまま消滅するだろう】
――消、滅……?
【言っとくが、俺にできるのは理を正すこと。屍は土に還す。それだけだ】
理性では分かっていた。父の死は変わらない。たとえ目の前で屍が動いていようと、あれは父ではない。けして生き返ることはない、と。
しかしそれでも、せめて魂の安寧は守られると言ってほしかった。たとえ嘘であっても。それだけが、残された者にとっての唯一の救いなのだから。
【悪いな。俺は嘘が嫌いだ。……特に、その手の嘘はな】
イスメトを斬りつけたあの剣は、イスメト自身の手で父の棺に入れたものだった。父が生前使っていた剣に、死者のための呪文を見よう見まねで書き写した飾り布を巻いて。
今見れば、文字も文法もデタラメ。そんなものに特別な力など宿らないことくらい分かる。
しかし、それでも。そこに託した想いだけは本物だった。
きっと父に届く。きっと父の魂は悪いものから守られる。そして楽園で幸せに暮らしてくれる――そう願い続けられることが救いだった。
その願いさえも、〈混沌〉は喰らうというのか。
もう何もしてあげられない。
もう何もできない。
それならば、立ち上がり戦うことに何の意味があるというのか。
【お前にその気がねェってんなら、このまま俺がやるだけだ】
そうこう話している内に、イスメトの傷はほぼ塞がっていた。セトの力によって急激に水分を奪われた傷口には、うっすらとかさぶたのようなものができている。激しく動けばまた破れるだろうが、ひとまずの止血にはなっていた。
【だがその前に、一つ問う。小僧、お前は何のために力を欲した? 何のために俺から戦いを学ぼうとしたんだ?】
――それは。
セトに頼らなければ何もできない自分を変えるため。
理不尽に抗うため。
大切なものを守るため。
父のような男になるため。
【言っただろう。何のために戦うかなど、結局は一つだと】
自分の意志で、勝利を掴むため。
【お前の父親はハッキリ言って無駄死にした。だが、正義を貫き命を張ったその魂の気高さだけは、賞賛してやってもいい。愚かだが高潔。それもまた、そのニンゲンの持ち味ってヤツだ】
明日は砂嵐でも起きるのだろうか。セトが父を褒めるなど。
【お前は本当に、まだアレが父親に見えんのか?】
イスメトはアッサイに剣を振るう屍を見た。
浮き出た頬骨の形。イスメトと同じ砂色の髪。左だけ残った紫紺の瞳。
青白い肌。皮膚を失い、剥き出しになった奥歯。意思を感じさせない瞳。
思い出の中にいる父とは似ても似つかない、おぞましい姿。
「ぐあっ!」
「っ! アッサイ!」
ジタの悲鳴を聞いて、イスメトは我に返る。
アッサイが腹に蹴りをもらって吹き飛ばされた。岩に背中を激しく打ち付け、その手から剣が落ちる。
すぐにジタが駆け出す。アッサイの落とした剣を拾う。そして――
「よ、寄るな化け物!」
その屍に震える切っ先を向けて叫んだ。
「よ、よせ……ジタ! お前じゃ――ぐっ!」
アッサイは体勢を立て直そうとするも、体が言うことを聞いていない。口から血の塊を吐き出し、両手で地を突く。
「ちっくしょう……ちくしょう! ふざけやがって……!」
そんなアッサイを庇うように、ジタがまた一歩進み出た。
声が震えている。しかし、その理由が恐怖だけでないことは、ジタの瞳を濁す雫と、その雫でさえも掻き消すことができない怒りの炎を見れば明らかだった。
「なんで、よりにもよってアンタなんだ……! 馬鹿に、すんなよッ! アンタが……っ、あの人が、こんなことするわけ、ない! 馬鹿にすんな……ッ!」
屍は歩みを止めない。今にもジタを斬りつけんと腕を持ち上げる。
――あれが、父さんに見えるか、だって?
父はなぜ、他人のために自分と家族を犠牲にしたのか。
気付けばそんなことばかり考える自分がいた。
正義がそんなに尊いものなのか。家族と暮らす日々よりも大事なものなのか。
父の冤罪を知ってからというもの、イスメトは思い悩んでいた。そうやって父を恨んでいた――といっても過言ではないのかもしれない。
イスメトにとって父を失った悲しみは、それほどまでに深く、今もなお胸をさいなむものだった。
――父さんは、何を見ていた?
罪人に仕立て上げられても、命を失うことになっても、父は英雄だった。
たとえそれが仕組まれた罠であっても、父の決断は気高いものだった。
セトがそれを認めてくれた。
――父さんは、なぜ戦った?
他人の名誉のために。
正義のために。
――本当に?
『……父さん。どうすれば僕も、父さんみたいになれるの?』
それはいつの記憶だろう。
そうだ、確かあの日。ジタと二人で川に出て、怒られた日だ。
父は息子に将来の夢を聞いた。だからイスメトは迷わずこう答えた。
父さんみたいになりたい――と。
『どうすれば……か。難しいな』
父は、困ったように笑ったのを覚えている。
その反応を見て落胆したものだ。僕は父さんのように強くはなれないのか、と。
『父さんはな。ただ自分で自分を誇れるように生きてきただけなんだ』
父は慰めるように肩を叩いた。
『だからお前も、父さんみたいにならなくていい。ただ、お前に誇れるお前になれば、それでいいんだぞ』
あの時は、意味がよく分からなかった。
けれど今ならなんとなく分かる気がする。
きっとそれは、父の人生を表す言葉だったのだと。
あの日。村で一番の戦士は、己の誇りを貫いて死んだ。
誰かのためとか、正義がどうとか、そんなことは多分、関係なく。
ただ父が父であるがために、その道を選んだ。
それがきっと父の死に様――いや、生き様だったのだ。
ならば。
「……やら、せない」
イスメトは立ち上がっていた。セトに操られて――ではない。
「父さんに……同族殺しなんか……」
その手に現れるのは、〈支配の杖〉。
神と神器は応えた。少年の思いに。その強く、熱い、父への敬愛に。
そして、誇りに。
「絶対にさせない!」




