犬神様は忙しい?
イスメトは再びアヌビス大神殿の深部へと足を踏み入れることになった。もちろん、エストの頼み事を遂行するためである。
あれから何度か〈支配の杖〉を呼び出す練習をした。
結果、分かったのは〈支配の杖〉がイスメトの『闘志』に反応することだった。
勝ちたい。譲れない。成し遂げたい。
そういった強い意志をもって求めれば、神器は応えてくれる。セトの合意があってのことではあるが。
「イスメトはすごいなぁ! ボクなんか、ホルスの化身を召喚できるようになるまで二ヶ月はかかったのに」
「いや、まあ……僕もセトの化身なんて呼べないし。たまたまだと思うよ?」
エストは褒めてくれるが、まだまだ安定して神器を呼び出せる状態ではない。
あの後もトイコスやアッサイに付き合ってもらい、何度か模擬戦をやってみたものの、最初から〈支配の杖〉を出せることは稀だった。
【ハッ。〈支配の杖〉を出すことが目的か? 違うだろ。〈支配の杖〉で何を成したいのか。神器が問うのはソコだよ】
セトはそんなことを言っていた。
そもそも練習をすること自体が間違っていたのかもしれない。
そこでイスメトは、とりあえず本番に臨んでみることにしたのである。
【……オイ、王女野郎。一つ、腑に落ちねェんだが】
「うん? 何かなセトさん」
サナク神官に連れられて〈至聖の場〉へ向かう途中、珍しくセトがエストに話しかけた。
【そもそも、ここの主はアヌビスだろ。なぜヤツに頼まん? あの珍獣も、ヤツのペットみてェなモンだろが】
「それは、そうなんだけど……」
エストは決まり悪そうに苦い顔をする。
「アヌビス……呼びかけても出てきてくれないんだ。多分、忙しいんじゃないかな?」
【ハ?】
困惑するような沈黙の後に、セトはくつくつと笑いだした。
【クッ……ハハッ! そーかよ。そーかもな】
「神様も、忙しいとかあるんだ……」
魂の存在である神々の私生活など、イスメトには想像もつかない。
とりあえずセトは暇そうにしているようだが。
「はぁ……面倒ですが、我が主のために一応弁明しておきましょうかね」
イスメトが困惑していると、サナクがやれやれといった様子で口を開く。
「イスメト君。この国で一年に何人の死者が出ると思いますか?」
「え……? 何人だろう……」
「だいたい十五万人ほどだそうです。この比較的平和なご時世でも」
「じゅ、十五万……!?」
大変だ。数えるのに指が足りないどころの騒ぎではない。
「単純計算で一日に四百人。その四百人とアヌビス神は毎日言葉を交わしているそうです。冥界と現世では時間の概念が異なるそうですが……それでも、我々から見れば一日に四百人です」
それは確かに忙しそうだ。
そういえばアヌビスにまつわる伝承にはこんなものがあった。
死者の魂が冥界の怪物に襲われないよう、アヌビスは死んだ人の元へいち早く駆けつけて道案内をしてくれる。だから、とても速く走れる足を持っている。
「それでもエスト君がいるときは、比較的顔を見せて下さるんですけどねぇ」
「え? そ、そうなんだ……」
まさかエストは、アヌビス神とも知り合いなのだろうか。
生まれつき神の声が聞こえるというのだから、あり得る話ではある。
住まう州に関係なく、人は誰でも死ぬ。よって死者を守る神とされるアヌビスは、広く全国で崇められている。もちろん王都シリビスでも。
「え、えへへ……小さい頃、ちょっとお世話になったんだよ。その……まあ、色々と」
案の定、返ってきたのは肯定。ただ、エストはばつが悪そうに言葉を濁した。
「はぁ……あの時は本当に参りましたね」
その後を引き継いだのはサナクである。
「王女が侍従も連れずに神殿へやって来たかと思えば、『死んだお母様に会いたいからアヌビス神を呼べ』などと仰って。しかも、できなければ大事な呪文の書を燃やすと――」
「わー! わっ、わー!」
サナクの言葉をかき消すように、エストが叫んだ。
「なんで話しちゃうの!? それ誰にも内緒って約束した!」
「おや、そうでしたっけ」
サナクはとぼけるように笑いながら目をそらした。
「まあ、そんなこんなでエスト君は、アヌビス神の目にイヤでも留まったんでしょう。恐らくは王女の身分も手伝って」
「うぅー……」
エストは不服そうにサナクを睨んでいる。
「神様も、身分を気にするんですね……」
「信仰と政治は切り離せませんからね。信仰を広める手段として、為政者に気に入られることはやはり重要です。従ってどんな神でも、王家に連なる者には相応の敬意を払うものですよ――と、これはアヌビス神の受け売りですが」
――どんな神でも、か。
イスメトは例外を少なくとも一柱は知っている。
「サナクさんも、やっぱり神様と話せる人……なんですか?」
「まあ、一応は。面倒なので、普段はなるべく聞こえないふりをしてますけど」
サナクは威張るでも誇るでもなく淡々と事実を述べた。
「サナクは昔、王都のアヌビス神殿にいたんだよ! 満場一致で神官長に推薦されるくらい優秀なんだ!」
そこへエストが食いつくように付け加える。
よほど自分の過去を語られたことが恥ずかしかったのか、早く話題を変えたがっているようだった。
「でも、神官長になりたくなくて、去年から田舎に来たんだよね」
「……それを知っていて、あろうことか私をアヌビス大神殿の大神官に推薦しようって言うんですから、キミも本当に人が悪いですよねえ」
「えっ、サナクさんが……!?」
悪行を働いていた大神官に代わって、このアヌビス大神殿を誰が取り仕切ることになるのか。村でも気にかけている者は多かった。
まさかこんな近くに、その候補者がいたとは。
「サナクなら絶対できるよ! だいじょうぶ!」
「いえ、そこを心配しているわけではないのですが……」
にこにこと笑うエストに対し、サナクは目頭を押さえている。
心底、嫌そうな顔だった。
「大神官って、神殿で一番偉い人ですよね。すごいことなんじゃ……」
イスメトが正直な気持ちを述べると、サナクはさらに眉を寄せた。
「はぁ……そうは言いますがね。私は出世する気なんて微塵も無いんです。だって面倒でしょう? 神の代弁なんて……」
事もあろうに、アヌビス神に最も近い神殿で、とんでもないことを言いだしたサナク。
――この人、なんで神官やってるんだろう。
イスメトが疑問を浮かべたことは言うまでもない。
「私、単純な職業としてなら農民が一番性に合ってると思うんです。決められた時期に、決められたことをやって、季節の移ろいを肌で感じながら農閑期はのんびりと……」
「え……僕からしたら、貴族の方がうらやましいですけど」
畑に出ずとも、狩りを覚えずとも、毎日の食事に困らない生活。それ以上の贅沢がこの世に存在するのだろうか。
しかし、サナクはイスメトの意見に納得がいかない様子だった。
「そんなものですか。しかし、ねぇ。貴族に生まれたばっかりに、五歳から書記学校で勉強三昧。成績一位をうっかり取ったら、望んでもいないのに神官に推薦されるし……はぁ。責任ばかりが増えて、良いことないですよ」
さらっとすごい経歴を語るサナク。嫌みっぽさはない。本気でそう思っているようだ。
生まれたときから農奴として生きるしかなかったイスメトにはとても共感しがたいが、それゆえに興味深い考えでもあった。
身分が高いからといって、必ずしも納得のいく人生を送れるとは限らないらしい。
「……と、無駄話が過ぎましたね。セト神。そして、イスメト君。そういうことなので、どうかよろしくお願いします」
そう言ってサナクは自分の話を締めくくり、〈至聖の場〉へと続く扉の錠を外した。




