課題
翌日、イスメトは何事もなかったかのようにアウシット州に戻っていた。
ただし、自由行動を許されたとは言いがたい。
なぜならエストの侍女ミィテから、王女のお付きとしてこなすべき、いくつかの課題を言い渡されてしまったからである。
「曲がりなりにも王女の侍従になるのです。せめて字が読める程度の教養は身につけてもらわねばなりません」
その結果、イスメトはアヌビス大神殿にて貴族の子息と机を並べるという信じられない体験をすることになった。
知り合いなど当然いない。隣席に話しかける勇気もない。ただ黙々と、教わった文字を書いたり読んだり。
せめてもの救いは、講師が顔見知りのサナク神官だったことくらいである。
「……では、問題です。これは何を意味する文字でしょうか」
「え、えっと……机?」
「答えは『空』です。こちらは?」
「……ひ、ひよこ?」
「『鼻』ですね。イスメト君、ちゃんと聞いてましたか?」
「す、すみません……」
しかし、文字というものは実に難解だとイスメトは思う。形で意味を推測してみたところでこのザマだ。
「……書き取り、終わりました」
「よろしい。お見せなさい」
「はい……」
「……なんですか、この潰れたヒヨコは」
「『鼻』……のつもりです……」
書くのはもっと大変だった。
そもそも筆記具の持ち方すらマトモに習ったことがない身分だ。いきなりこんな細かい象形文字を書けるわけがない。それも左手で。
「これは……骨が折れますね」
【もう折れてるがな、ククク……】
たまに茶々を入れてくるセトも、円滑な学習を妨げるには十分な働きをする。
いつもの調子で騒ぎ立てるセトに、つい「黙ってろ!」と叫んでしまい、隣席の書記見習いに白い目を向けられたこともあった。
「ほぅ……教師に向かってその態度。良い度胸ですねぇ……?」
ついでに、10枚で終わるハズだった書き取りが100枚に変更された。
「どう? イスメト、文字読めるようになった?」
「う、うーん……まだまだ、かな」
たまに様子を見に来るエストには、苦笑いで返すよりほかない。
なお、アウシット州に顔を出す時のエストはいつも通り書記の格好をしている。こっちの方がイスメトとしてはいくらか気が楽だ。
「ところでイスメト、セトさん。また二人に手伝ってもらいたいことがあるんだけど……」
ある日、授業を終えて神殿を出ようとしたイスメトをエストが呼び止めた。
「え? 別にいいけど……」
【オイ。内容を聞いてから答えろクズ】
「べ、別にいいだろ。どうせ手伝うことになるんだ」
セトの小言ももっともだが、何分、こちらは反逆罪に問われている身だ。エストの頼みを断る勇気など、今のイスメトは持ち合わせていない。
「……それで、何を手伝えば?」
「詳しいことはこっちで」
イスメトは、エストとサナク神官にアヌビス大神殿の奥へと案内された。裁判を行なった講堂のさらに奥にある部屋である。
「ここは〈至聖の場〉と呼ばれる部屋です。この州――いえ、この国で最もアヌビス神に近い場所と言えるでしょう」
サナクが扉の錠を外しながら説明してくれる。
「本当はね、神官しか入っちゃいけない場所なんだよ」
「ええっ!?」
エストの補足に、イスメトはつい声を大きくしてしまった。
「だ、大丈夫なの……?」
「だいじょうぶだよ。ボクたち〈依代〉だし、神様は案外、そういうことにイチイチ怒らないから」
そういえばセトも、神殿の決まりごとは人間が勝手に作るものだとか何とか言っていたような気がする。
「あまりそういうことを吹聴して回らないでくださいよ……恐らく事実ですけど」
サナク神官は呆れたように言いながら、扉を開け放った。
そこは天井から床までが細やかな壁画で彩られた、美しい部屋だった。講堂ほどの広さはないが、奥には立派な社が置かれ、中にアヌビスの神像が祀られている。
「うわっ!?」
しかし、イスメトはその美しさに感動する暇もなく後退った。
アヌビスの神像の前に巨大なワニが居座っていたからだ。
いや、正確にはワニではない。例の合成獣である。
「ア、アメミット……」
「そう。とりあえず、ここに匿ってるんだけど……」
エストは怖じ気づく様子もなく、アメミットに歩み寄ってその頭を撫でている。
「セトさんの力で、アメミットをこの肉体から解放してもらえないかなって」
「解放……? ど、どうやって……?」
「呪術で受肉させられたってことは、〈混沌〉が悪さをしてるはずなんだ。だから、アメミットに取り憑いてるその〈混沌〉を払ってもらいたいんだよ」
あの黒い蛇を使って大神官が村人たちを操ったように、アメミットも〈混沌〉によって魂を操られ、このおぞましい肉体に引きずり込まれたということだろうか。
「エストには、できないの? ほら、あの時みたいにホルスの力で……」
イスメトの疑問に、エストは決まり悪そうに笑った。
「え、えへへ……それがさ、もう何度か試したんだけど、上手くいかなくて。あの時の神術は本当にマグレだったんだよね。ボク、〈ホルスの試練〉も始めたばかりで……まだ〈依代〉らしい力は何も授かっていない状態なんだ」
「え? そ、そうなの?」
「〈ホルスの試練〉は元々、王を選定するためのものだからね。試練をクリアしなきゃ力はもらえないんだって、ホルくんが言ってた」
どうもエストとホルスの関係は、イスメトとセトほど単純ではないらしい。
「だから、お願いします……!」
エストは深々と頭を下げた。
イスメトに――というよりは、恐らくセトにだろう。
【ハッ。なら、この気色悪い護符を外してもらおうか】
「そ、そんなことできるわけないだろ……」
ここぞとばかりに要求するセトに、イスメトはため息をつきたくなった。
【あァ? 別に不当な要求をしてるつもりはねェぞ。それとも何か? テメェは自分で〈支配の杖〉を呼び出せんのかよ】
「……え?」
【〈支配の杖〉がなきゃ〈混沌〉は払えねェぞ】
言われてイスメトはハッとする。
これまで必要なときに自然と現れていた〈支配の杖〉。しかしそれは、セトが必要に応じて貸し与えてくれていたにすぎない。そこにイスメトの意志はなかった。
「もしかして……この護符があると、セトは〈支配の杖〉を出せない?」
【不可能とまでは言わん。が、いちいちクソ鳥頭の守護を破る必要がある分、無駄に神力を喰うのは明白。ホルス派の王女野郎とアメミットごときのために、なんで俺様がそこまでやる必要がある】
「お、王女野郎って……」
酷い響きだが、言い得て妙な称号である。
「うーん……そっかぁ……」
エストは特に気にした様子もなく、ただ困ったように腕を組んでいる。
と思いきや、急に思い立ったようにぽんと手を打った。
「あ、そうだ! じゃあイスメトがセトさんの力を引き出せるように訓練すればいいんだよ!」
「えっ」
「この護符は、神力による干渉から肉体を守るためのものだけど、イスメトから望んでセトさんの力を引き出す分には、たぶん問題ないハズだよ!」
つまり、イスメトの努力次第ではセトの神力を無駄に消費することなく、〈支配の杖〉を使えるようになるということだ。
【ほォん……? そいつは名案だな……ククク】
セトが含みのある笑い声を上げている。
イスメトは、自分の身にさらなる試練が降りかかる予感に人知れず震えた。




