セトの暴走
エストが困ったような、怯えているような、心細い目を向けてくる。
「セ、セト……! お前、まさか……っ!」
イスメトは〈支配の杖〉を握る自分の右腕を必死に押さえ込んだ。
幸い、左腕は自由に動いた。
【なぜ邪魔をする。その腕をどけろ】
「なん、で……! エストは……っ、関係、ない!」
【確かに想定とは違った。が、むしろ好都合だ。コイツの話が本当なら、今ここでコイツを始末するだけで、この世にヤツの〈依代〉はいなくなる。あとはじっくりと各地のホルス神殿を破壊して回ればいい。お前も、自由への一歩を踏み出せるぞ】
「そ、そんな――!」
イスメトは懸命に内なる力に抗った。
「ダメだ! エストはむしろ……っ、僕らを助けて……!」
【ホルス派はホルス派だ。遅かれ早かれ滅ぼす】
「な……ッ!?」
セトはまるで聞く耳を持たない。
だが、こちらにだってセトを止める手段はある。
これまでの経験上、セトは〈依代〉の許可がない限り、全身を自由自在には動かせないはずだ。ならば――
「貸さない! そんなことのために体は貸さない! 僕を……僕を操るな!」
【チッ! 余計な知恵まわしやがって――ッ!】
異なる二つの意志に翻弄され、イスメトの体はその場で硬直する。
しかし、セトも退かない。今度は足が、エストの方へ踏み込もうとする。
イスメトは咄嗟に叫んだ。
「エスト逃げろ! このままじゃセトが君を……っ!」
「――その心配はありません」
返したのはエストではなかった。
イスメトの背筋に怖気が走る。それが、敵意や殺気の類いであると感じた時にはもう、右腕と肩を掴まれ床に押さえつけられていた。
直後、乾いた音とともに右腕に激痛が走る。
「うあ゛ぁァ――ッ!!」
イスメトの絶叫が辺りにこだました。
手から〈支配の杖〉がこぼれ落ちる。
イスメトの右肘の関節が、普段とは逆の方向に曲がっていた。
「ミィテ!」
「失礼。ですが、エスト様の安全のためです」
エストの悲鳴にも似た呼びかけに、淡々と答えたのはミィテ。
いつの間にかイスメトの背後に現れた彼女が、イスメトの頭を踏みつけ、腕を後ろに締め上げていた。
【チッ――この女、神術師だったか。まあいい】
セトの舌打ちと同時に、イスメトを操らんとする神の力は消える。
しかし、イスメトは依然として動けないままだった。
理由はミィテにのし掛かられていること。そして、腕に走る激痛と、そのショックからくる激しい吐き気である。
「ミィテやめて! イスメトのせいじゃないんだ!」
「ええ、存じております。ずっと屋根の上で聞いておりましたから」
イスメトはミィテに襟首を掴まれ、無理やり立たされる。腹を見張り台の欄干に押しつけられ、大きく上半身を乗り出す格好となった。
「ですが、荒ぶる神を制御できないのであれば、〈依代〉も同罪です」
そして、そのまま見張り台の外へ――空中へ投げ出される。
「イスメト――!!」
エストの悲鳴のような声は、頭上へ流れ去った。
【チッ――!】
セトはイスメトの左手に再び〈支配の杖〉を召喚した。そのまま左腕を操って杖を地に突き立てる。
危うく頭から地面に激突するところだったイスメトは、そんなセトの機転によってなんとか受け身を取れた。
結局、足での着地には失敗。肩から落ちたが、杖が衝撃を逃がしてくれた上、頭を打つよりは幾分もマシな結果だった。
【関節を外されたか。オイ、テメェで動けねェなら体を貸しな】
「……っ、ダメ、だ」
【ハ?】
腕の痛みに悶えるイスメト。セトの言うとおり、自分ではここから動けそうもない。
しかし、だからといってセトの要求を呑むつもりもなかった。
【テメェ分かってんのか。ここで捕まりゃ、今度こそ処刑待ったナシだぞ】
「お前に……体を、貸したら……エストが、危ない……!」
セトは呆れたように鼻を鳴らした。
【ハッ! 本当に筋金入りのバカだなテメェは! 好きにしな……!】
ほどなくして、騒ぎを聞きつけた男たちにイスメトは捕縛される。
――また、処刑場か。
明滅する意識の中で、嫌な予感はチクチクと臓腑を刺激していた。
イスメトは腕の痛みと吐き気に溺れる。
それでも、唇を噛んでなんとか意識をつなぎ止めていた。セトに体を奪わせないためだ。
「やれやれ。少年も苦労するねぇ……」
どこかへ連行される途中、アルヒドの声がすぐ傍で聞こえたような気がした。
そこからの記憶はひどく曖昧だ。
ホルス神官団によって神殿らしき場所に連れてこられたり、別の狭い部屋で床に横たえさせられたり。
「痛み止めだ。飲みなさい」
医師らしき男に苦い水を飲まされたあたりで、イスメトの意識は途切れた。
次に目が覚めたときは、まったく知らない部屋にいた。
処刑場ではない。牢屋でもない。縛られてすらいない。
知らない天井、知らない寝台、知らない匂い。
ちょっと甘くて、良い匂いがする。
――これは、香水?
「お目覚めですか」
瞼を持ち上げると、こちらを覗き込むミィテの鋭い黒い瞳と目が合った。
「うわぁっ!?」
ぎょっとしたイスメトは慌てて上体を起こす。ミィテはスッと身をひいてイスメトとの衝突を難なく回避した。
一気に目が覚めた。
「まったく……アポピスにその身一つで立ち向かったと言うわりには、ただ神に操られるだけのお人形と言ったところですね」
ミィテは呆れたようにこちらを見下ろしている。
まるで汚物でも見るかのような、嫌悪に満ちた目だ。
「ぼ、僕は……どうなったんですか?」
「見ての通りです」
イスメトは自分の右腕を持ち上げた。肘の関節は何事もなかったかのように元通りになっている。一方で手首はしっかりと包帯で固定されており、動かすことができない。
「……脱臼はすぐに処置を。しかし、私としたことが少々加減を誤ったようで。手首を骨折しています。しばし、ご安静に」
「そ……そう、ですか……」
イスメトはようやく冷静になってきた。
窓から日が差している。太陽は東の空。どうやら一夜が明けたらしい。
働き始めた思考で、今の状況の違和感に気付く。
「あ、あの……どうして、治療なんか……」
セトがエストを殺そうとした。
イスメトの認識ではそうなっている。しかし、神の声など聞こえない人々にとっては、イスメトがエストに危害を加えようとしたふうに見えたはずだ。
もはや自分は反逆者。殺されこそすれ、治療を施す理由などないはずなのに。
「警告!」
「――ひっ!?」
ミィテはどこからともなく取り出した短剣を、イスメトの首筋に突き立てる。
「こうしてお前の命があるのは、エスト様のご厚意です。私はお前を即刻処刑すべきだと進言しましたが、聞き入れていただけませんでした――本当に、手緩い」
「す……すみません……っ」
イスメトには謝ることしかできなかった。
「首の護符」
「は……はい?」
キンキン、と硬質な音がすぐ傍から聞こえる。
ミィテが短剣の切っ先でつついたのは、いつの間にかイスメトの首に取り付けられていた黄金の首輪だった。
指されて初めて、イスメトはその存在に気がつく。
「ホルス神の護符です。神官団にまじないをかけていただきました。それを身に着けている間は、悪神に体を奪われることもないでしょう」
「あ、悪神……? もしかして……セトのこと、ですか?」
「警告!」
「はっ、はい!」
今にも首を引き裂かんばかりの形相で切っ先を突きつけてくるミィテ。
イスメトは両手を上げて硬直した。
「貴様がその護符を一時でも外したが最期、その首を即刻――」
パリンッと陶器か何かが割れる音がする。
ミィテの左手に握られた花瓶――恐らく、寝台の近くに備えられていたもの――が、その握力に断末魔を上げたのだ。
「撃砕、します」
「ハ……ハイィッ……!」
情けないが、ちょっとチビりそうになった。
「……では、私が戻るまでしばらく待機を」
それだけ言うとミィテは何事もなかったかのように短剣をしまい、涼しい顔で部屋から出て行く。
「トイコス。見張りを」
彼女と入れ違いに扉から現れたのは、壁のような大男だった。
「……」
トイコスと呼ばれた男は、ミィテの呼びかけにただ頷いて扉の前に立ち塞がった。
その巨体は、足をかがめなければ入り口を通り抜けられないほどだ。背丈も筋肉も並みではない。ライオンに噛まれても平気そうな屈強さである。
彼もホルス神官団の一員なのだろうか。宴会にはいなかったと思うが。
確かめようにも、挨拶できるような空気ではない。
イスメトはしばらく重い沈黙と男の無感情な視線に耐える必要があった。
「トイコス、邪魔です」
一時間くらいして、ミィテが戻ってきた。
邪魔者扱いされたトイコスは、やはり無言のままミィテに道をあける。
「どうぞ、こちらへ」
「え……?」
イスメトが呆然としていると、ミィテは顎でクイと廊下を指した。
気のせいだろうか。その表情はどこか疲れているように見える。
「……王女が、改めて話があると」
ついて来い、ということだろう。
今度こそ首が飛ぶ覚悟をしなければならないのかもしれない。
イスメトは生唾を飲み込み、立ち上がった。




