王女の夢
エストに手を引かれ、広間を後にするイスメト。
広間横の扉を抜けると、ランプの無い廊下が続いていた。天窓から差し込む月明かりだけが薄く辺りを照らす。
「あ、あのっ、エスト……!?」
気にしないように意識すればするほどに、なぜだろう。
イスメトの指先の感覚が研ぎ澄まされていく。
握られている手の温かさだとか。小ささだとか。柔らかさだとか。
「もっと静かなところで話そう」
対するエストは特に何も感じていないようである。
「だ、だだだ大丈夫!」
梯子がかけられた壁際まで来たところで、イスメトは慌ててエストの手を振りほどいた。何が『大丈夫』なのか自分でもよく分からなかった。
エストは小首をかしげている。
「あ、ごめん! ひょっとして足、まだ痛んだ?」
「……え?」
幸い彼女は、イスメトの拒絶を違う意味で捉えてくれたらしい。
「あ、ああ……いや、それはもう平気だよ」
「そっかー! よかった! アヌビスのご加護だね」
「……アヌビス?」
エストはイスメトの左足に巻かれている包帯を指さす。
「それ、アヌビスに加護をもらった包帯なんだよ。ほら、アヌビスはミイラ作りの神様でしょ? その包帯はあらゆる汚染や腐敗から肉体を守ってくれる。だから、傷の治りもウンと早くなるんだ」
「そう、か……どうりで……」
怪我や病気は、神官に祈祷してもらうと治りが早くなる――そういう認識は昔からあったが、ちゃんと根拠もあったらしい。
「まあ、そもそも〈依代〉は普通の人より回復力が高かったりするんだけどね。半分神様みたいなものだから」
「へえ……」
そういえば、背中の矢傷が一晩で消えていたこともあった。
【アレは俺の神域内だったことがデカい。死ぬ時は普通に死ぬぞ】
もしかして不死身――などと考えていると、セトに釘を刺された。
「ボクもアヌビスの包帯にはよくお世話になったなぁ。木から落ちて足折れちゃった時とか!」
「え、ええぇ……?」
何やってるんですか、王女様。
エストの告白にイスメトは苦く笑うしかない。
「ね、こっちこっち。良い景色なんだ」
エストは動きにくそうなヒラヒラの衣装などお構いなしに、壁に掛けられた梯子を登っていく。イスメトも続こうとして上を見上げ――慌てて俯いた。
「……? 早くおいでよ」
「え、あ……う、うん」
そのまま硬直していると、エストが不思議そうに呼びかけてくる。
なんというか、彼女はもうちょっと色々なところに気を遣うべきだと思う。特に男装をしていない時は。
イスメトは梯子が揺れなくなったのを確認してから、呼吸を落ち着けてエストの後に続いた。
「うわ……」
梯子の先は見張り台だった。屋敷の庭が一望できる。
さらに丘の下の町並みや、ナイルの流れ、対岸のアウシット州までもが、ぼんやりと見渡せた。
暗闇に包まれた夜の世界を、白い月と星々が青く照らしている。
「ボク、この屋敷ではここが一番好きなんだ。上がるといつも怒られちゃうけど」
「あ、はは……そりゃ、ね」
ミィテの叱責の声が聞こえるようだ。
「でも、綺麗でしょ?」
「そうだね……ナイルって、本当にずっと続いてるんだ」
イスメトは南の方角へ視線を向ける。どこまでも続くような大河の輪郭は、遠くにいくほど闇に溶けておぼろげになった。
この河の続く先に、エストが生まれ育った王都もあるのだろう。ここからでは、たとえ昼であっても見えないだろうが。
「ねえ知ってる? ナイルの先に何があるか」
「え、それは……海、じゃないの?」
「ふっふっふ、違うんだなぁ~。ボクが言ってるのは、海のもっと向こう側の話だよ」
エストは何やら得意げに目を細めている。
「ナイルの先にはね、世界の壁があるんだよ」
「世界の……壁?」
イスメトは海の先に断崖絶壁がそびえ立つ様を想像した。
「そう。それでね、その世界の壁の向こうには、もっともっと広くて大きな世界があるんだ!」
「なにそれ……おとぎ話?」
「ち、ちがうよ! お父様から聞いたんだから本当の話さ! ……たぶん」
国王が言うのならば真実味がありそうだ――と、一瞬信じかけたイスメトだったが、すぐに思い直す。
エストがその話をいつ聞いたのかによって信憑性は変わってくるだろう。子供の頃に寝物語で聞かされた話であるならば、八割がた作り話だ。
しかしエストは夢見る少年のような瞳で、北の方角を指さした。
「いつかボクが国王になったら、世界の壁の向こう側を見に行くんだ!」
「あ、はは……なんか、スケール大きい話だな」
国王になる。
ただそれだけでも、もの凄く大きくて立派な夢だ。しかしエストは、さらにその後のことを見据えている。
「エストは……本当に、王女様なんだね」
「うん、そうだよー」
「その……聞いて良いのか分からないけど。王女様がどうして、こんな田舎に……? それも、書記のフリなんかして」
イスメトは、ずっと聞きたかったことをようやく口にできた。
エストは空を見上げ、鼻歌を歌うように「うーん」と小さく唸る。言い渋っているというより、どう話すべきかを考えているようだった。
「書記の『フリ』じゃないよ。本当に、書記の試験には合格してるから。あのトキの徽章も、ちゃんと知恵の神・トトの神官団から自分で授かったものなんだよ?」
「え? そ、そうなんだ……」
書記の試験がどんなものなのか、もちろんイスメトは知らない。
ただ、書記は子供の頃からずっと勉強をして、ようやくなれる職業だと聞く。試験も相応に難しいはずである。
――やっぱり、王女様は生まれた時から格が違うのかな。
なんだか別世界の人間と話しているようだった。
「……って、そんなことが聞きたいんじゃないよね。えへへ」
イスメトがただただ感心していると、エストはごまかすように笑う。
「えっとね……実はこれは、修行の旅なんだよ」
「修行……?」
――王女様が?
諸国遍歴の旅をする兵士や神官ならば、たまに見かける。しかし、王侯貴族がそういうことをしているという話は聞いたことがなかった。
まして王女が修行に出るなんて。
「ボクは将来、立派な王様になる。だから、今はそのために修行をしてるんだ。これはお父様から直々に申しつけられた、ボクの特別な任務なんだよ!」
エストは誇らしげに胸を張った。
薄い布の下で強調されるささやかな膨らみが、やはり彼女が女性であることを伝えてくる。
――って、僕は何をまじまじと……っ!
理性に咎められ、イスメトは外の景色に無理やり視線を移した。
幸いエストに気取られた様子はない。
「そ、そうか。王様になる修行……か。そう、だよね。エストのお父さんって……国王なんだもんね……」
――ん? 国王?
その言葉を口に出したところで、イスメトはようやく気付く。自分が今の今まで、肝心なことを忘れかけていたことに。
それは、セトとの出会いから始まったこの第二の人生における、最も重要な懸案事項。
――あれ? 国王とか、王女って……
契約をしたばかりの頃に、セトに言われた言葉が心によぎる。
『俺が最も望むこと。それは、我が憎き仇敵・ホルスの一族を……この国の王侯どもを、一人残らずブチ殺してやることだ!』
――セトの敵、なんじゃ……?
そんなイスメトの焦燥が伝わったかのように。
あるいは、最初からそれを告げるタイミングを見計らっていたかのように。
【――で。いつまで猫をかぶってやがるつもりだ? ホルスの〈依代〉さんよォ】
セトが言い放った。
「……え?」
確かに言った。『ホルスの依代』と。
問題は、誰に向けて言ったのかだ。
ここに人間は二人しかいない。すなわちイスメトとエスト。ただ二人だ。
イスメトはエストを見た。エストは――
笑った。




