王女は友達、怖くない
約束の時間はあっという間にやってきた。
イスメトは定員三名ほどの簡素な葦船に乗り込む。乗員はアルヒドと自分の二人。
向かうはナイルを挟んだ対岸――タウラ州だ。
距離としては船で一時間もかからないが、住居の自由が認められない農奴のイスメトにとっては初めての他州訪問になる。
「ハハハ、そんな緊張しなさんな。取って喰おうってんじゃないんだから」
「は……はい……」
しかし今は、ナイルの雄大な景色だとか、初めて見る町並みだとか、アルヒドとの会話だとかを楽しむ余裕などなかった。
船の上でイスメトはただ固まっている。
「ま、無理もないか。まさか王女だとは思わんよなぁ~。オジサンも昔は騙されちゃったねぇ」
「え……? エスト――さまって、いつもあんな……その、男みたいな言葉使いをしてるんですか?」
男まさりなんですか――とはさすがに聞けなかった。
「そうねぇ~。オジサン傍付きじゃないからアレだけど、外では大体あんな感じだよ~?」
アルヒドは困ったように笑う。
「でもまあ多分、あれがあの子の素なんだろうねぇ~。王宮は窮屈だから」
「王宮……」
――本当に、王女様なんだ。
ようやく現実に頭が追いついてきたような気がする。
処刑場でのエストの言葉を疑うわけではないのだが。
「ああそうそう。本人の前で『エストさま』なんて呼んだら、怒られちゃうぞ? 嬢ちゃんはあくまでも『友人』として少年を招待してるつもりだからさぁ」
「え、で、でも……失礼じゃ……」
「気にしなさんな。エストちゃん、その辺かなり大らかよ?」
こっちが気にするのだ。
エストの侍女と思しきミィテが終始『様』を付けて呼んでいたこともある。やはり、農奴の自分が王女様を呼び捨てにするのはいかがなものか。
いやそれ以前に。
イスメトは過去を振り返った。
――僕、王女様に向かってかなり失礼なことばかりしてたんじゃ……?
肩を掴んで揺すったり。
しっかりしろよと怒鳴ったり。
変わったヤツだと言ってみたり。
――っていうか、そもそも話しかけること自体……!
イスメトは頭を掻きむしった。
考えれば考えるほどに『不敬』の二文字が頭から離れなくなった。
「おいおい、大丈夫かい? 頭」
「……どちらかというと首が心配です」
「……?」
アルヒドは怪訝な顔をしていた。
やがて港に到着する。
他州とは言っても、やはり近隣地域。町並みや地形はアウシットと大差なかった。
砂レンガで作られた四角い家が立ち並び、季節がら水没を始めている平らな耕作地や、葦の茂る水辺など、見慣れた景色が続いている。
「ほい、到着」
エストの屋敷は、小高い丘を登ったところにあった。正確には、ホルス神官団の有する王侯貴族向けの宿泊施設らしい。門には隼を象った大きなレリーフが飾られている。
広さはアウシットの州侯邸と同じくらいだろうか。庭には庭師ではなく、訓練中の兵士たちが集っていた。
「お待ちしておりました」
建物の前で迎えてくれたのは、エストの侍女・ミィテ。
まるで貴賓に対するような丁寧なお辞儀を受け、イスメトは慌てて頭を下げた。
「それでは、広間へご案内します」
「は、はい……」
屋敷は、玄関だけでもイスメトの家ほどの広さがあった。
左右には四つの扉。うち、一つは開け放たれており、そこから香ばしいパンの香りが漂っている。厨房に続いているのだろう。
ミィテはどの扉にも向かわず、まっすぐ二階への階段を上る。
「エスト様からのご伝言です。どうぞごゆるり、いつも通りに過ごしてくださって構わない、とのことです」
「い、いつも通り……ですか?」
「特別にかしこまる必要はない、ということです。無礼講、ですね」
アルヒドにも似たようなことを言われた。
しかし、だからといってすぐに素に戻れるならば、最初から緊張などしていない。
「それでは、どうぞご歓談を」
ミィテは踊り場で立ち止まり、イスメトに先を譲る。
先ほどから彼女はニコリともしない。そもそもそういう性格なのだろうが、今は愛想笑いの一つでもしてくれたほうが、こちらとしても『ごゆるり』できそうなものである。
イスメトは恐る恐る、階段の残りの数段を上っていく。
「うわ……」
目に飛び込んできたのは、広くて華やかな空間だった。
そろそろ日も暮れる頃合いだというのに、室内は昼間のように明るい。各所に灯されたランプに照らし出されるのは、美しい模様の描かれた壁や床だ。
まるで日常から切り離された別世界。
そして、特筆すべきはやはり部屋の中央、二列にずらりと並べられた大皿の数々だろう。
パンだけでも色・形の異なるものが十種類はある。さらにシリアル、果物、野菜、魚、肉などなど、村の蓄えを全て引っ張り出しても負けるであろう豪勢な食事が、縦に長く整列していた。
ざっと見て、三十人分くらいはある。他にも客がたくさん来るようだ。
奥の窓際には一人分の食事を乗せたテーブルと椅子。明らかに他とは区別されているので、ここにエストが座るのだろう。
ただ、肝心のエストの姿はどこにも見えなかった。
「え、えっと……僕は、どこにいれば……?」
誰もいない空間に戸惑い、イスメトはすぐさまミィテを振り返る。
彼女は最初、眉を寄せたが、イスメトを追い越して部屋を確認するや「失礼」と言い残して三階への階段を駆け上っていった。
「あっ、ミィテ!」
階上の様子に聞き耳を立てると、エストのものと思しき声が聞こえた。
「もしかして、もう来ちゃった?」
「ええ。ところで、エスト様……? なぜ、先ほど整えたはずの御髪がパピルスの葉よろしく四方八方にさばけている上、髪飾りが木の枝にすり替わっているので……?」
「え、うそ!? あ、ホントだ……え、えっと……えへへ……その、子猫が木から降りられなくなっててさ? 助けようとしたら引っかかっちゃって……それで……えっと、ちゃんと自分で直そうと――」
「言訳無用!」
ミィテの怒声の直後、ドタバタと複数の足音が天井を移動していった。
「ご、ごめんなさあぁぁいッ!!」
その悲鳴は、聞き耳を立てずとも屋敷中に響き渡っている。
――なんだ、いつものエストじゃないか。
そう心のどこかで安心するイスメトがいた。
「ハハハ、元気だねぇ~」
後ろでアルヒドも笑っていた。




