契約
気付いた時、イスメトは暗闇の中に立っていた。
何もないのか、何も見えないのか。
それさえ定かではない闇の中で、自分の体だけはハッキリと視認できる。それがなんとも気持ち悪かった。
「なっ……なんだここ? それになんで……」
背中に触れる。何もない。
矢も、傷も、痛みさえ、きれいサッパリ消えている。
このような非現実を体験して、この国の人間が真っ先に思い浮かべることはただ一つだった。
「僕は……死んだ、のか?」
死んで、魂だけが冥界にやって来た。
つまりここは死後の世界。死者と神々が住まうという、夜の世界。
【半分は当たっている。が、お前はまだ死んじゃいないぜ】
イスメトの月並みな想像を否定したのは、例の男の声だった。
「だっ、誰だ……ッ!」
答えはない。ただ不気味な笑い声だけが闇に響く。
声はすぐ近くから聞こえるのに、話者の姿は見えない。不気味を通り越して、気が狂ってしまいそうだ。
【お前、なんでこんな辺鄙な場所で死にかけてるんだァ……?】
「だっ、誰なんだ……!?」
【ハハァン、そうか。友を庇ったか。そいつァ殊勝なことだなァ? ククク……】
「なっ……」
心が読まれている。
イスメトはそう感じた。
【お前は常々、何者かになりたくて、何かのために生きたい……そう思ってきたようだな。分かるぜ坊主……誰も道端で踏みつぶされる虫ケラになんざ、なりたくねェよなァ? たとえ生まれつきの虫ケラでも】
「……っ! 何なんだ、お前は!」
【あァ? 神サマだよ、神サマ。たった今、テメェ自身で祈りを捧げたんだろォが】
――神様? あの、朽ちかけた祭壇に祀られていた?
【だがなァ、坊主。誰かのために生きるのと、誰かのために死ぬのとじゃ、天と地ほども差があるってこと、知ってるかァ?】
「な……何が、言いたいんだ」
【なァに、ちょっとした提案さ】
自らを神とのたまう声は、うろたえる小さな人間を見て楽しむように、軽い調子で続けた。
【俺への供物として、お前の心臓を捧げろ。そうすりゃ、特別に助けてやる】
「し、心臓……!?」
イスメトは思わず胸に手を当てた。
そんなことは物理的に不可能だ。捧げる捧げない以前に、どうやって体内から取り出すというのか。
そもそも、そんなことをすれば死ぬ。確実に死ぬ。
【さァてな? お前のその手にあるモノはなんだ……?】
イスメトは自分の手の中を見て息を呑んだ。
弱々しく脈打つ、手のひらサイズの赤い塊。
初めて見る。けれどそれが何なのかは不思議と分かる。
――これが、僕の、心、臓……?
【これは契約だ。俺はお前の体を通じ、現世へと顕現する。その時お前は、神の〈依代〉として新たに生まれ変わることになる】
「生まれ、変わる……? まだ、生きられるって、こと?」
【そうだ。ただし、お前には俺様のためにいくらか働いてもらうがな……】
神の奇跡で命を助ける代わりに、神に仕えろ――そういうことらしい。
【悪い話じゃねェだろう? ククク……】
「お前は、いったい……」
【それを問う意味があるか? 今のお前に】
イスメトは返答に詰まった。
確かに、声の主が何者であるかなど、事ここに至っては関係がないのかもしれない。
【お前の選択肢は二つだ。生きるか、死ぬかのな】
これが邪悪な神の誘惑だったとして、自分の命を躊躇なく捨てられる人間などいるのだろうか。
イスメトだって、けして信じていたわけではない。
自分の命に価値がないなど。
自分の人生に意味がないなど。
理性が諦めを提案しても、体が暴力に屈しても、心臓は、心は、確かにまだ動いている。命さえあれば、結末はいくらでも変えられる。
そう信じる心はまだ、生きている。
「……わかった」
【よし。なら、心臓を秤に置け】
「はかり……?」
そんなものどこにも――と言おうとした矢先だった。
イスメトが秤という言葉を意識した瞬間、さっきまで何も無かったはずの空間に巨大な天秤が現れた。あたかも、昔からそこに佇んでいたかのように。
美しく飾られた金の天秤。
その片皿には、どこかで見たような朽ちかけの石像が乗っている。
【急げよ。もたもたしてると、本物のお迎えが来ちまうぜ……?】
イスメトは意を決して天秤の前に進み出る。そして、少しずつ鼓動を弱めていく自分の心臓を、恐る恐るその左皿に乗せた。
右に傾いていた天秤が、ゆっくりと動き出す――
【ククク……物わかりのいい奴は嫌いじゃねェ】
かくして、心臓と神像が釣り合った時。
古の楔は解き放たれる。
まばゆい輝きを放つ天秤。その光の幕の先に、イスメトは何者かの影を見た。
長く幅広な二本の耳。狼のような頭部と曲がった鼻先。筋肉質な体躯。その手には長杖を携えた、半人半獣の男の姿――
【我は吹き荒れる砂漠の一陣。力偉大なる者にして、嵐と暴風の領主】
そして、少年は知ることになる。
自分に語り掛けてきた神の正体。
己が命を救い、あるいは巣食い、導き、蝕む、強大なる〈運命〉の名を――
【唱えろ、我が名は――セト!】
■
侵入者を追うさなかに、床下から現れた太古の神殿。
少年を射殺した神兵は、その古めかしい祭壇に興味を示した。近くにいた仲間を呼び寄せ、改めてその神聖なる場所に足を踏み入れていく。
そして――
おもむろに立ち上がるソレを見て、戦慄した。
背に突き刺さる三本の矢。それをまるで髪紐でも解くかのような軽々とした動作で、少年は一本ずつ抜いていく。
したたり落ちる、おびただしい量の血液。
その体が負うのは、死を呼び込むには十分すぎるほどの深手に思われた。
しかし、そんな瀕死の少年が――今ごろ冥府の番犬に魂を運ばれているであろうはずの死者が、こうして目の前に立っている。
不敵な笑みを浮かべながら。
「よぉ、ニンゲン。俺様と遊ぼうぜ……!」
血気盛んな神兵たちも、これには肝を抜かれた。
「あ、ありえない! い、生きてる……はず……!」
少年に矢を射かけた張本人は後退り、瓦礫に足を取られる。
その眼球を一筋の風が貫いた。
少年が、たった今自分の体から抜き取った矢をその手で男に投げ放ったのだ。
「バッ、バカな……!」
「な、なんだコイツ……!?」
矢を投擲することによって弓並みの威力を叩き出した少年と、その一撃で絶命した仲間を目の当たりにした兵たちはどよめく。
「ひ、ひるむな! 相手はガキ……しかも手負いだぞ!」
所詮は死にぞこない――そう思った一人が、得物を振りかざして少年に肉薄する。
しかし、無防備に佇んでいるかに思われた少年の手が光に包まれたかと思うと、その手中には青鈍色の杖が現れた。
少年は、眼前にまで迫っていた刃をその杖で悠々と受け止める。
「ハッ……こんなものか?」
そして、男の剛腕を軽々とあしらい、剣を叩き落としたところで喉を一突き。
即死こそしなかったが、呼吸困難に陥った男は血に溺れるような呻きを残して崩れ落ちた。
「コイツ……ッ! クソッ、ふざけやがって!」
「やっちまえ!」
残された二名は怒りに我を忘れたか、あるいはそもそも初心者なのか。連携するでもなくバラバラに飛びかかってくる。
その選択をした時点で、彼らの命運は尽きていたのだが。
突如として巻き上がるのは、風。
粉塵により視界を奪われた両名は、こんな場所で起きるはずのない突風に当惑し――気づいた時には地に伏していた。後頭部を的確に殴打され、成す術などなかった。
「ほォん……悪くはねェな」
少年の姿をした何かは、感覚を確かめるかのように自分の体を眺めまわし、ニタリと笑う。
「なんだ、何事だ……!?」
物音を聞きつけたか、神官の格好をした男が天井の穴から顔を出した。
それを確認すると同時に、少年は強く床を蹴る。
再び巻き上がる風。
「邪魔するぜ」
「ぉがっ!?」
5キュビトの高さを一足で跳び上がった少年は、神官の背を踏みつけ、さらに高く跳躍した。木造の簡素な天井を杖で突き破り、見晴らしのいい屋根の上へと躍り出る。
屋根からは、入り口で起きる暴動の様子と、庭を駆けずり回る兵士たち、そして外壁を蟻のようによじ登るいくつかのグループが見えた。
「ハハァン。なるほど?」
少年は静かに庭へと下り立ち、外壁に近づきつつあった兵たちを奇襲。ことごとく背後から殴り倒す。
それから再び屋根へと戻り、そのまま外壁を一気に跳び越えた。
風をまとい、落下の勢いを殺しながら、神殿外の草地へと下り立つ。
「……イスメト?」
ほどなくして、草陰から見知らぬ少年が顔を覗かせた。
「おまえ……! ぶ、無事だったのか……!」
歓喜に目を潤ませながら、こちらに近寄ってくる。
そんな彼の様子を見て、少年の姿をしたモノは思った。
――ちょうどいい頃合いだ。
「ちょ、イスメト!? しっかりしろよ! おいッ!」
友と思しき少年が駆け寄ってくるのを確認した直後、彼はその場にゆっくりと倒れ込んだ。
16年で幕を閉じるはずだった、ある少年の命。
死の運命を引き延ばすための代償は、けして安いものではなかった。
しかし、そのことにイスメト自身が気づくのは、しばし先の話になる――