運命の悪戯
州侯の掲げた手が振り下ろされる。
処刑人が槍を突き出す。
鋭利な切っ先が陽光に反射して閃き――ゾスッ、と渇いた音を立てて刺さった。
イスメトの腹に、ではない。
はるか頭上にである。
「ハハ、悪く思うなよ少年。オジさん、時間稼ぎが仕事でねぇ……ドキドキしちゃった?」
壮年の男は悪戯を楽しむ悪童のように笑って、杭から槍を引き抜く。
年甲斐もないその笑顔が何を意味しているのか、イスメトにはまったく理解が及ばなかった。
ただ、今も心臓が動いていることに――息をしていることに、困惑すると同時に微かな希望を感じた。
「処刑人! 貴様、何をやっている!?」
すぐさま州侯の怒声が響く。
しかし男は、悪びれる様子もなく堂々とした足取りで数歩、州侯に歩み寄った。
「すみませんねぇ~州侯殿。ナイルシア王家より、直々に命令を賜ったもので……この少年を今ここで処刑するわけにはいかんのですよ」
「王家だと……? 戯言を!」
「それが本当なんですけどねぇ~……命令に従うフリをして、できるだけ長くあなたをここに足止めしておくよう頼まれまして」
「馬鹿な。いったい誰の命だと――」
困惑する州侯の言葉を遮るように――
「私です」
凜とした声が、その場に響いた。
イスメトは処刑人から視線を動かし、声がした方向を見やる。
いつの間にか、処刑場の外周を囲う官兵の数が増えていた。
腰に青い前垂れを巻いた、見慣れない装備の兵たちが隊列を組んで広場に割って入ってくる。
村を取り囲んだ官兵たちの特徴とは一致しない。州侯の兵ではなく、別の部隊のようだ。彼らの胸に光るのは、隼を象った金の首飾り。
――どこかで見た気がする。
「ホルス神官団だ!」
「ど、どうしてこんなところに……」
騒ぎ出す〈太陽の民〉たち。
ホルス神官団――それは王家直属の軍隊である。
ホルス神はもともと戦の神だった。その信仰から生まれた神官団は、力を得るにつれ国を守る『軍隊』としての役割を担うようになり、やがて他の神官団とは一線を画す存在となった。
州に配属される官兵は、言うなればホルス神官団の末端機関。
今の状況は、国軍の中でも特に権威の強い軍団が、配下にある地方の軍団を視察に来ているようなものだった。
そんなホルス神官団の隊列を割るようにして。
一つの小さな陰が歩いてくる。
空の青をまとう兵たちは、その歩みに合わせるように次々と膝をつき頭を垂れた。
「……え?」
イスメトは現れた人物に確かに見覚えがあった。
しかし、それゆえに自分の記憶と目を疑った。
「な、何者だ……?」
「私の名はホルエスト」
透き通った青空のような瞳をした少女が、州侯ににっこりと微笑む。
「ナイルシア王国・第三王位継承者――この国の王女です」
知っている。
イスメトはこの笑顔を知っている。
「王……女?」
目を見開く州侯。ざわつく民衆たち。
イスメトも例に漏れず、唖然とその少女を見つめていた。
【ホル……だと?】
セトの殺気立った声が響く。
が、それに気を回している余裕など今のイスメトには無かった。
ホルエストと名乗った少女は、美しいリネンのケープをたなびかせながら州侯の前へと進み出る。
「州侯。あなたのお話によると私は100人の家臣を連れて、このアウシット州に立ち寄ることになっていたようですね……なので、お望み通りにやって来ましたよ」
王女は――エストは、数名の兵を伴いながら広場の真ん中まで来ると、優雅にお辞儀をして見せた。
「さすがに、100人の家臣をいきなり招集するのは無理でしたが……30名ほどは集めました」
「な……っ!? この、顔……声……」
州侯もようやく、目の前に立つ少女と、屋敷で会った彼が同一人物であることに気付いたようだった。
「あ、え……エスト? ……えっ?」
イスメトの思考は、なおも混乱し続けている。
僕はまず、どちらに驚くべきだろうか。
まさか『王位継承者』だったとは?
まさか『女の子』だったとは?
エストは民衆には届かないほどに声を落として、穏やかに微笑む。
「上手くごまかして時間を稼ぐつもりだったんだろうけど……相手が悪かったね。ボクの前で王女にまつわる嘘をつくなんて。確かに巡礼はしてる。けど、少数精鋭だよ」
エストはネズミを追い詰める猫のように、ゆっくりとした足取りで州侯に近づく。
あくまでも、笑顔で。
「ねえ、どうして嘘を吐いたんだい? 言ってごらん……?」
言葉を失う州侯。その顔には明らかな焦燥が貼り付いていた。まさか演技ではないだろう。
エストは、州侯が何も返さないと見るや途端に興味を失ったように身を翻し、民衆たちに向き直る。
誰もが、王女の登場に目を見張り、注目していた。




