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甘え

 イスメト、もといセトは走った。神力によって追い風を発生させ、その速度はすでに人の領域を超えている。

 しかし、光の矢を導くのもまた神の力。

 何度避けても空中で方向を変え、気付けば再び背後に迫っている。


 ――いったい、どこまで追ってくるんだ。


【獲物か、何かにブチ当たるまでだ】


 セトは木や岩を盾にし、時には杖で打ち払いながら矢の本数を減らしていく。

 が、追ってくるのは矢だけではない。当然、神術師たちも追跡してきていた。

 こちらの足が止まるまで、射撃は続く。


【チッ。一人一人は凡庸だが、ちぃと数が多い。こうなりゃ……】


 セトは進路を変えた。

 大神殿に続く道から、町の中央へと伸びる大通りへと。


 ――セト! そっちには人がたくさんいるぞ……!?


【ハッ! だから行くんだろうが】


 朝を迎え、活動を始めた人々の往来。

 その混雑の中をセトは駆け抜けていく。人々の注目、および悲鳴を一身に浴びながら。


「ば、馬鹿野郎! どこ見て歩いて――」


 セトに突き飛ばされた男性は、憤慨した様子でこちらを睨みつけた。しかし直後、腕に抱えていた大振りの壺が、ホルスの矢に打ち砕かれるのを見て絶句する。

 さらにセトは、家の壁に穴を開けたり、棚に並ぶ工芸品を台無しにしたりと、あちこちへ被害を振りまいていく。

 そのお陰で、追跡の矢を順調に減らしてはいた。


 しかし。


 イスメトは見逃さなかった。

 セトの振り切った矢が、たまたま近くを通りかかった女性の足を射抜くのを。

 水瓶を運んでいた男性の肩を抉るのを。

 通りで遊んでいた子供の腹に突き刺さるのを。


【ほらな、上手くいっただろ】


 セトはあっけらかんと笑う。

 矢は確かに振り切れたかもしれない。しかし、その理由は官兵たちが追撃の手を止めたからだ。

 無関係な一般の人々を、巻き込まないために。


 ――上手く、だって? どこが……!


【……あァ? なんだ、俺のやり方が気に食わねェってか】


 当たり前だった。

 いくら命がかかっていても、自分が助かるために関係のない人まで巻き込んでいい道理はない。たとえ相手が〈太陽の民〉であろうと。

 そんなイスメトの内心を感知したセトは、苛立ちを隠しもせずに吐き捨てる。


【ハッ! なら、テメェの策を聞かせろや! 馬鹿正直にまっすぐ逃げて、最後は蜂の巣か? 死ぬのはテメェだぞ?】


 ――それでも……! やって良いことと悪いことがあるだろ!


 特に最後の子供は、下手をすれば死んでしまう傷を負っていた。

 何も悪いことをしていない。こちらに危害を加えてきたわけでもない。ただ道で遊んでいただけ。

 そんな無垢な存在を、幼い命を、セトは盾にしたのだ。


 ――セト! 僕の体を返せ!


【……ハハァン? いいぜ。テメェの命だ】


 意外にあっさりと、セトは体の返還に応じた。


【好きにしろや、()()()


 やがて、セトに完全に預けていたはずの五体の主導権が、徐々にイスメトへと戻ってくる。

 俯瞰的だった視点も、現実に引き戻されるかのように主観的なものへと変わった。


「……っ!?」


 さらに、空気を求める肺の痛み、喉の渇き、足の疲れ、息苦しさ――走り続けていれば当然起こるであろう身体反応のすべてが、苦痛を伴って急激にイスメトの自我を襲う。


「ハァっ、ハァっ――!」

【ククク……どうした、息が上がってるぞ。そら、気をつけろ。矢はまだ一本、残ってるからなァ】

「――!?」


 言われて咄嗟に振り返る。

 光の尾を引く矢が一筋、視界の端に写った。

 セトの力自体は消えていないらしく、今の走力は普段のイスメトの比ではない。すぐに追いつかれることはないだろう。

 しかし、それでも力が徐々に衰えていっていることは明白だった。


【ほォらほら、上手くやれよ。誰にも当てずによォ……!】

「――っ!」


 イスメトは咄嗟に通りを曲がり、細い路地へ入る。

 大通りを行くよりは、こちらの方が人は少ないはずだ。狭い分、障害物も多い。それらが上手く矢の妨害をしてくれることを願った。


 しかし、イスメトは知らなかった。


 痛覚を持たない神によって最大限に力を引き出された人間の肉体が、その後にどれほどの反動を受けるかなど。

 その時までは。


「ハっ、ハァっ――ぅッ!」


 イスメトはついに咳を我慢できなくなった。

 むせ返るような喉の違和感が、喘息の発作のごとく襲いくる。

 視界もグラついていた。


 ――いや、足がふらついているのか?


 それすら判断できないほどに、イスメトの体は限界を迎えていた。


「ぐ、ぁ――ッ!」


 そんな少年を非情に貫く一閃。

 イスメトの左ふくらはぎに激痛が走る。

 ホルスの矢も、長距離を駆けたことで高度や精度は落ちているようだった。しかし、それでもその切っ先は、足を貫通して地に刺さるほどに鋭利。

 もう少し位置がズレていれば、足の骨を折られていただろう。


【クハハ! 残念だったなァ? もう50キュビトも走れば、矢の神力も切れる頃合いだったろうに】


 セトはこの結末を見透かしていたかのように笑う。ちっとも残念そうな声ではなかった。

 イスメトは地面に倒れ、肩で息をする。

 セトに何も言い返せない。身体的にも、精神的にも。

 やがて近づいてきた複数の足音は、官兵たちのものだった。


「あそこです!」


 イスメトは二人の官兵に両脇を掴まれ、無理矢理、体を起こされる。取り落とした〈〈支配の杖(ウアス)〉は、地面に転がると同時に光の塵と化して消えた。


「なんだ、随分と虫の息じゃないか。実は矢、けっこう当たってた?」

「いえ、最後の一本だけです。おそらくは、神の力の反動が出たのではないかと」

「ハハ、なるほど。神の力も万能ではない、か……」


 官兵に引きずられ、縄で縛られる。

 全身が泥に漬かったような倦怠感と、鈍痛とにさいなまれ、抵抗どころかロクに体を動かすこともできなかった。

 もっと呼吸をしろと急かす肺に、イスメトはただ従うだけである。


「本当に、殺さなくていいんですか? 戦神は危険ですよ。そうでなくても〈依代〉は何をしでかすか分からないのに」

「ああ、俺だったらここで殺すね。しっかし、命令は生け捕りなんだよねぇ~」


 ざんばら髪の壮年の男に担ぎ上げられ、イスメトは連行される。

 呼吸は徐々に落ち着いてきたものの、相変わらず体は動かない。男が地を踏むたびに起きる振動にすら、痛みを感じるほどだった。

 射抜かれた足は、痛むというよりひたすらに熱い。焚き火の中に左足だけを突っ込んでいるかのようである。


「よぉ少年。歳はいくつだ?」

「……十、六」


 律儀に答えてしまった後で、別に無視しても良かったのにと後悔する。

 声を出せる程度に呼吸が安定したことは確認できたが。


「カーッ、十六! 娘と同じじゃねぇか……胸が痛むねぇ~」

「じゃあ聞かなきゃいいでしょうに」


 若い方の官兵が呆れたように苦言を(てい)した。


「……どこへ……連れてく……」

「処刑場だよ」


 処刑場――

 イスメトにとっては恐怖を覚える以上に、嫌な思い出を呼び起こす言葉だ。


【クハハッ! こいつァ、ちょうど良い】


 セトは他人事のように笑う。


【いいか小僧。よォく覚えておけ】


 その冷ややかな声が、遠く耳鳴りのように聞こえた。


【テメェのソレは『優しさ』じゃねェ、ただの『甘え』だ。俺は戦士の育成にゃ口を出すが、乳臭(ちちくせ)ェガキのお()りなんざご免だぜ】


 次の手を指示するでも、体を操るでもなく。

 セトはただ事態を傍観している。

 まるで、これがお前の選択の結果だと、ちっぽけな少年に知らしめるかのように。

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