少年の死
母が寝台から起きられなくなったのは数日前のことだった。
きっかけは風邪だと思うが、他に原因があることもハッキリしている。
栄養不足だ。単純に、食料が足りていないのだ。
ナイルシア王国・第13州アウシット。国を縦断する大河の中流に位置する、砂漠と山とに囲まれた地域にイスメトの村はあった。
農民として生まれた彼は、決まった周期で氾濫する大河の恵みを受けながら作物を育てる日々を過ごしていた。
今年の収穫量はそれなり。けして贅沢はできないが、食うに困るほどではない。そう思っていた。
しかし――
「おぉ、イスメトか。どうした、元気がないのう」
「長老……実は、お願いがあって……」
イスメトはまず村の長老に掛け合った。
この国では基本、食料は配給制。畑で収穫した作物は一旦すべて近くの大神殿へと集められ、それから村々に分配される。
そこから各家庭への配分を決めるのは、この村では長老の仕事だった。
「ふむぅ、食料が足らんと……」
「はい……僕はまだ大丈夫ですが、母の具合が悪くて。その……身勝手なのは百も承知ですが、もう少し分配を多くしてもらえないでしょうか」
長老は困ったようにアゴ髭を撫でた。
「その手の相談を持ってきたのは、村でお前が最後じゃよ」
「……え?」
イスメトは目を丸くした。
てっきりこれは自分たち家族だけの問題だと思い込んでいたからだ。
「なにも意地悪で、お前たち母子を差別しとるんじゃあない。確かに、10年前の一件でお前たちを嫌う者もおるにはおるが……ワシはそんなことで配分を決めてはおらんよ」
「じゃ、じゃあ……今年は、全体的に配給が少ないってことですか?」
「うむ……」
長老は唸りながら頷いた。
「今年は神殿からの分配が本当に少ない。これじゃあワシらに飢え死にしろと言っているようなものじゃ。もう何度か神殿に陳情したが、伝わっておるのかよう分からん……」
「そんな……」
村は、想像よりも深刻な事態に陥っていた。
「ちょうど先刻、若い衆が神殿に直談判に行ったところじゃ。お前も、気になるなら行ってみるといい」
促されるまま隣町にある大神殿へ向かうと、そこには人だかりができていた。神殿を警護する神兵たちを睨みつけるのは、見知った顔ぶればかり。
しばらくすると、神殿の門から神官らしき男が二人出てきた。
「神官殿! 今年は一体、どうなっているのですか!? 神殿からの配給が少なすぎます!」
一番に発言したのは、村で二番目に強い男・アッサイ。誰からも好かれる好青年である彼が、こうも声を荒げるのは珍しい。
「何? 食料が足りない……?」
「そうです! これまでなんとか狩りで食い繋いできたが……雨期に入ってからは満足に狩りもできていません。いくらなんでも限界だ! このままじゃ、みんな飢え死にしてしまう!」
そうだ、そうだ、と口々にまくし立てる村人たち。
しかし、神官が出した答えは冷酷なものだった。
「ええい黙れ! 配給は神の定められた厳格な基準の下、きちんと計算して決めておる。それに不服を申し出るとは、神に対する冒涜だぞ!」
「その通りだ! どうせお前らが食料を無駄に食いつぶしているだけだろう!」
「なっ……!」
あまりの言い草に閉口するアッサイをよそに、神兵たちも口を開いた。
「神官様の言うとおりだ! 反逆者の末裔どもめ!」
「この州に住まわせてやってるだけでも感謝しやがれ!」
「分かったら、その汚ェツラを二度と見せるんじゃねぇよ!」
「な、なんだとぉ……!?」
彼らの不遜な態度に、村の短気な若者が飛びかかろうとした。しかし、アッサイはそれを制する。
「……いったん、村に戻ろう。話にならない」
どうにもこれは一筋縄ではいきそうにない。
肩を落として神殿を後にする村人たち。イスメトも、その後ろをついて帰るしかなかった。
「なんだよ。てめぇも来てたのか?」
不意に、イスメトの背に言葉を投げつけてくる者がいた。
その声から特定の人物をすぐに連想したイスメトは、小さく息を吐く。
「お前もいっちょ前に村の一員のつもりか? ケッ! 疫病神のくせに!」
「ジタ……」
罵声とともに唾を吐きつけられる。
しかし、イスメトは何も返さない。返すだけ無駄だと思っていた。
「お前、自分の立場分かってんのかよ。本当なら追放処分になるところを、長老のお慈悲で生かしてもらってるだけだぞ!」
突き飛ばされ、地面に尻をつく。
先日の雨で地面がぬかるんでいたせいで、イスメトはすぐに泥だらけになった。
「おい! 何やってんだジタ!」
「チッ……うるせぇのが来た」
しかし幸い、この日は近くに仲裁者がいた。
ジタは取り巻きたちを連れてそそくさと立ち去る。彼は昔から、自分より弱い者にしか噛みつかない主義なのである。
「ったく、お前もお前だぞイスメト! 少しは言い返せよ!」
イスメトは、間に入ってくれた少年に助け起こされる。
彼の名はケゼム。長老の孫で、イスメトの友だ。
この村で唯一の、と付け加えてもいいかもしれない。
「ケゼム……いいんだ。本当のことだから」
「悪いのはお前の親父だ。お前とお袋さんは関係ねぇだろ! お前がそんな態度でいるから、ずっとそういう目で見られるんだぞ?」
ケゼムが自分のことを思って言ってくれているのは知っている。
しかし、イスメトはこの話題が嫌いだ。だから、いつも適当に聞き流すことにしていた。
ケゼムのお小言を聞いている内に、二人は村にたどり着く。
日はとうに暮れかかっていた。
「もう我慢ならねぇ!」
「あいつら、〈砂漠の民〉を何だと思ってやがるんだ!」
「もうこんな生活はたくさんだ!」
ケゼムの――長老の家の前は、先ほどの男たちで賑わっていた。
中心にいるのはやはりアッサイ。長老と向かい合って何かを相談している様子だ。
やがて周囲の熱を一身に受け、アッサイが立ち上がる。
「皆、聞いてくれ! このままじゃ、俺たちは飢えて死んじまう。だが、神殿は願いを聞き入れず、俺たちに死ねと言った!」
罵声、怒号、言葉にならない叫びが村を包む。
「どのみち死が立ち塞がるというのなら、〈砂漠の民〉らしく勇敢に戦う道を選ぼうじゃないか! すなわち! 神殿に夜襲をかけ、俺たちの麦を取り戻す!」
「オオオォォォ----ッ!!」
村の誰もが、長老とアッサイの決断を支持した。
「人手は大いに越したことはない! 自分が男だと思う奴は全員、ついて来い!」
「オオオォォォ----ッ!!」
イスメトは、自分が自然と拳に力を込めていることに気づいた。アッサイの力強い声は、皆に勇気を与えてくれる。
「よ、よし……! 俺も行くぞ! イスメト、お前は?」
ケゼムも恐らく同じように感じたのだろう。
燃えるような目でこちらを見てくる。
「うん……僕も行く。母さんにもっと食わせてあげなきゃ」
「よっし! 行くぜ!」
襲撃は当日決行となった。
アッサイはかねてより綿密な計画を立てていたらしく、手製の神殿見取り図をもとに作戦の伝達は極めて円滑に行われた。
村人たちは大きく二つの役割に分かれる。
一つはアッサイと共に神殿入り口で騒ぎを起こす、暴動組。
そしてもう一つは、騒ぎに乗じて神殿内部へ忍び込み、食料を運び出す運搬組だ。
イスメト、ケゼム、そしてジタも含めた少年たち五名は、運搬組の一組として動くことになった。
「ケッ! なんで疫病神が一緒なんだよ」
「はぁ? こっちだってお前なんか願い下げだっつの!」
例のごとく、イスメトがジタにケンカを売られ、そのケンカをケゼムが買うという悪循環が生まれていた。
「おいお前ら! 仲間割れしてる場合じゃないことくらい分かるだろ」
しかし、さすがに非常事態。
アッサイの号令が飛ぶと、一同は顔を引き締めた。
「イスメト」
イスメトは通り過ぎざまにアッサイに肩を叩かれた。
「……しっかりやれよ」
「う、うん」
心配されているのか、頼りないと思われているのか。どちらにせよ、あまり良い意味には受け取れなかった。
「へッ! だってよお荷物ちゃん」
これ見よがしにジタが笑う。が、やはり何も返せないイスメトだった。
やがて夜が訪れる。宵闇に紛れて、彼らは作戦を開始した。
「縄をかけたぞ、急げ!」
アッサイたちが上手く神兵をおびき出してくれたらしく、運搬組の作戦は存外あっさりと進行していた。
神殿の裏手から塀をよじ登り、隣接する建物の屋根へと降り立つ。
そこから視線を飛ばせば、丸い小部屋と木製の扉がいくつも横に連なる独特な形状をした建物がすぐに目にとまった。
穀物庫だ。
「へへっ、なんだ、意外と簡単じゃねェか。二袋はイケるな」
「シッ! 油断してんじゃねぇぞジタ!」
ジタとケゼムが競うように麦袋を持ち上げる。
イスメトも彼らに続いた。
袋はサイズのわりにずっしりと重い。腕力にさほど自信があるわけでもないイスメトは、左脇に一袋を抱えるに留めた。
「おい! 警戒しろ! ネズミが入り込んでいるかもしれない!」
その時、近くの建物から神兵たちが飛び出してきた。外の騒ぎを見た兵が、敷地内で待機している兵たちに警告して回っているらしい。
倉庫から外壁まで戻るところだった一同は、慌てて近くの建物内に身を隠す。
神殿の庭はだだっ広く、遮蔽物が少ない。この状況で動くのは危険だ。
「クソ、どうする……?」
「し、しばらく様子を見るしか……」
イスメトとケゼムが顔を見合わせていた時だった。
ドサッ。
重量感のある音が、屋内に響く。
振り返るとジタが血相を変えてこちらを見つめている。彼の両腕に抱えられていた麦が、二袋から一袋になっていた。
「おい、こっちから何か音がしなかったか?」
悪いことに、すぐ近くを兵が巡回していたらしい。
複数の足音が廊下の先から近づいてくる。
「や、やべぇ……」
ケゼムが小声でつぶやく。
終わりだ。このまま全員、捕まる。
誰もがそう狼狽える中で、しかしイスメトだけは違うことを考えていた。
イスメトはいつも身に着けている首巻き布を、ぎゅっと掴んだ。
「イスメト……?」
その変化に真っ先に気づいたのはケゼム。
「まさか……おいバカ、よせ――ッ!」
しかし、彼の制止は届かなかった。
イスメトは単独、明かりの下へと飛び出す。
建物の奥へと。予定にはない道へと。わざと足音を立てて、騒々しく。
別に、ジタの失態をフォローしたつもりはなかった。彼のことはハッキリ言って嫌いだ。
ただ、彼に死んでほしいとまでは思っていなかったし、このままでは遅かれ早かれケゼムが、全員が見つかってしまう。
そう思った瞬間に自然と体が動いてしまったのだ。
何か策があるわけでも、逃げ切れる自信があるわけでもなかった。
「いたぞ! こっちだ!」
狙い通り、敵の目はイスメトに釘付けになった。
「ハァっ、ハァっ――!」
分かれ道を右に折れる。幸い前方には誰もいなかったが、後方からは複数の足音が追ってきている。イスメトは抱えていた麦も放り投げ、ただ夢中で走った。
しかし、天の悪戯か、神の導きか。
咄嗟に踏み込んだ部屋の床が不気味に軋んだかと思うと――
「うわぁっ!?」
崩れ落ちた。
雨漏りでもしていたのだろう。濡れて腐りかけた床板を、不運にも踏み抜いてしまったのだ。
「ぅぐっ!!」
イスメトは5キュビト(※)ほど落下した。背中を打ち付けたものの、瓦礫の上だったため衝撃が分散されて大事には至らなかった。
(※1キュビト=約1/2メートル)
どうやらこの神殿には地下が存在したようである。
「な……なんだ、ここ……」
目の前には古めかしい祭壇があった。埃をかぶり、所々が朽ち果てて、今にも崩れそうな祭壇だ。
誰もいない。どころか向こう百年、人が踏み込んだ形跡すらないようなその場所で、なぜか壇の上に置かれた祭事用のランプにだけは赤々と火が灯っていた。
祭壇の先には、一体の黒い神像。
顔面は砕けていてよく分からないが、長い耳と、少し折れ曲がった鼻先が印象的な、男神の立像だった。
「アヌビス……とは、何か違うような……」
この神殿に祀られている神の名を口にしたものの、イスメトは違和感を覚えていた。
冥界の神にして、この州の守護神でもあるアヌビスは、犬の頭部を持つ男性の姿で知られている。しかし、この像の独特な鼻先は、犬のそれとは少し違う気がした。
――トスッ。
その衝撃は、突然やってきた。
「……ぅッ!!」
背中に熱を感じる。
それを痛みだと判断するのに、イスメトは寸刻を要した。
「ネズミめ……! こんなところにいやがった!」
神兵だ。しかし、振り返ることはできない。
イスメトは息苦しさと痛みにもがきながら、すがるように祭壇へと倒れ込んだ。
手を後ろに回すと棒状の何かに指が当たる。それでようやく、自分の背中に矢が撃ち込まれたことを理解した。
――トスッ、トスッ。
立て続けに襲い来る衝撃。
賊を見つけた神兵に、慈悲などない。
「ごふっ……!」
少年は薄れゆく意識の中で、ただその神の像を見つめることしかできなかった。
「神……さ、ま……」
こみ上げてくる熱を咳とともに吐き出すと、そこには赤い水溜まりができた。
「せめて……仲間が無事に……」
――逃げられますように。
「そうして……母……が……」
――元気になりますように。
柄にもなく、神に祈った。
奇跡を信じるでもなく、ただただ願った。
すると、たしかに神は応えたのだ。
【ハッ。死に瀕してまで、他がために祈るか……お人好しなのか、バカなのか、それとも――】
少年は最初、自分に語りかけてくるその声を幻聴だと思った。
死の間際に陥る、錯覚か何かだと。
あるいは冥界から魂を迎えに来た、犬神の鳴き声だと。
だが、どれも違った。
【ククク……よぉ、死にかけのニンゲン】
男の声が、確かに嗤う。
【力を、貸してやろうか……?】