ただいま
数日後。
イスメトはもう一度、アッサイとともに墓所へとやって来ていた。
十分な食事と休養を取ってすっかり歩けるようになった、母を伴って。
「イルニス……? どうしたの、お墓になんか……」
「母さん、墓参りをしよう。もうずっと……ずっと、来てなかったでしょ?」
「いやねイルニス。私はあなたの母さんなんかじゃないわよ」
最初はいつもの調子だった。
しかし目的地が近づくにつれ、母は次第に取り乱し始める。もう帰ろうだとか、ここは呪われているだとか叫んで、駄々をこねる子供のように地べたに座り込んだりもした。
それでも、アッサイの手を借りながらなんとか父の墓前に辿り着いた。
「……」
母はその場に呆然と立ち尽くした。
「……必要なら、呼んでくれ。俺は入り口で待っている」
アッサイはそう言ってその場を立ち去る。
そうして墓所の中には、母子だけが残された。
母の前には新品の立派な棺が横たわっている。さらに周囲には、人々が入れ替わり立ち替わり供えていった手作りの副葬品がいっぱいだ。
「誰……が……」
母が呟いた。
「いったい、誰が……亡くなったの?」
イスメトは言葉を詰まらせる。
「そ、れは……」
震える声を一度飲み込む。喉の痛みをごまかすためだった。
イスメトは首巻きをぎゅっと握りしめた。
――向き合うって、決めただろ。
「……村で一番の……戦士だよ」
「そう……イルニスと……同じね」
母はそう言うと棺の中を覗き込んだ。そして、固まる。
イスメトはジタの副葬品を持ち込んだ際に、父の遺体にちょっとした仕掛けを施していた。10年前に巻かれた包帯を少しだけ緩め、左手首から下の部分を露出させたのだ。
その指がしっかりと見えるように。
「この指輪……」
母はそっと、父の左手に自分の左手を重ねた。
青い小さな石を真ん中にあしらった、全く同じ意匠の指輪が二つ並ぶ。
彼女はしばらくそれを眺めていた。
一方でイスメトは、母の表情を見るのが怖くてすぐに目をそらしてしまった。
「……ここに……いたのね。……ずっと」
母の言葉にイスメトが顔を上げると、彼女は――穏やかに笑っていた。
「母さん……」
イスメトの呼びかけに彼女は振り返る。
イスメトと同じ紫紺の色をした瞳が、大きく見開かれた。
「イスメト……?」
イスメトは何も言葉を返せなかった。
彼女は息子の手に触れた。そして何度も何度も、その手を、腕を、肩をさすった。その存在を確かめるように。愛おしむように。
「ああ……イスメト。どこに行ってたんだい、心配したんだよ。もう随分とお前に……」
そこまで言って、母は考えるように眉を寄せる。
「そう、随分と……会ってなかった気がするの」
「あ、はは……そうだよ。僕、ちょっと遠くに行ってたから」
イスメトは笑顔を作った。
母が正気に戻ったことに対する喜びよりも、何よりも、イスメトはふとした拍子にこの均衡が崩れてしまうことを――母の病が再発することを恐れていた。
だから、なるべく母を心配させないように、不安がらせないように言葉と態度を選び始めた。
「イスメト……」
自分では、上手くやっているつもりだった。
「……つらいことが、あったの?」
「え……?」
母が頬に触れてくる。
そうされて初めてイスメトは気が付いた。
自分の目から、涙が止めどなくあふれ出していることに。
「え……っ、あれ……?」
僕がしっかりしなきゃいけないんだ。
僕が母さんを守らなきゃいけないんだ。
弱音を吐いている暇なんかないんだ。
もっと我慢強くならなきゃいけないんだ。
母を悲しませてはダメだ。
母を不安にさせてはダメだ。
そんな数々の義務と責任を、まるで何かの罰かのように自らに課し、自分を殺すことでようやく平常心を保ってきた少年。しかし、久しぶりに感じたそのぬくもりが、感触が、どうしようもなく心地よくて、懐かしくて。
もう、どうしたらいいのか分からなくなった。
「……っ! かあ、さん……っ!」
「っとと、どうしたんだい? お前、昔から転んでも泣かないような子だったのに」
「おかえり……おかえり……っ!」
「クスッ、おかしな子だねぇ……遠くに行ってたのは、お前の方じゃなかったの?」
「……っ、そう……っ、だね」
――ただいま。ただいま母さん。
村に戻るまでの道中、母はアッサイと何かを話していたように思う。
が、イスメトの頭には全く内容が入ってこなかった。羞恥心でいっぱいいっぱいだった。
顔を上げればきっと、アッサイに赤く腫れた目元を見られてしまう。そう思うと、地面から視線を上げることすらできなかった。
まるで幼い子供のように、イスメトは母に手を引かれて家路をたどった。
こうしてアウシットの村々には食料と平穏が、少年の家には団欒が戻ってきた。
もう誰も、彼を疫病神と呼ぶことはなかった。




