混沌 ―アポピス―
「ふっ……ははは!」
突然、声を上げて笑い出したのは、それまでほとんど喋らず、ただ成り行きを見守るだけだった大神官。
もはや神官や神兵たちでさえ、警戒するようにその男との距離を取り始めていた。彼らの目は不信感と疑念に満ちている。
「……当然ながら、裁判の場には大神官さまも同席されていたはずですよね。説明していただけますか? 大神官さま」
エストが鋭い眼差しで、ゆっくりと歩み寄る。
「ふん……賢しいガキめが」
そうしてついに、大神官が本性を表す。
【――! オイ、下がれお前ら!】
セトの言葉に反応できたのは、イスメトとエストだけだった。
大神官が手に持っていた杖を振り上げると、その先端から黒く禍々しい何かが勢いよく吹き出した。
それは、群れなす蜂が一体となって作り出す大きな影のように、あるいは田畑を飲み込む増水期の大河のように、講堂を黒い闇で覆い尽くす。
「だ、大神官さま!?」
「な、なんだ!?」
窓から差し込む光さえ、その闇は飲み込んだ。
黒い塊の一部がイスメトの腕に絡まる。咄嗟に〈支配の杖〉で打ち払ったそいつは、黒い蛇のような姿をしていた。
「はっ……何も、何も問題は無い……そうさ、問題はない。今ここにいる者すべてを葬れば、真実は揺るがないのだ」
瞬く間に、講堂は阿鼻叫喚の巷と化す。
「マアトは我にあり!」
「エスト!」
エストに振り下ろされた杖を、イスメトは横手から受け止めた。
「ッ! あなたは……それでも神官か!」
「だまれ! 我は神の申し子ぞ! 汚らしい蛮族なんぞに裁く権利などあるものか!」
【ハッ、俗物が! 小僧、力を貸してやるぞ……ッ!】
〈支配の杖〉が一瞬、輝きを放つ。その光を恐れるように、大神官の杖を伝ってこちらに這い寄っていた黒い蛇たちがざわめき、散っていった。
【この気配……間違いねぇ。その蛇どもはアポピスの化身だ】
「アポピス?」
【簡単に言やァ、真実の逆。悪意・邪悪・邪念・その他もろもろの感情や性質の集合体だ。死者や弱い神の魂を喰らおうとする、神界の害獣ってとこだな」
「じゃ、邪神ってこと……!?」
大神官の杖を力で押し返し、ひとまず間合いを取るイスメト。
これまで相手にしてきた神兵などとは違い、大神官はさほど戦い慣れしている様子はない。腕力もそこまでだ。
しかし、得体の知れない力を操るという一点において、他のどんな敵よりも警戒すべき危険な相手だった。
【邪神っつゥより、〈混沌〉そのものと言った方がいい。俺たち神の、そして勿論お前らニンゲンの敵だよ】
「そ、そんなおぞましいものを、なんで大神官が……!」
【さあな。だが〈混沌〉ってのは、いつだって軟弱な心に這い寄ってくるもんだぜ……右だ!】
「――っ!?」
セトに教えられてイスメトは咄嗟に防御姿勢を取る。
――ギィィン!
金属がこすれ合う耳障りな音とともに、重い衝撃が両腕に走った。衝突点で拮抗する両者の力。
イスメトは剣を振り下ろしてきた相手の顔を見、愕然とする。
「っ! アッサイ!?」
アッサイの目は闇に取り憑かれたように黒く、歪んでいる。
一目で正気ではないことが分かった。
【チッ! アポピスに喰われかかってやがる。こうなりゃニンゲンは奴の傀儡も同然だ!】
「傀儡……操られてるってこと!?」
【そういうこった!】
時を同じくして、周囲から悲鳴や怒号が響き始める。
村人、神兵、神官、その場にいたあらゆる立場の人間たちが、敵味方関係なく近くにいる者を攻撃し始めていた。
「っ! どうすればいいんだよ!? 早くしないと皆が……!」
【見たところ、あの杖は呪具だ。あれでアポピスを御しているんだろう】
「じゃあ、あの杖を奪えば……!」
【そういうことだ!】
イスメトはアッサイと打ち合う。蛇たちは、いつの間にかアッサイの全身を覆って黒いオーラのように蠢いていた。
イスメトがいつかのように力を願えば、〈支配の杖〉は応えてくれるだろう。だが、間違ってもアッサイを殺すわけにはいかない。
そうして迷っている間にも、周りの村人たちが同士討ちで倒れていく。
焦燥は募るばかりだった。
「イスメト……!」
「っ、エストは隠れて……! あの蛇、人の正気を奪うらしい!」
不幸中の幸いか、エストは蛇の影響を免れていた。
「な、なんとかしなきゃ……ボクが、なんとかしなきゃ……!」
エストは友の助けとなるべく、周囲を見渡す。
真っ先に目に入ったのは、大神官の後ろにそびえ立つアヌビス神の像。かの神にに乞えば、あるいは手助けしてくれるかもしれない。
しかし、もともとアヌビスに仕える神官でもなければ〈依代〉でもないエストが、一から神降ろしの儀を行うには時間がかかりすぎる。
この状況ではまず不可能だ。
「……一か八か」
エストは服の中に隠すようにして身に着けていたペンダントを――馴染みの神器を、両手で握りしめる。
「……我が主よ。星々の間に住まい、その目で世界を照らす偉大なる王者よ! 闇を払い、不浄なる者たちから我らの魂を守り給え!」
祈りの言葉を唱え終わると同時に、エストの体が光に包まれる。
その光は言葉の通り闇を退け、蛇たちの侵入を拒む結界を作り上げた。
【――ッ! あれは……!】
「エスト……!?」
視界の端でその光を確認したイスメトは目を疑う。
エストを中心とした半径5キュビトほどの範囲が光に照らされている。けして窓を覆う闇が晴れたわけではない。その光源は、紛れもなくエスト自身だった。
【――まあいい。オイ小僧! そのデカブツをあの光の中へ放り込め!】
「え!? そんなことしたらエストが!」
【心配いらねェ! とにかくやれ!】
セトがこう言うのだ、今は信じるしかない。
イスメトはアッサイの剣を横手にいなし、体勢を崩させる。操られている影響か、幸いにもアッサイの動きは普段よりも鈍かった。
「っ、ごめんアッサイ!」
イスメトはその横腹に〈支配の杖〉を叩きつける。同時に突風が巻き起こり、アッサイの肉体は軽く宙を舞ってエストのそばに墜落した。
イスメトの思いが作用してか、ダメージはそれほどではなかったらしい。アッサイはすぐに起き上がろうとしていた。が――
「ぐっ……!? う、うごォ……ォォ……!」
突如、苦しげに唸り、その場にうずくまる。
彼を包んでいた黒い蛇たちが、その肉体の上でのたうち回ったかと思うと、次々に消滅していった。まるで光に溶けてしまうかのように。
「い、一体なにが……!?」
【あの光が〈混沌〉を払った。それだけだ】
セトの声は、心なしか冷たい。
【それより、邪魔者は消えた。本元を叩け!】
「……! わ、わかった!」
イスメトはすぐさま大神官との距離を詰める。
それに気付いた大神官は、なおも闇を吐き出し続ける杖をこちらへ向けた。
「うっ……!」
黒い蛇たちはイスメトの体を奪わんと、首、腕、足、胴体、至るところへ巻き付いてくる。その度に〈支配の杖〉が光を放ち、その魔手を振りほどいてくれた。
しかし、闇は何度でも生まれ出てイスメトの視界を遮る。
【ひるむな! 走れ!】
ほとんど何も見えなくなっていたが、セトの声に背中を押され、イスメトはがむしゃらに前へ前へと突っ込んでいく。
そしてついに、大神官の懐へと潜り込んだ。
――ガギィィン!
ぶつかり合う金属音。
大神官が身を守るようにして構えた杖に、イスメトの振り下ろした〈支配の杖〉が噛みつき、砕く音だった。
「くっ……なぜだ! なぜ〈砂漠の民〉なんぞが神の〈依代〉に……」
大神官の目は驚愕に見開かれている。
イスメトは間髪入れずに振り上げの一撃をお見舞いした。大神官の手から弾き飛ばされた黒い杖は、そのまま床に叩き付けられ真っ二つに折れる。
同時に、その先端から生み出されていた闇の奔流が止まった。
「馬鹿な……ありえん。お前たちの神は、確かにこの地上から消し去ったハズ……!」
杖を失い、祭壇の方へと後ずさる大神官。
その口から発せられたのは、〈砂漠の民〉としては聞き捨てならない言葉だった。
「僕らの神を……消し去った……?」
【……コイツ、さては何か知っていやがるな?】
セトの声にも苛立ちが感じられた。
「大神官! セトという名に聞き覚えは!?」
「セト……? は、ははっ、やはりか! ならばあの地下神殿はかの神の……!」
イスメトの問いかけに、大神官はかすれた笑い声を上げる。
「あぁ、あぁ……知っているとも。セト……それは、この国の安寧を乱す者の名だ――!」
突如、大神官は祭壇の上に残されていた偽の天秤を掴み、イスメトへ投げつける。
「くっ……!?」
得物を奪ったことで完全に油断していたイスメトは、反応しきれず体勢を崩して床に手をついた。
その隙に、大神官は祭壇の裏手へと回り込んだ。何か呪文を唱えているようだ。その体からは、再びあの黒い蛇たちが生え出てくる。
【コイツは不味い! 小僧、いったん下がれ!】
「イスメト! 早くこっちへ!」
闇は、大神官を中心に瞬く間に膨れ上がる。
イスメトは身を翻して走った。エストを包む光の結界を目指して。
結界はいつの間にかその領域を広げ、争っていた人々全員を――講堂の半分を包み込むまでに大きくなっていた。
「――っ!」
イスメトが身を投げ出し、光の中へと滑り込んだ直後。
轟音とともに闇が、〈混沌〉が、濁流となって講堂内にあふれ返った。
本殿全体が悲鳴をあげるかのように軋み、イスメトは立ち上がれないほどの圧を全身に感じる。
「……っ! お願いだ、お願いだよ! 皆を……守って!」
誰もが歯を食いしばり、床に伏せて得体の知れない恐怖に押しつぶされる中、光の中心にいるエストだけは祈りの姿勢を崩していなかった。
その時――光の錯覚か、目が狂ったか。
イスメトは一瞬、エストの背中に大きな翼が広がるのを見たような気がした。
やがて周囲はひときわまばゆい光に包まれる。
目を開けていられなくなり、イスメトはエストの姿を見失った。




