第6話 傷痕
穏やかな日曜の午後、島を跨ぐ橋の下を貨物船が通ってゆく。悠太は朝から突堤で釣りをしていたが、何の成果もあげられず帰って来た。テラスの籐椅子には紗彩がもたれていて、その上を迷い込んだ蝶が飛んでいる。蜂じゃなくて良かった。悠太はテラスに近づく。紗彩は気づかないし動かない。
「ん?眠ってるんだ」
悠太はそーっと紗彩に近づいた。首に巻いたネッカチーフが微かに風に揺れる。すっと伸びた鼻筋、黒くて長い睫、美人だよな。美術の教科書に載っている西洋の彫刻みたいだ。ネッカチーフ、そう言やいつも巻いているな。なんでだろ。首の後ろに結び目が見えている。紗彩のまぶたが少し動いた。悠太は一歩後ずさった。紗彩は手を挙げて首の後ろを触っている。そして顔が向こうを向いて大人しくなった。また寝入ったようだ。
悠太が再度紗彩に近づいた。その時、風にネッカチーフが膨らみ、紗彩の首からふわりと離れ、悠太の足元に落ちた。
おいおい、外れちゃったよ。寝てるから結べないけど掛けておいてあげよう。悠太はネッカチーフを持って向こうを向いた紗彩の顔を覗き込んだ。
え?
悠太の目に飛び込んだのは生々しい傷痕だった。首の正面、横に真一文字に入った毒々しい程の切開痕。縫合した痕が所々にクロスしている。きれいな紗彩の顔の中で、そこだけが悪魔が与えた懲罰の痕に見えた。
ううん…。
紗彩は小さな声を上げた。悠太は飛び下がり、ネッカチーフを持ったまま、慌てて家の陰に回り込んだ。本来、逃げる必要もない筈だが、見てはいけないものを見てしまった感が悠太を慌てさせた。こっそり覗いて見ていると、紗彩は椅子の上で起き上がり、目を開けると首に手を当てた。キョロキョロ周囲を見回す。目が大きく見開き慌てて立ち上がった。しかし、その直後、顔が上を向いたかと思うとそのまま紗彩は崩れ落ちた。
がったーん!
籐椅子がテーブルにぶつかって大きな音がする。悠太が一歩踏み出した時、祖母の景子が驚いて出てきた。悠太は慌てて引き下がる。
「紗彩ちゃん!」
景子が慌てて紗彩を抱き起す。
「大丈夫?」
紗彩は目を開けた。
「あ、あ、はい。ごめんなさい。立ち眩みがして。あ、でも…」
紗彩はまた首に手を当てた。悠太は家から脱走した。傷痕が目の前にちらつく。何れは消えるものなのだろうか。
紗彩が隠そうとしていたもの、心と身体の傷を覗いてしまった。ポケットに突っ込んだネッカチーフ。どうする悠太。でも見たなんて絶対言えやしない。見なかったことにする。これしかない。じゃ、ネッカチーフは?
結局夕方まで突堤で過ごした悠太は、こっそりと家に戻った。リビングで紗彩が景子と話している。特に悲愴な感じはない。よし、さり気なく・・・ さり気なく だ。
悠太はリビングに入ってゆき、そしてポケットに突っ込んでいたネッカチーフを差し出した。
「これ、紗彩の?」
紗彩の首にはいつもと違うバンダナが巻かれている。紗彩の目が大きく見開いた。
「有難う。探してたの」
景子が俺に聞いた。
「どこで見つけたの?」
「庭の向こうの方」
悠太は嘘をついた。
「やっぱり風とかで飛ばされたのかな」
景子が言った。紗彩が小さく答えた。
「きっとアイオロスが来たんだ」
「誰、それ」
「風の神様」
「神様?」
景子が割り込む。
「紗彩ちゃんはね、ギリシャ神話が大好きなんだよ」
「へえ? 神話? でもなんでいつも巻いてんの?」
悠太は思い切って聞いてみた。紗彩が自分から傷の事を言ってくれると心の負担が軽くなる。しかし代わりに景子が答えた。
「首を冷やしちゃいけないのよ」
「ふうん」
やっぱり隠してるんだ。女の子だもんな。あんな目立つところに醜い痕があるなんて、鏡を見るたびショックな筈だ。療養しなくちゃいけない病気の上に、あんな傷まで負っている。柚はみんなに引っ張りだこだったけど、紗彩の味方は誰もいない。紗彩を守るべきは、やはり自分以外に誰もいない。悠太のコンパスは、紗彩寄りに振れた。