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海のテティス  作者: Suzugranpa
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第5話 レモン

「ね、一緒に帰ろう」


 放課後、柚が悠太に近づいた。柚の『幸運の海女』は既に学校中に知れ渡っており、朝から柚は女子生徒に触られっ放し。中には柚を拝む生徒までいて、一躍時の人になっていた。しまいには『こらー、席に着かん奴には幸運のおすそ分けはないぞーって、河野が言うとる』と先生にまで使われた。


 悠太が柚と付き合っていることは有名だったので、悠太だって『幸運の独り占め』だの『オマエがくっついてるとプラマイゼロ』だの散々にいじられた。一日が終わってようやくストームが治まったのだ。


「うん。柚、一日大変だった」

「大変だったのは、あたしだよ」


 二人は周囲に冷やかされながら校門を出た。しばらくして生徒たちが(まば)らになった頃、柚が悠太の袖を引っ張った。


「ちょっと気になるんだけど」

「なに?」

「あの人魚姫さん」

「へ?」

「本当に従姉だけ?」

「そうだよ。死んだ親父の妹の娘」

「そういう意味じゃないよ。悠太の気持ちよ」

「あ?」

「従姉だけと思ってる?」


 悠太はちょっと浮足立った。柚の目は真剣だ。


「そりゃそうだよ。親戚だからどうしようもないでしょ」

「そうかなあ」


 本当にどうしようもないのか?悠太は自分の気持ちが判らなくなってきた。柚がいるのに紗彩も守りたい。歳上だけど、従姉だけど、俺が守りたい。結果的には守れなかったけど、でも守りたかったんだ。祭を見ながらタッパとペットボトルを出してくれた紗彩の白い指、(はかな)げな細い腕、海風に帽子を押さえるふとした仕草、一つ一つに心震えていた。

柚はそんな俺を見透かしているのか。


「俺が好きなのは柚だよ」

「そう?」

「そう?って、そうに決まってるじゃん」

「人魚姫さんのことは好きとかじゃない?」

「そんな関係にはなれないよ。高校生だし」

「そう。良かった。やった甲斐があった」

「やった?」

「うん。あたし、悠太のために潜ったんだよ。悠太泳ぐのダメだからお父さんもきついし、その分稼がなきゃって、そう思って潜った」


 柚は海の方を見ながら言った。柚、そこまで考えて出てたのか。悠太は自分の足元が、自分の想いへの自信がぐらつくのを感じた。


「ありがとな。泳げなくてごめん」

「ううん、仕方ないよ。みんな向き不向きがあるし」


 言いながら柚はそっと悠太の左腕に手を掛けてきた。軽い重みが悠太の腕を緊張させる。


「幸運のタッチだよ、これ」


 柚は悠太の腕に手を巻き付けた。


「これで悠太も幸せ間違いなし」


 太陽が水平線から上がってくるように、柚の表情も晴れやかになって来た。


 柚、俺はキミをどう見ればいいんだろう。悠太は益々混乱していた。柚は確実にここに居て、そして腕を組んでいる。柚の想いが伝わってくる。これを裏切るなんて、できやしない。紗彩への気持ちは単なる憧れでしかない。そう言う事だろ。俺は紗彩を守ることさえ出来なかったんだ。憧れ以上なんて、以ての外なんだよ。


「でも、今年限りだよな」

「来年も出て、来年もトップ獲るよ!」


 太陽はすっかり上がって、柚は朗らかに笑った。


 そうだよ、柚はみんなに認められた彼女なんだ。血迷っちゃいけない。梅雨の晴れ間の湿った陽ざしを浴びながら、悠太は自分に言い聞かせて坂道を登った。



「ただいま」


 家に入るとひんやり涼しい。ん? 玄関には紗彩のスニーカー。


「あら、お帰りー」


 祖母の景子が出て来た。


「紗彩ちゃん、帰って来てるわよ」


 その途端、悠太の柚モードに急ブレーキがかかった。景子が続ける。


「大丈夫そうだけど、2,3日は安静にって。だから部屋で寝てるの。入るならそーっとね」

「うん」


 悠太は一旦二階に上がり、リュックを置いて手を洗ってから、紗彩の部屋のドアを小さくノックした。行かなきゃ。義務としても行かなきゃ。ドアレバーをそっと下げて覗いてみる。紗彩は気がついたようで手を小さく振っている。悠太はドアを開けて入って行った。


「紗彩、大丈夫?」

「うん。有難う、大丈夫。でもちょっと寝てる。ごめんね」


 紗彩はこのまま透けてしまいそうに白かった。エアコンの音が響く。夏の盛りなのに、そこだけは北極の氷の下のように、静かに、冷たく、透き通った空間だった。先程までの悠太の気持ちはとうに吹っ飛んでいた。


「あの、紗彩。ごめん。紗彩が具合悪くなったのにも気づかないで、俺、何もできないで」


 紗彩は少し首を傾げる。


「ううん。楽しかったの。久し振りに賑やかな所に行けて嬉しかった。有難う。私こそ迷惑かけてごめんね。悠太のせいじゃないよ。本当に。本当にそうだから、気にしないで」


 一気に話した紗彩はタオルケットの中で、手で胸を押さえた。紗彩は息を吸い込み、そしてまた口を開いた。


「柚ちゃんに声掛けた? 彼女、一所懸命潜ってたよ。並じゃないよ、彼女は」


 そうだ、柚。自分には柚がいるって言い聞かせながら帰って来たんじゃなかったのか。


「うん、ちゃんと言った」

「そう。良かった」


 紗彩は目を瞑った。小さく口が開く。


「ホントに柚ちゃん、悠太の事が大好きなんだ。良く判る」


 悠太はまた霧の中に引き戻された。どちらを向けばよいのか判らない。ああ、とか、うう とかがモゴモゴと口から出る。そのまま悠太は紗彩を見続けた。間もなく静かな寝息が聞こえて来た。紗彩、これだけ喋っただけで疲れちゃうんだ。悠太は紗彩にかかっていた無理を思い知った。駄目だ、取り敢えず深く考えるのはよそう。今ここに居るのは紗彩なんだから。


 夕食前、悠太がダイニングに降りていくと、薄いガウンを纏った紗彩が座っていた。


「悠太、ごめんね、勝手に寝ちゃって」

「え、いや、仕方ないよ。具合悪いんだから」

「ちょっと情けないなって」

「そんなことないよ。ゆっくりするためにここに来てるんでしょ。ゆっくりしないと駄目だよ」


 紗彩は紅茶のカップを両手で持つと口に運んだ。その仕草を見て、更に悠太は衝動的に口走ってしまった。


「紗彩、何か食べたいものある?」

「あら?甘えていいの?」

「いい。俺責任あるし」

「そうじゃないって言ってるのに。でも、そうだ・・・ レモン」

「レモン?」

「うん。今日病院からの帰りにね、お爺ちゃんの車の中から外を見てると、ミカン畑の中にレモンの木があったの。レモン、鈴なりになってて、あー食べたいなあって」

「あんな酸っぱいのを?」

「一口以上はムリかもだけど、好きなの。色も形も」


 紗彩はレモンが好きなのか。悠太は考えた。あまり酸っぱくなくするにはレモンをどうする?メイプルシロップをかける?何だかベトベトしそうだ。それにレモンそのままだけって芸がない。レモンは丸ごと添えるとして、もう一品何か考えたい。紗彩が好きなもの。いつの間にか悠太の頭は紗彩で一杯になっていた。


 そうだ。みなと祭で紗彩が持って来たタッパの中はミカンが入ったクッキーだった。ミカンの代わりにレモン。これいけるんじゃね?


 悠太は我ながら天才だと思った。そうだよ、細田さんにお願いして・・・いや待て。自分で作ろう。


「レモンを使って何か考えてみる」


 悠太は断言した。


「優しいな悠太。柚ちゃん、幸運の海女にならなくても幸せだ」


 うっ、そうだ、柚。柚にも何かしなくちゃ。俺のために潜ってくれた。ん? 柚も自分でクッキー焼くとか言ってた。


 柚に教えてもらって、出来たクッキーは柚にもあげる。これで公平の筈だ。公平である必要性は良く判らない。でも今はそれしかない。悠太は決めた。


 翌日、登校するなり悠太は柚に声を掛けた。


「柚、クッキーってどうやって作るの?」

「はい? クッキー? 大丈夫、悠太?幸せすぎて狂った?」

「大丈夫だよ。知りたいだけだよ」

「なんで?」


 悠太は慌てた。理由を聞かれるとは思っていなかった。


「あの、ウチに貰うんだけどさ、ミカンが入ったクッキー。どうやって作ってるんだろうって、簡単に作れるものなのかなって、婆ちゃんも気にしてるからさ。だって大変だったら悪いじゃない、くれる人に」


 柚は疑わしい目で悠太を見ていたが、ふう と溜息つくと、


「あとで絵にして渡すから」


 何とか切り抜けた。ひとまず安心。柚が疑い出したら大変になる。


 3時間目が終わって、柚が悠太の所へやって来た。レポート用紙を一枚持っている。


「ほら、こんな感じ」

「わお、すげえ。柚、イラストも上手い」


 ここはヨイショだ。


「任せて。将来漁師やめてアニメーターになろうかと思ってんだ、この頃」

「え?大将、許してくれるかな・・・」

「そこが問題。でもさ、悠太、どうせここ出て行くでしょ。泳げないから漁師はムリだし、ずっとお婆ちゃんに見てもらう訳にいかないもんね。そしたら広島とか福岡とか、もしかしたら大阪とか東京? その時はあたしもついて行こうかと思って」

「ええ? いや俺なんも考えてないし・・・」


 悠太は柚の論理的で冷静な将来ビジョンに魂消(たまげ)た。でもクッキーレシピを貰ったから真っ向から反論は難しい。


「あの、将来は判んないけど、これ有難う」

「コツはね、混ぜる時はクリーミィになるまで根気よくやることよ。薄力粉なんかよくダマになるから手抜きしないで泡だて器とかヘラでよく混ぜる。でも、お婆ちゃん知ってるんじゃないかなあ」

「ああ、ま、帰って聞いてみるよ」

「期待してていいのかな、悠太お手製クッキー」

「たぶん・・・」


 その日、帰ってから悠太はキッチンを引っ掻き回した。レモンは帰り道の露店で一袋分を買った。薄力粉は祖母の景子に聞いてゲットした。呆れる景子をしり目に悠太はクッキー作りを開始した。


 えーっと、まずはバターをよくかき回して、柚が言ったようにクリーミィになるまで・・・。慣れない悠太はカチャカチャ騒音を出しながら泡だて器を回す。何とか滑らかになったところに砂糖を入れる。隠し味に塩少々と書いてある。根気よくかき混ぜているうちにフワフワになってきた。キターッ、この感じだ。


 続いて卵の黄身を混ぜ、薄力粉をふるいながら投入する。ダマにならないようにって、柚言ってたな。イラストにも描いてある。そしてここに本命・レモンを入れる。レモンの果実を根気よくバラバラにしたものを混ぜ合わせ、かつ絞った果汁を入れる。果汁の味がどこまで残るのか見当つかないが、まあ仕方ない。


 悠太はひたすら泡だて器で混ぜ合わせる。いつの間にか粉は消え、しっとりとしてくる。ええと、これを(すく)ってラップに入れて、丸く巻く・・・と。ちょっと味見。ん、まあ今のところは酸っぱいや。で、冷蔵庫、冷蔵庫。


 イラストには『1時間待て、おやつモグモグタイム』とあり、可愛いケーキの絵がついている。


「悠太、大丈夫かい?」


 洗濯物を取り込んでいた景子がダイニングに入って来た。


「うん。この後、オーブンに入れるって書いてある」

「カットして並べてね」

「うん。オーブンってどれ?」

「電子レンジにオーブンがついてるのよ」

「う・・・ん。判らん」

「お婆ちゃんに任せればいいのに」

「いや、俺がやらないと意味ないんだよ」

「柚ちゃんへのお祝い?」

「まあそれもあるけど」

「他にもあるの?」

「紗彩にもあげる」

「あらあら、優しいこと」


 結局それ以後の工程は景子がやった。悠太はオーブンの予熱だの何だのがさっぱり判らなかったのだ。そして、ついに、柚のレシピを元に悠太オリジナルのレモンが入ったクッキーが大量に焼き上がった。悠太は景子に用意してもらった紙袋に柚の分を取り分け、残りを籐のバスケットに入れた。ダイニングテーブルの真ん中に置く。景子が一つつまんでいる。


「あら、酸っぱい。レモンは残ってる。ジューシーさは全くないけどね」


 悠太もつまんでみた。確かに酸っぱさが際立っている。クッキーの甘さはあまり感じられないが元々レモンが欲しいってリクエストだったんだ。仕方あるまい。


 夕食時、景子に連れられて席に着いた紗彩がテーブルの上を見て目を丸くした。


「これ、悠太が作ったの? 凄い。ちゃんとクッキーになってる」


 景子が笑う。


「大変だったのよ。まさに格闘。紗彩ちゃんも食べてみて」

「うん、ありがと」


 紗彩は一つ指でつまむと、まじまじとクッキーを眺めた。


「きれいに焼けてる」


 そこへ悠太が降りてきた。紗彩がクッキーを掲げる。


「悠太、有難う。めっちゃ素敵よ、クッキング男子」


 悠太は照れる。口がモゴモゴ鳴っている。


「いただきまーす」


 紗彩はクッキーを一口齧った。途端に口がすぼむ。


「わ、すっぱーい。レモンの味。すごーい」


 その表情の変化を悠太は見ていた。可愛い。きれいなだけじゃなくて可愛い。こんな表情を見せてくれるなら、クッキー1000コだって作れる。視線を感じたのか紗彩が少し赤くなって照れた。


「悠太、有難う。魔法みたいよ。一晩でレモンが現れた」


 良かった…、本当に良かった…。 悠太は泣きそうになっていた。



 翌朝、袋に詰めたクッキーと残りのレモンを持って悠太は登校した。残りのレモンはイラスト付レシピのお礼だ。


「柚、有難う。ほら作品」

「えー?もう作ったの?すご」

「それとお礼って変だけど、残ったレモンも。泳ぐときにでも齧って」

「へーえ、ねえ、食べてみてもいい?」


 柚は早速袋を開けた。仲のいいい女子たちが集まってくる。


 なになに、クッキー? え?一条君が焼いたの? へえ?なんで?あ、幸福の海女ゲットのご褒美? 違うでしょ、愛のプレゼントでしょ?


 教室は朝から大騒ぎになった。悠太は恥ずかしくて一刻も早く逃げ出したかったが、柚が食べるまでは逃げられない。柚が袋に手を入れて一つクッキーをつまんだ。


「うわ、すっぱ! レモン?このレモン入れたの?」

「う、うん。ミカンの代わりにやってみた」

「はー、そっか。そういう手もあるんだ。悠太凄いな。パティシエ行けるんじゃない?」


 ねえねえ柚、愛のお裾分けはないの? 相変わらず周囲の女子は賑やかだ。柚が目でいい?と聞いてきた。悠太は頷いた。とにかく早くこの騒ぎを終わらせないと。女子たちが袋を奪い合ってる間に柚はレモンを一つ手に取り、そして齧りついた。


「あー、やっぱすっぱい!」


 柚は顔をしかめ、そして悠太に笑いかけた。


「悠太、有難う。めっちゃ青春の味だった」


 良かった。柚も満足してくれてる。鈴なりの黄色いレモン。島のあちこちで見かける日常の風景だ。大して興味なかったこの小さなお日様みたいな実が、俺に味方してくれた。悠太はほっとして席に着いた。


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