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海のテティス  作者: Suzugranpa
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第2話 絵のようだ

 紗彩は静かだ。蜻蛉(かげろう)のように透きとおって見える気がする。一日中家にいる。ベッドに入っているか、気分が良ければテラスの籐椅子に座っているか。そして本を読んでいるか、海を眺めているか だ。


 時々机に向かっている。ノートパソコンを開き、ヘッドフォンで何やら聞いている。ノートを取っていることもある。何でも通信制の高校の授業だそうだ。あれで高校に行ってることになるんだったら中学でもやればいいのに。悠太はブツクサ考えたが、勿論言えやしない。


◆シーン1 朝の食卓


 島の朝は夜明け前から始まる。

 暗いうちから漁船たちが出て行く。ひとしきり落ち着いた頃にようやく太陽が顔を出す。

 

 祖父の孝は今でも大学の講師を務めていて、週に2回、朝から車で出て行く。その他にも県や市の会議に呼ばれ、頻繁に出て行く。紗彩が起き出す頃には祖母が一人、ダイニングで新聞を読んでいることが多かった。


「おはよう」

「おはよう、よく眠れた?」

「うん」


 朝の会話は決まっている。紗彩が席についてコーヒーの香りが仄かに漂う頃、悠太が降りて来る。


「悠太 おはよう」

「お、おはよう」


 悠太には起き抜けのダイニングに少女が座っている風景が、未だにしっくり来ない。毎朝ドキドキする。


 リビングの大きな窓から朝陽がダイニングにも伸びて来る。紗彩の白い顔が黄金に染まったり陰になったり、悠太はトーストを(かじ)りながら、そっと上目遣いでそれを見る。紗彩の口がもぐもぐ動き、細い指がマグの把手を掴む。ただそれだけなのに、そのそれだけが悠太にとっては非日常だった。


「紗彩ちゃん、甘いもの、好きでしょ?」

「うん」

「ちゃんとお母さんから聞いてるから大丈夫よ。今日は爺さんが買ってきてくれるって」

「ほんと?」

「うん。今日は広島に行ってるから。美味しいお店、知ってるの。島にはなかなかないからね」


 祖母の景子は紗彩が来てから毎日が楽しくて仕方ないらしい。ま、いいけど。


 トン。


 マグがテーブルに置かれ、紗彩はみかんを手に取った。みかんで良くなるなら100個でも食べてくれ。


「行って来ます」


 悠太は少し乱暴に立ち上がる。


「あ、行ってらっしゃい」

「行ってらっしゃい」


 景子が立ち上がり、紗彩は小さく手を振る。


「あい、行って・・・来ます」


 どうも調子が狂う。悠太は紗彩をちらと振り返り、慌ててリュックを掴む。景子はいつも通り玄関までついてくる。


「気をつけるんだよ。転ばないようにね」


 当たり前じゃないか。子どもじゃないんだ・・・って、分類上は子どもか・・・。


 珍しく紗彩が玄関までやって来た。今日は身体の調子がいいようだ。良かった、いい天気の日に調子よくて。よく判らない気持ちが湧き出る。駄目だ、俺が俺じゃないみたい。悠太は坂を一気に駈け降りた。


◆シーン2 雨の日


 雨が降っている。

 柔らかい雨だ。紫陽花の蕾から雫が落ちる。海は白く煙り、島を渡る橋のてっぺんにフラッシュする光だけが辛うじて見える。春は雨が多いや。部活が休みになるのは嬉しいけど雨じゃ何もできやしない。


 悠太が門扉を押して敷地に入ると、テラスの籐椅子に紗彩が座っているのが見えた。朝と同じく小さく手を振っている。


 紗彩とはどうもうまく話せないよ。紗彩がやってきて以来、毎朝毎晩顔を合わすのに、カタコトが精一杯だった。


「おかえりなさい」


 紗彩の声は傘を打つ雨音に消されそうだ。


「た、たっだいまー」


 悠太は紗彩をチラッと見て玄関ドアを開けた。屋根があるとは言え、雨の日に屋外にいて大丈夫なんだろうか。一言聞けば済む話なのだが、それが出来なかった。


「あら、お帰り」


 ダイニングで景子が振り向いた。


「婆ちゃん」

「ん?」

「紗彩、大丈夫なの?テラスにいるけど」

「うん、座ってれば大丈夫みたいだよ。疲れることはしちゃいけないみたいだけど」

「ふうん」

「でもさ、家の中が明るくなったよねえ。やっぱり女の子がいると華やかだわ」

「あっそう。悪かったね、暗くて臭くて」

「いじけるんじゃないよ。悠太も嬉しいでしょ。綺麗なお姉ちゃんがいきなり出来たんだから」

「さあね」


 どうも婆ちゃんのペースにはついて行けないわ。悠太がリビングからテラスの紗彩を振り返ると、何やら書いている。


 悠太はそっとリビングのサッシに近寄った。


 ん?スケッチ? 


 紗彩は小さなスケッチブックに色鉛筆を走らせていた。紗彩、そんな趣味があるんだ。でもな、何もこんな雨の風景描かなくてもいいのに。スケッチだって疲れるだろうに、こんな灰色に世界を描くのに疲れちゃうなんて、割に合わない気がした。紗彩に晴れ渡った海の風景を描かせてあげたい。悠太はサッシから雨雲を睨みつけた。


◆シーン3 夕暮れ


 その日の悠太は帰りが遅かった。

 

 居残り追試を受けていたのだ。数学でクラスのワースト3にランクインした悠太はささくれた気持ちを引きずって帰って来た。解答欄が一つずつズレただけで何で×つけるんだよ。見りゃわかるじゃんかよ。(うつむ)き加減で門扉を押して家に入る。紗彩は気付かないようだ。まあ、いいけど。


「たっだいまー」


 とっとと階段を上がり、2階の自分の部屋にリュックを投げ出すと、悠太はダイニングに降りてゆく。遅かったねえの景子の声を無視して冷蔵庫を開け、コップに麦茶を注ぐと一気に飲み干した。


「勉強」


 小さな後ろめたさがボソッと一言を口から押し出す。リビングを見ると一面のガラスサッシから夕焼け空が良く見えた。テラスの籐椅子には紗彩が座ったままだ。身じろぎもせずじっと海を見ている。何だか社会科の資料集で見た人魚姫そっくりだ。デンマークだっけフィンランドだっけ?


 悠太はもう一杯コップに麦茶を注ぐとリビングに入り、ソファに座った。ソファから眺める外が、空が一番広く見える角度だ。ふう。それにしても追試は完璧だから見返してやれたけど、何度思い返しても悔しい。見りゃわかるじゃんかよ。1段ズレてるくらい。あーあ。


 時間とともに紗彩がシルエットになってゆく。外には緩やかな風が吹いていた。紗彩の長い髪がさらっと煽られ、その先端が金色の残照にきらりと光る。朱色の空は次第に紫がかって来た。悠太が好きな時間だった。


 綺麗だ。 紗彩、まるで絵のようだ。悠太は本気で『時よ止まれ』と願った。ささくれた気持ちは凪のように治まった。


◆シーン4 夜空


「ねえ悠太。星座表持ってる?」


 夕食後、珍しく紗彩が声を掛けて来た。悠太は一瞬狼狽えた。


「え、え?星座表?」

「うん。空のどこに何座があるって、日付を合わせて見るやつ。小学生の時は持ってたんだけど」

「さあ、持ってないと思う・・・」


 悠太は真剣に残念に思った。なんで俺、星座表持ってないんだよ。紗彩が欲しいって言ってるのに、酷い男だ。


「そう」

「どうするの?星座表」

「空を見るの。お星さま。ここならたくさん見えるかなって」

「あ、でもネットにあるんじゃない?」

「そっか。そうかも。ありがと悠太」


 悠太は胸をなでおろした。


 風呂から出て2階に上がろうとしたら、また紗彩がリビングから悠太に声を掛けた。今日はモテ期かよ。


「悠太。外出るの、付き合ってくれない?」

「え?もう夜だよ」

「うん。お星さま見たいの」


 そうだ。そうだった。それが紗彩のリクエストで、それを実現させるのは俺のミッションだ。


 二人はテラスから庭に出てみた。前方の眼下には町があるので空が明るく見える。


「紗彩、裏手の方がいいと思う」

「うん。結構明るいのね」


 悠太は紗彩を先導する。疲れさせちゃいけない。でもどうやって? 家の裏手は山側になるので空は暗かった。


「あ、見える。悠太、お月さま出てるのに、こんなにたくさんお星さま見えるんだ」

「うん。ちょっと待ってて。すぐ戻るから」


 悠太はテラスへ引き返すと、庭用のアルミ椅子を一つ持って来た。


「ここに座りなよ。紗彩疲れるの良くないって、婆ちゃんが言ってた」

「有難う。優しいね悠太」


「たくさん見え過ぎて、どれが何座か全然判らない」


 紗彩が呟く。確かに。悠太も星座なんて意識した事なかった。


「悠太、判る?」


 悠太は気落ちした。


「いや、全然」

「そっか。今度お爺ちゃんに聞いてみよ。お爺ちゃん学者さんだったし」

「ああ、その方がいい・・・かも」


 二人は暫く空を見つめ続ける。仄かに紗彩の香りが漂って来た。これがお姉ちゃんの匂いなのか。こんなの吸い込んじゃったら気を失いそうだ。


「ね、紗彩、もう入った方がいいよ」

「そだね。有難う」


 アルミ椅子を捧げ持って悠太は紗彩の後を歩く。まだ仄かな香りは続いている。悠太は立ち止まって空を見上げた。視界の端に、つーっと星が流れるのが見えた。白銀にキラっと光る。


 『さあ・・や』と言いかけて悠太は口をつぐんだ。見えるまでってここで頑張りそうだから。視線を戻すともう紗彩はいなかった。テラスから景子と紗彩の声が聞こえる。


 流れ星が星屑になって紗彩の髪にキラキラくっついたらさそかし絵になるだろうな。悠太は埒もないことを考えながらアルミ椅子を片付けた。


 こうして単調だった悠太の生活の壁に、紗彩がまるで美しい水彩画のように掛けられた。あまり直視すると色褪せてしまうようで怖いけど、そーっと毎日見てしまう。悠太は考えた。従姉だもんな。そういう気持ちじゃない。じゃ、何なんだ。崇めるもの? それ程他人行儀じゃない。自慢するもの? とんでもない、絶対秘密だ。 頼るもの? 倒れてしまいそうだ。そうだ反対だ。『守りたいもの』、こんな感じだ。


 太陽の光にも色褪せないよう、(かくま)うけれど、閉じ込めるのではなく潤いを欠かさず、少しずつ元気になってもらう。爺ちゃんや婆ちゃんに任せきりにはできない。悠太の中に不思議な責任感が芽生えかけていた。


◆シーン5 海が見える


 紗彩は毎日テラスの籐椅子に座りたかった。


 だって海が見えるもん。悠太が遠巻きに見ているのも知ってる。でも今は海を見ていたい。小学生になる前から、ずっと泳いできた。練習はプールだったけど、私が泳ぐプールの中には海が見えたんだ。試合の時もいつも。


 記録を出したのは小学生の時だった。得意のクロールで、その時のプールはまるで私を歓迎してくれてる海のようだった。透き通った水に、透き通ったおサカナが見えた。プールの底ではカニさんがたくさん走ってた。みんながお出でお出でって言うもんだから、紗彩は必死で追いかけた。コースロープも隣の選手も何も目に入らない。


 ゴールにもカニさんが壁を登っていて、紗彩はそこにタッチした。瞬間カニさんは泡になって消え、結果的に県の記録が出ていた。紗彩はカニさん追っかけて・・・と話したが、ウソだよー、プールにカニがいるわけないじゃん、と友だちは言った。でも本当なんだもん。私には見えたんだもん。


 そんな海と同じ海が今目の前に広がっている。大きな橋が架かり、船が橋の下を通っている。


 病気が判ったのは中学生の時だった。泳いでいても疲れ易いな、急にドキドキしたり汗をかいたり、反対に寒くなったり。水泳教室のコーチは一度ちゃんと診てもらった方がいいと言った。その結果、病気が見つかったのだ。


 それはホルモンの異常だった。循環器系に狂いが出て、その結果、動悸や血圧、脈拍がオーバーになる。身体は疲れ易くなり、手が震えたり異常な発汗もある。基本は投薬でホルモン調整を行って地道に治してゆくしかないと言われた。


 中学生の間は休みながらも学校へ通えたが、それは厳しいものだった。道端で急にドキドキが酷くなり、周囲の人が救急車を呼んでくれたこともあった。学校でも保健室の先生とはすっかり仲良くなった。でも水泳を諦めるのは嫌だった。


 だから中三の時、思い切って手術を受けた。ホルモンを分泌する部分を幾らか切除したのだ。しかし完治はしなかった。手術が終わればまた泳げると思っていた紗彩は、さすがにショックを受けた。外に出るのも嫌になり、鏡を見ることさえ拒んだ。両親も一緒に泣いた。そんな調子だったから、高校進学は諦めざるを得なかった。


 中学時代の友達が、みんな桜の花の下を潜って高校に通い始めた頃、お父さんが通信課程を受けてみないかと言ってくれた。自宅でマイペースで勉強できるし、年に1,2回はスクーリングと言って実際に学校で授業を受けると言う。それで高校に行ったことになるのならと紗彩は喜んで申し込んだ。


 それはそれで快適な生活だった。中学の時の友達も時々遊びに来てくれたし、身体の調子のいい時は、紗彩も友達と出掛けた。その頃になると流石に病気も友達みたいになり、発作の予感も判るようになってきた。だからお父さんが南ヨーロッパに転勤が決まった時、紗彩も一緒にと言ってくれたのだ。


 もしかしたらそれでも良かったのかも知れない。でも10時間を超えるフライトはやはり怖かった。途中で簡単に降りられないし、お医者さんだっていない。それなら新幹線で来られるお婆ちゃんちの方が安心と思った。どちらを選んでも海のそば。こうやってゆっくりと海を見ていられる。


 悠太はまだ緊張しているな。お母さんから別れ際に聞いた話にはびっくりしたけど、昨晩の悠太は優しかったし、頑張ってるんだ。さ、そろそろ家の中に入らなきゃ。お婆ちゃんが心配する。


 それにしても夕暮れの海は本当にきれい。オレンジの雲ががピンクになって紫になって、やがてグレーに変わる。紗彩はこの時間が好きだった。だからもうちょっとだけ。


 しかし紗彩は、悠太もその時間が好きだなんて、同じ気持ちで見ているなんて、知りもしなかった。

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