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海のテティス  作者: Suzugranpa
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第16話 階段

 翌朝は快晴だった。梅雨時なのに珍しい。でも取り敢えず良かった。悠太は誰にだか判らないが感謝した。紗彩が出発すると言っても2ヶ月後には帰ってくる。なので悠太は普通に学校へ行った。紗彩は玄関まで見送ってくれた。


「行ってらっしゃい。悠太、有難う、楽しかったよ。お婆ちゃんの言うこと、よく聞くのよ」

「判ってるよ。行って来ます」


 あーあ、本当の姉貴なんだから反抗もできない。悠太はわざと不愛想に、振り返りもせずに出掛けた。

昨晩、紗彩に聞いた事は祖父母には言わないつもりだ。爺ちゃんも婆ちゃんも何かの都合で言わなかった筈だから。


 それに、言った所で、紗彩が言った通り、何も変わりゃしない。叔母さんは急にお母さんになれない。悠太はいつも通り、海を眺めながら坂を下った。


 そして、悠太が帰宅したら紗彩はいなかった。孝が付き添って、車で大阪へ出発したのだ。1泊した上で関空から飛び立つと言う。


「婆ちゃん、紗彩、ちゃんと行ったの?」

「当たり前でしょ。悠太のこと心配してたよ。反抗期だから無茶しないかなって」

「反抗期じゃねーよ」

「紗彩ちゃんの言った通りだ。悠太は多分そう言うから、そう言うのが反抗期だって言ってた」

「うるせーよ。ったく姉貴みたいだな。(ってホンモノだけど・・・)」


 悠太は紗彩の部屋に行ってみた。がらんとしているが、全ての荷物を持って行ったわけではなさそうだ。クローゼットにはカーディガンやスカートが掛かっていたし、文具類も残されている。机の上には市民体育大会で貰った盾。人魚が空を見上げるレリーフの盾だ。その横には大きな茶色の封筒が置かれていた。


『うみどり看護専門学校』・・・? 


 病院でもらったのかな。これからの治療と関係あるのかも知れない。


 悠太は伸びをしながらリビングに戻り、ソファに座った。静かだ。ガラス越しに見えるテラスの籐椅子が淋しそうに見える。あれ? ローテーブルにスケッチブックが載っている。忘れてったのかな? 悠太は小さいスケッチブックを手に取った。3頁(めく)ると4枚目は白紙だった。なんだ3枚しか描いてないじゃん。上手いけど。


 1枚目はテラスから見降ろした海と橋の風景だ。紗彩が来て間もなく、雨の日にスケッチしたものに違いない。灰色の海と空、晴れた綺麗な風景を描かせてあげたいと思った日の風景だった。2枚目は紗彩が泳いだ突堤の間の浜辺。透き通った波が巧みに描かれている。そして3枚目も海の風景。浜辺で空を見上げる人魚と枝に下がるレモンが2個描かれていた。この人魚って盾のレリーフそっくり。模写したのかな?藍色の海の上に拡がる空には淡い虹が描かれていた。


 悠太はスケッチブックを持ってダイニングに入った。


「婆ちゃん、紗彩スケッチブック忘れてったみたい」

「ああ、それね、ここに置いておくんだって。また来るからって」

「そうなの。でもさ、2頁目の海っていつの間に描いたんだろう。バスターミナルまで行ったのかな」

「手術で入院してる時にベッドの上で描いたのよ。スケッチブックと色鉛筆持ってきてって頼まれて持って行ったの」


「ふうん。思い出して描いたのかな」

「夢にも出てきたって。よっぽど泳げたのが嬉しかったみたい。悠太のお蔭だって言ってたわよ」

「え?」


 俺が泳げなかったのが却って良かったのか?悠太は複雑な思いで3頁目を指した。


「この絵は?」

「つい最近かな。荷物(まと)めながら描いてたよ。それでね、帰って来る度、一枚ずつ海の絵を増やすって」


 悠太は目の奥が少し潤んだ。一枚ずつ増える違った色の海の風景。灰色の海、久し振りに泳いだ海、そして柚と泳いだ思い出の風景。それは紗彩の心の中の階段のようだった。姉貴、どこまで登って行くのだろう。


「紗彩ちゃんさ、高校終わったら、帰国して看護学校行くって」

「看護学校?」


 さっき見かけた封筒はそれだったのか。


「そう。看護師さんになるって。ほら、紗彩ちゃんが輸血してもらったお友達がいるじゃない、青いトラックに乗ってる。その人と一緒に勉強するって。自分は何回も助けてもらったから、今度は他の人を助けてあげたいって。首の傷痕を見せたら大抵の人は勇気づくんじゃないかって笑ってたけどね・・・」


 景子は唾を飲み込んだ。何かを(こら)えている。


「それ聞いた時、お婆ちゃん涙出ちゃったよ。どんな思いでネッカチーフ取ったんだろうって」


 悠太も紗彩の2筋の傷を思い浮かべた。抜糸した後、紗彩は平然とネッカチーフを取った。大抵の人が見てギョッとする生々しい痕だ。整った顔の分、そこだけが罰せられて釣り合わせてる感じがする。傷痕がなければ、モデルもできそうなのにな。それを思うと悠太も目がジンとなった。景子は軽く深呼吸した。


「でもね、ネッカチーフ取ったのも柚ちゃんのお蔭なんだってよ」

「柚の? なんで?」

「知らなくていいのよ。女の子同士の話なんだから。」

「えー」


 看護師・・・か。あの封筒が紗彩が次のステップなんだ。紗彩の描いた人魚が見上げる虹の向こうなんだ。


「婆ちゃん、紗彩の傷痕って消えるのかな」

「それが判らないのよね。徐々にマシになりますってお医者様は言ってるみたいなんだけど、徐々にってどれくらいなんだか。古い方はもう3年以上経ってるのにちっともマシになった気がしないし」

「あんな傷があると結婚とかできないの?」


 景子は少し微笑んだ。


「相手の人次第よね。悠太だったらどう?」


 悠太は考えた。柚にもしあんな傷があったら、俺はどうしただろう。いや考えるまでもない。どうもする筈ないじゃん。傷があろうとなかろうと柚は柚だ。関係ない。


「気にしない。人が変わる訳じゃないし」

「でもさ、結婚して子供が生まれて、その子が学校とかで『おまえのお母さんは首に傷がある』とか苛められるかもしれないよ」


 悠太はむっとした。そんなの関係ないじゃん。気にするなって言うに決まってるじゃん。だってお母さんのこと、傷と関係なく好きだろ・・・。悠太は詰まった。お母さんのこと、俺にはどういう気持ちか判らない。好きだろって、その気持ちが判らない。そんな勝手なこと言えるのか。


「ごめんよ悠太。意地悪なこと言って」

「いや。でもやっぱ関係ないって言うよ。苛められてもお母さんがいる方がいいから。そのままがお母さんだからって」

「悠太のお母さんもきっと悩んだと思うよ。今になって思うことだけど」

「本当のお母さんじゃないから?」


 景子は驚いて悠太を見た。


「婆ちゃん。俺、判ってる。だって血液型がおかしいから」

「・・・」

「でもいいんだ。だからってお母さんじゃないことにはならない」

「うん。美和ちゃん、可愛がってたんだよ、悠太のこと。本当に(いつく)しんでた」

「じゃあ、なんでいなくなったの?」

「悠太、お母さんのこと、よく覚えてる?」 


 悠太は焦った。


「いや、ちょっとあまり覚えてない」

「だからいなくなったの。今のうちと思ったのよ」

「今のうち?」

「美和ちゃんも身体が悪かったから。厚の看病して(やつ)れちゃって、でも悴れ過ぎじゃないかって診てもらったら、あまり長くないって言われて」

「長くない?」


「どれ位もったかは判らないのよ。でも悠太の中でお母さんが大きくなるほど、死んでしまった時の悠太のショックは大きいだろうって。だからなるべく早くいなくなった方がって思ったみたいなのよ。血が繋がっていないのが幸いだって。そんな事を言ってたのを覚えてる」


 悠太は目の前が白くなるのを感じた。顔も声も覚えていないお母さん。そんな想いの人だったのか。


「もういないの?」

「多分ね。籍も外していなくなったから実際は判らないのよ。だけどきっと身を切られる思いで行ったと思う」

「ちょっと実感湧かない」

「そうよね。それでいいの。それが美和ちゃんの願いだったから、それでいいのよ」


 そう言うと景子は手で顔を覆った。


「だけど・・・やっぱり可哀想だったよ・・・。他に方法なかったのかなって今でも思うよ」


 少しして、洟を(すす)りながら景子は顔を上げた。


「婆ちゃん。そのお母さんのことは俺は判らないから仕方ないけど、でも俺は大丈夫だよ。家族がいるって判ってるから。時々厳しい姉貴」


 悠太は朝の決意を翻した。隠すことなんてないや。


「知ってたの?」

「ううん。紗彩から聞いたんだ。ちょっとびっくり。でも嬉しいよ」


 景子は鼻を赤くして笑った。


「そう、それは良かった。いいお姉ちゃんだよ紗彩ちゃん」

「でもさ、俺はここの子供のままでいいんだ。紗彩は元に戻したいみたいなこと言ってたけど、でも俺は今のままでいい」

「え?」

「だって、そうじゃなきゃお母さん可哀想じゃない。叔父さんとこに戻ったらお母さん、お母さんだった意味も、身を切られる思いをした意味もなくなるじゃない」


 景子はまた手で顔を覆った。


「そう・・・だね。その通りだね。優しいな・・・悠太。美和ちゃん喜んでるよ・・・きっと」


 景子は切れ切れに言った。


「それにさ、俺、柚を守らなきゃいけないんだ。だからややこしいことしてらんない」


 景子は手で口を覆いながら、涙で霞んだ目で悠太を見た。そこには、昨日の悠太よりずっと大きくなった悠太が見えた。


 悠太が部屋に戻った後で、景子は小さなフォトフレームを取り出した。そこには海辺ではしゃぐ厚・美和と悠太、そして直人・響子に紗彩が一緒に写っていた。景子は指でそっとみんなを撫でる。美和ちゃん、悠太は大きくなったよ。男らしくなった。紗彩ちゃんが来てくれて、二人とも階段を上がったよ。自分でちゃんと上がったよ。 


『大丈夫!』 写真に写った全員がそう言って笑ったように、景子には見えた。

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