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海のテティス  作者: Suzugranpa
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第14話 プールサイド

「蒸しあっつー」


 まだアップを終えただけなのに、Tシャツはもう汗でべとついている。悠太は教室に置き忘れたスポーツタオルを取りにゆき、渡り廊下を戻ってきた。プールでは水泳部が練習している。いいなあ、水の中は涼しくて。泳げないけど浸かるだけとかさせてくんねいかな、都合よい事を考えながら立ち止まる。


 おとといの市民体育大会、悠太は陸上競技に出場していたため、柚や紗彩の競泳は見られなかった。100mで柚が高校生や大人を押しのけて優勝した事、予選で紗彩が市の新記録を出したこと、でも決勝で体調が悪くなり柚がタッチの差で勝ったことなど、爺ちゃんや婆ちゃん、クラスメイトから聞かされていた。だが柚はその事に一言も触れず、紗彩に至っては帰ってからも寝たままで、昨日ようやく起きだしてきたのだ。悠太は昨晩の会話を思い出した。


「新記録、おめでとう」

「うん。有難う」

「そんなに嬉しそうじゃないね」

「記録って数字だし」

「ふうん。柚なんていっつも気にしてるけどな、俺だってそうだけど」

「柚ちゃんも楽しく泳げて良かったのに、私がぶち壊しちゃった」

「そんなことないよ。柚、言わないけど一緒に泳げて良かったって思ってるよ」

「また一緒に泳ぎたいって言ってくれたけど」

「あいつ、それ程上手に表現できないんだ。でも言ったってことは一所懸命なんだよ」


 紗彩は悠太に微笑みかけた。


「うん、それは判る。一途に想ってる、悠太のこと」

「え?」


 思わぬ方向に話が行って、悠太は赤面した。


「可愛いよね。大事にしなよ、柚ちゃん。妹みたいだな」

「う、うん…」


 本当の姉貴ならきっとこう言うんだ。柚は紗彩のこと、どう思ってるんだろう。最初に柚が紗彩と一緒の100mに出るって言った時、柚の瞳は一点を見つめ、思いが凝縮していた。柚がなみなみならぬ決意を(みなぎ)らせているのが良く判った。紗彩が実は凄腕の競泳アスリートだと、柚はどこかで聞きつけてきたのだろう。しかし、速さや記録の為ではない気がした。


『悠太のために頑張る』


 柚はぼそっと言い残して部活に行ってしまったのだ。悠太にはその言葉が『悠太を守るため』に聞こえた。俺が勝手に作った幻想に柚まで巻き込んでしまっている。決して紗彩は敵じゃないのに。しかし悠太は何も言えなかった。


 突堤の浜で泳いでから悠太にはどうにも制御できなくなった紗彩。再手術をして水泳を再開して、本来の姿に戻った紗彩。悠太は見ている事しかできなかった。俺が守るなんて、なんて厚かましい事考えたんだろう。陸に上がった人魚を見守る事は出来ても、水に戻った人魚を追いかける事なんてとてもできない。そう思ってふと視線を下に落としたら、揺るがぬ決意で悠太に張り付く柚が居たのだ。海女の時もそうだった。柚は幸運の玉を俺と思って探してたんだ。いつも柚はそうやって一緒に居て、フラフラする俺のことを想ってくれている。


 悠太は視線をプールに戻した。あの真中のコースが柚かな。ゴールにタッチしてプールサイドに上がる。ゴーグルを外して先生と何やら話している。大方、疲れは取れたかとか調子はどうだとか言ってるんだろう。いつもの柚だ。悠太は手にぶら下げたタオルを首にかけて歩き出した。有難う柚、俺も頑張らなくちゃ。


 その柚は普段通りだった。水泳部は市民体育大会の翌翌日から練習を再開していた。柚は個人で参加した100m自由形の他、水泳部として混合メドレーリレーにも出場し、チームを優勝に導いた。そう言う意味では見事な活躍だったのだが、やはり紗彩の泳ぎが忘れられない。あんなにしなやかに泳ぐにはどうしたらいいのか。紗彩さんは本当に楽し気に泳いでいた。泳ぐことは幸せって言ってた。柚も紗彩の言ったことを意識して、あれこれ考えながら泳いでみる。50mを3本泳いで、プールサイドに上がってゴーグルを外したら顧問の先生の顔が見えた。


「河野、どうしたの?なんかフォームが変だよ」

「えー、あー、えっとちょっと試してるんです」

「ふうん。あれか、あの100mの高校生の新記録見て刺激受けたか?」

「はいー。全然違うんやもん」

「まあ、あの子のはな・・・ちょっと別格… あら?」


 話し始めた顧問はプールサイドのシャワーの脇を背伸びして見た。柚も思わず振り返る。え?

そこには日傘をさした女性が立っていた。紗彩さん? 柚は思わず駈け出した。


 やっぱり、紗彩さんだ。トートバックを肩から掛け、小さく手を振る紗彩は柚より随分大人に見えた。


「どうしたんですか?もう大丈夫ですか?」

「柚ちゃん、ごめんね練習中に」

「いいえ。ちょうど先生と紗彩さんの話をしていた所だったのでびっくりしました」


 顧問の先生も追いついてくる。水泳部員もみな注目していた。顧問が紗彩に話しかける。


「見事な新記録でしたね。でもあのあと大丈夫でしたか?体温がどうのって後から聞きましたけど」

「すみません、ご心配お掛けしました。大会があったから、ずっと飲んでる薬をやめたらあんなになっちゃって、柚ちゃんにも恥ずかしいところ見せちゃいました。でももう大丈夫です」

「そうですか。それは良かった。じゃ、河野にご指導でもお願いします。彼女も面食らってましたし」

そう言うと顧問はプールを振り返り、こらーぁ、練習続けろー と叫びながら戻って行った。

「柚ちゃんはサボって大丈夫なのかな」

「はい。あたしには誰も言いません。ちょっと日陰に行きませんか」


 二人はプールサイドを降りて、倉庫の影のベンチに座った。初夏より強い陽射しが濃い影を作っている。柚がスイムキャップを取ると、紗彩がトートバックからハンドタオルを出した。


「はい」

「有難うございます。すぐ乾いちゃいますけど」


 言いながら柚が軽く髪を拭った。


「それと、これ差し入れ」


 続いて紗彩は手に持っていた保冷バックを柚に渡した。


「え?何ですか?」

「レモンのジェリーを作ってみたの。悠太のクッキー思い出しちゃって」

「あ、有難うございます」


 紗彩はトートバックを前に抱えた。


「柚ちゃんに心配かけちゃったなと思って、それに柚ちゃん泳いでる所もちょっと見たくて、悠太には内緒で来たの」

「はい。あの、紗彩さんのフォームってどうやって作ったんですか」


 紗彩は柚を見て微笑んだ。


「お姉ちゃんでいいよ。だって柚ちゃん、そうなるんでしょ?悠太もきっとそう望んでる。そうすると私の妹よ」

「え」


 柚は余りに気が早い配慮に顔が赤らんだ。確かにその通りだけど・・・。


「フォームなんて考えたこと、あまりないなあ。ジムの先生はいろいろ言ってたけど、水の中に入ったらみーんな忘れてる。だから柚ちゃんは柚ちゃんらしく泳げばいいのよ。柚ちゃん、今のままで充分カッコいいよ」


 これは聞いても無駄だな、柚は思った。紗彩さん、本当にそう思ってるし、そうやって泳いでる。きっとそれが秘訣なんだ。柚は話題を変えた。


「悠太、高校卒業したら、この島を出ると思うんです。勉強できるしきっと大学とか行くと思うから。その時、あたし悠太について行きます。あたし、イラストとかアニメ描きたいんで一緒に行って、どこかで修行しようって」

「へえ、いい夢だなあ。私、いつか柚ちゃんが描いてくれたクッキーのレシピ、お婆ちゃんに見せてもらったよ。絵が可愛かった。スタンプにもなるなあって思ったよ。そうか。悠太、責任重大だな」

「悠太の足は引っ張らないようにしますから」

「ううん、ちょっと引っ張ってやる位が丁度いいよ。でもさ、お父さん、許してくれるの?」


 柚は困った。そうだよ、多分、お父さんは猛反対するだろう。でもあたしはやる。


「えー、怒ると思います。でもそんなの放っておいて、こっそり行きます。その時は助けて下さい」


 紗彩は笑った。


「楽しそうねえ。悠太が試される時だ。私が四の五の説明してる間に逃げちゃえ」


 柚も笑い、日に焼けた髪がパラっと光った。


「それ、いいかもです。悠太、脚は速いんで、あ、でもあたし取り残される」

「でもね柚ちゃん。悠太、この頃、男の子からオトコに脱皮し始めてるよ。だから大丈夫。守ってくれるよ」


 それは紗彩さんが来たから・・・ 柚はふと思った。


「そうじゃないよ、柚ちゃん」

「え?」

「悠太、私が手術してから、思い知ったみたい。自分が守ってあげるべきは柚ちゃんだって、ちゃんと判ったみたい。成長したのよ。だから大丈夫。姉が言うから間違いない」


 柚も急に紗彩が大きく見えた。やっぱお姉ちゃんって凄い。柚は自分も早く大きくなりたいと思った。

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