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海のテティス  作者: Suzugranpa
14/18

第13話 決勝

 快方に向かい始めた紗彩は、亜美に話した通り、次々に手を打って行った。


 高校は通信制を続けながら、医師の許可も得て、対岸の市内でスポーツジムに通い始めたのだ。週3回、プールで泳ぐ。インストラクターの指導を仰ぎながら、すぐにインストラクターを超える泳ぎを見せ始めた。もう傷痕を隠すこともしなかった。初めて見た人はギョッとするものの、紗彩の笑顔に妙に納得してしまう。次第に紗彩の名前はジムの中で有名になっていた。


 そして、その帰りに亜美と待ち合わせ、食べてお喋りしたあと、青い軽トラで島までのドライブを楽しむようになった。


 泳ぎ始めて3ヶ月、紗彩はインストラクターから声を掛けられた。


「安城さん、今度の市民体育大会に出てみたらどうです? こっちで勝手に測ってるタイムだと軽く市の高校生レコードを超えるんですよね。学校から出られないなら、ここのスポーツジムの名前で出てもらったら、こっちも嬉しいんですけど」


 市民体育大会は4月末から5月にかけて行われる市のスポーツフェスティバルで、屋内プールで水泳競技もある。紗彩は祖父母とも相談の上、高校生・一般の部でスポーツジム代表として100m自由形にエントリーすることにした。


 この話は、中学の水泳部に所属する柚にも伝わった。あるスポーツジムに凄い高校生がいて、その高校生は高校の水泳部には入っておらず、市民体育大会にはジム代表で参加すると。悠太から紗彩の手術やその後の顛末を聞いていた柚は、それが紗彩であることはすぐに判った。紗彩さんもやる気になってる。あたしもやる。柚も決意した。


 柚は水泳部顧問に、市民体育大会には中学の水泳部ではなく、個人として一般の部にエントリーしたいと申し出た。顧問は呆れた。


「だってさ河野、一般の部って高校生以上だよ。すげえのがいっぱいいるんだよ。幾ら河野でもなかなか難しいんでないか?」

「判ってます。でも試したいんです。100mだけでいいから。他は中学生で出ます」

「何を試すの?」

「あ、あの、前の海女の時に一緒になった人が、多分出るので、一緒にやってみたいって」


 柚はちょっと誤魔化した。


「ほう、あの去年の奴な。幸運の海女獲っちゃったから、果たし状でも来てるのか?」

「はい?何ですかそれ」

「はは、判らんかったらいいよ。ま、一応聞いてみる。高校生が中学生の部に出るのはアウトだと思うけど、逆は大丈夫な気がするけどな、余り聞いたことない話だから」


 顧問は市の体育協会に問い合わせ、OKの返事を貰った。そこでも『なんで?』と聞かれたそうだが、みなと祭の幸運の海女の話を出すと、なるほどと納得したそうだ。それほど柚の幸運の海女は有名だった。


 紗彩はスポーツジムで少しずつ、実戦向きのメニューに取り組み始めた。インストラクターの指導にも熱が入った。


「安城さん、イケますよきっと。狙えますよ優勝。一般の部では毎年参加する人はだいたい決まってますし、高校生も有力選手がいたらその前から噂になってますからね。今回は聞く限りでは、多分安城さんがナンバーワンですよ」


 紗彩の事は一部で噂にはなっているものの、実績が出てこないので言わばジムの秘密兵器のようになっている。競技からは遠ざかっていた紗彩にはピンと来ない話だったが、ジムの意気込みは感じられた。


 しかし、大会の1ヶ月前、インストラクターから一つ注意があった。


「安城さん、市の大会とは言え、一応ドーピングチェックがあるようなんですね。オリンピックみたいに厳しいものじゃなさそうなんですけど、もし、病気の治療で薬とか飲んでいらっしゃるようでしたら気をつけた方がいいと思います」


 ドーピング・・・。


 考えたこともなかった。しかし確かにオリンピックなんかでは取り沙汰されている。ホルモンを補給する薬がその対象かどうかは判らない。しかし、敢えて危険を冒すことはない。紗彩は大会の前から薬は控えることにした。


 そして大会直前、インストラクターからもう一つの情報がもたらされた。


「以前、有力選手はいないって言いましたけどね、ちょっとびっくりなんですが、中学生が一人、一般の部にエントリーしてるようなんですね。この子は結構凄いんですよ。中学生の中では断トツ。中学生の部があるのにわざわざ一般の部にエントリーするって、何か、将来を狙っているんじゃないでしょうかね」

「中学生・・・ですか?」

「そうなんです。河野さんって言ってね、ちょと有名な子ですよ。小柄なんですけどめっちゃパンチ力あります。どういう訳か自由形の100mだけ一般の部なんですよねえ。中学の水泳部で他に出したい子が居たんでしょうかねえ」


 河野さん・・・。


 え? 柚ちゃんって河野さんだよね。彼女の『一緒に泳ぎたい』に刺激されて再手術を決心したんだ。

何か関係あるのかな。一瞬紗彩は気に懸けたが、元々競争にはあまり興味がない紗彩はすぐに忘れてしまった。


 市民体育大会当日、予選2組目の第5コースに紗彩はいた。参加者は20名。3回の予選で上位8人が決勝に進める。


 この緊張感、久し振り・・・。


 紗彩は少し興奮していた。スポーツジムでも何度か競技形式の練習はしてくれたが、そこは内輪の世界。スタートブザーでズッコケて落ちる人がいたり、『位置について』の英語(Take Your Mark)の英語発音が下手で判らなかったり、それはそれで笑えて面白かったのだが、緊張感には程遠かった。それが今は市の大会とは言え、空気がピシッとしている。柚ちゃんもいつもこんな中でやってるんだ。


 一般の部にエントリーしてきた中学生はやはり柚ちゃんだった。さっきプールサイドで会った時、柚ちゃんは、私の首の傷痕にびっくりしながら、ペコリとお辞儀して『よろしくおねがいします』とはにかんだ。慣れてるなーと感じた。私と一緒に泳ぎたいから一般の部にエントリー・・・なんて思うほど私も己惚れてはいないけど、でも何だかピッと来たな。


 まあいいいや、知らない人が多い中、良く知ってる子がいるだけでも有難い。よーし。


 名前を呼ばれた。紗彩は手を上げて前に出る。全員がスタート台横に並ぶ。笛が鳴った。スタート台に乗る。この緊張感だ。 


 Take Your Mark  プーッ! 


 合図が鳴った。紗彩は矢になって水に突き刺さる。紗彩は目の前の水底に白い砂を見た。所々に岩があって小さな魚が素早く隠れ、逃げる。漂う海藻の切れ端を感じながら、紗彩は水上に出るとシャープなストロークを開始した。1分弱の遊泳だ。少しも無駄には出来ない。泡も魚もみんな友達だ。亜美さん、有難う、こうやって泳げる喜び。紗彩はまさに人魚のように水上を進み、(ひるがえ)り、また進んだ。そしてダントツでゴールタッチした。電光掲示板には GR PBの文字が光っている。実際は市の新記録だった。


 上がって来た紗彩は清々した顔をしていた。もはや首の傷痕を晒すことには何の躊躇いもない。全予選が終了し、柚が駆け寄ってきた時も心の中は幸せいっぱいだった。


「紗彩さん、決勝はよろしくお願いします」


 柚は殊勝に挨拶に来たのだ。予選のタイムも柚は並み居る高校生を押しのけて、紗彩に次ぐ2番目だった。


「あ、柚ちゃん。どうだった?気持ち良く泳げた?」

「え、あ、はい。まずまずでした」

「そう。それは良かった。もう一回泳げるってラッキーだよね」

「は、はい」

「もしかしたら隣のコース・・・なのかな」

「はい、そうです。あの、紗彩さんの泳ぎ、凄くきれいでした。凄く練習されてますよね」

「うーん、週サンだけど、好きだからかな」


 週サン・・・なのか。柚は驚いた。復活したのは、確か今年になってからの筈だ。短期間でここまで来るって相当練習をしていると思ってた。


「それ、凄すぎです」

「何が凄いのかよく解んないけど、柚ちゃんもさ、去年の幸運の玉を探した時みたいに、よーし!って泳げば自然ときれいになるよ。泳げることは幸せだもん」

「そう・・ですね」

「じゃ、あとでね」


 手を振って紗彩は友人らしきに駈け寄って行った。柚は少しぼんやりとした。泳ぐって幸せなこと・・・なのか。


 午後からの決勝。紗彩は中央のコース。隣には柚が立っていた。手順は予選と変わらない。名前を呼ばれスタート台横に立つ。高校水泳部への応援がすごい。紗彩は周囲を見渡した。緊張はないが、予選終了後にお昼を食べながら亜美さんから言われたことが少し気になっていた。


「紗彩ちゃん、ホルモン薬飲んでないんでしょ。ドーピングチェックとかあるから」

「はい。ジムのインストラクターの人にもそう言われて」

「じゃあさ、なるべく事前に身体動かして、体温上げておくようにね」

「体温ですか?」


「うん。ホルモン不足の場合、体温が低下するのよ。その分疲れ易くなる。あたし、調べたんだ、紗彩ちゃんの症状とか。さっきはまだ余裕があったと思うけど、午後からはきつくなると思うんだ。身体を動かすと体温も上がるんだけど、紗彩ちゃんの場合は元が低いからね。水の中だし限界がある筈だよ」

「は・・・い」

「本当に気をつけて、頑張って欲しいけど無茶はしないようにね」


 亜美は紗彩の手に手を重ねて言ってくれた。こんなに心配してくれてる。有難い。だから頑張らないと。


 そして決勝戦の笛が鳴った。隣の柚と目を見交わしてスタート台に乗る。


 Take Your Mark プーッ! 


 合図が鳴った。


 瞬間、紗彩はまた人魚のように綺麗に水中へ吸い込まれた。ん?今度は北の海かな。さっきより冷たい気がする。気のせいかな。水温が変わる筈はないよね。紗彩は浮き上がってストロークを始めた。よし、行ける!紗彩はぐんぐんと伸びた。


 柚は懸命に紗彩を追った。勿論紗彩がちゃんと見える訳ではない。でも、水中でいきなり差がついている。あたしは幸運の海女なんだ。幸運が後押ししてくれる筈だ。柚は思ったが、水上に出たら更に引き離されてる。もうすぐターン、え?紗彩さんもうターンしてる。


 紗彩はのびのびと泳いだ。アナウンスが聞こえる。『5コース安城さんがリード!』 リードじゃないよ。水が運んでくれてるんだ。水に合わせて手足を送る。すると水がまた応えてくれる。その繰り返し。


 ターンした柚は既に身体2つ分以上の差を追いかけていた。速い。本当に速い。こんな人、初めて。一人だけが潮に乗って泳いでいるみたい。焦るけど追いつけない。柚、頑張れ。悠太が遠くなるよ。


 ところが、最後の10m付近で紗彩は突然失速した。柚は明らかに紗彩が力を抜いたのを感じた。どうしたんだろ。


『水が冷たい。手も足も、送れない。惰性でしか回らない。もう少しなのに。ゴールがそこにあるのに、離岸流に向かってるみたい・・・』


『うっそ、紗彩さんに追いついちゃう。どうしたの?悠太のこと、気にしてくれたの?』


 アナウンスが叫んでいる。


『安城さんペースダウン、4コースの河野さん追いつくかあ』


 紗彩は冷たい離岸流の中を()い潜りゴールタッチした。しかし、指の第1関節分だけ柚の方が早かった。


『タッチの差!優勝は中学生の河野さん!』


 またアナウンスが絶叫する。遠くで叫んでるようだ。山のコダマにも聞こえる。紗彩はプールから上がり、そのまま(うずくま)った。柚が気づいて周囲を見回した。


 しかし、それより速く反応したのは最前列で見ていた亜美だった。亜美は大声で『ドクター!』と叫び、自らも柵を乗り越えて紗彩の元に走った。紗彩に持っていたバスタオルを掛けて身体を擦る。「ほら、一緒にやって!」言われて柚も掌で紗彩を擦った。紗彩はガチガチと歯を鳴らしている。


 タンカを持った救急班が走って来て、紗彩を乗せ毛布を掛けて、そしてプールサイドから飛び出して行った。会場は騒然とし、柚はそれを呆然と見送った。


 紗彩は亜美が予想した通り、そしてドクターが注意していた通りのホルモン減少による体温低下だった。競泳用プールはスポーツジムのプールより水温は5℃近く低い。紗彩にとって、初めてと言ってよい環境だったのだ。


 亜美は再び観客席に戻り、医務室へ急いだ。生命に関わることはないと思っていたが、やはり気になる。スタッフと問答しながらようやく辿り着いた医務室で、紗彩は点滴を受けていた。水着は脱がされ、バスローブのようなものを羽織っている。


「亜美さん」


 気づいた紗彩が顔を横向ける。


「うん。大丈夫かな。ちょっと寒かったでしょ」


 医務室付きの看護師がやって来た。


「あ、ドクターって呼んでくれた人ね。よく気がついたわね。良かったわ。安城さんのチームのスタッフさん、何にもできなかったもんねえ」


 紗彩が小さい声で答える。


「亜美さんに助けて頂いたの、2回目なんです。命の大恩人」

「そうなの?医療関係の人?」


 亜美は照れた。


「いえ、これからそうなりたい志望者です」

「そうなんだ。大丈夫よ、瞬間の判断力が勝負だから、充分合格するよ」


 看護師も笑った。


「安城さん、あと1時間位で起きられると思うよ。話も聞いたからホルモン薬も点滴に入れてるし。じゃ、あなた、しばらく見ててくれる?」

「はい」


 亜美は紗彩の横に座った。紗彩をじっと見る。首の傷が生々しい。ふいに亜美の目に涙が溢れた。


「頑張っちゃって・・・」


 亜美は紗彩の手を取った。


「紗彩ちゃん、ゆっくりでいいんだよ。ゆっくり頑張ればいいんだよ」

「はい、すみませんでした」

「ちょっと眠りな。あたしがいるから心配しないで」

「はい」


 それからジムのスタッフと紗彩の祖父母が相次いでやって来た。亜美はジムのスタッフをまず追い返し、紗彩の祖父母には挨拶して、ティールームで待っててもらうよう案内した。孝は2度目の亜美の活躍に恐縮して出て行った。


 更に10分ほどして、一人の少女が現れた。先程の決勝で一緒に泳いでいた選手だった。


「あの、紗彩さん、大丈夫ですか?」


 柚は遠慮がちに声を掛けた。紗彩がふっと目を開けた。


「柚ちゃん・・・。ごめんね、最後にへたばっちゃって、楽しくなかったよね」


 亜美が柚に椅子を譲った。


「座って話しなよ。紗彩ちゃんもなるべく喋った方が早く治るし。あたし、紗彩ちゃんのお爺ちゃんに説明して来る」

「すみません、亜美さん」

「あの、知ってる人ですか?」

「うん。高校のクラスメイト。歳上の人なんだけど、唯一の友達」

「へえ」


「柚ちゃん、ごめんね。最後は寒くなって息切れしちゃって、もうこれは駄目だなって思ったの。柚ちゃんに遠慮したわけじゃないよ。だからちゃんと柚ちゃんの勝ちだよ。変な終わり方でごめんね」

「いえ、急にどうしたんだろうって思っちゃいました」

「途中までは楽しかったんだけどね」

「でもまた一緒に泳げますよね。あたし、もう一回紗彩さんに挑戦したいです。あんなに離されるなんて初めて」

「うん、もう無理かな。私多分ここからいなくなっちゃうから。元々療養に来てただけだし」

「そう・・・なんですか」


 柚は(にわ)かに淋しくなった。悠太を取られると思っていた柚はいつの間にかどこかへ吹き飛んでいる。


「あのさ、柚ちゃん」

「はい?」

「悠太のこと、お願いね」

「え?」

「だって、可愛い弟だからね」

「ええ? 悠太、従姉だって言ってましたよ?」


「そう言う事になってるんだけど、本当は悠太が生まれてすぐに伯父さんの子どもになったんだって。伯父さんが子どもできない身体って判ったから。だから本当は弟なの。でもこれは秘密厳守よ。悠太は何も知らないから。私だって実はここへ来た日に、送ってくれたお母さんから聞いただけなんだ。私もびっくりした」


 柚は何も考えられなくなった。じゃ、悠太の気持ちは、もし紗彩さんの事が好きでもどうしようもないってこと?これってあたしは安心していいのかな。


「悠太、ずっと一人っ子で育ったから、私が一緒にいると普通じゃなくなっちゃうみたい。だから鍛え直してね。柚ちゃんならできるよ」

「はい・・・」


 紗彩は間もなく起き上がれるようになり、医務室で大会スタッフから小さな盾を貰った。盾には海から空を見上げる人魚がレリーフされていた。人魚の目は空の彼方を見ている。水を飛び出して羽ばたこうとしているようでもある。


 うん、これだ。これが私には相応(ふさわ)しい。紗彩は盾を大事に胸に抱え、景子に肩を抱かれながら孝の車に乗り込んだ。見る間に小さくなる亜美に手を振りながら、紗彩は島に帰った。

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