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海のテティス  作者: Suzugranpa
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第12話 再手術

 早生みかんの出荷が始まる秋、紗彩は定期健診で病院を訪れた。検査ではホルモン値を測定し、その先の投薬量などを決める。結果は良くもなく悪くもない、これまでとあまり変わらない数値だった。結果説明の際、紗彩は思い切って主治医に聞いてみた。


「あの、なるべく早く治すためにもう一度手術を受けるってできますか?」


 同行していた孝も驚いた。傷痕が増え、かつ状況が変わらない可能性もあるのだ。主治医は頷いた。


「出来ます。まだ安城さんの場合は、組織をすべて取っていませんから、これを全て切除することで回復させることは可能だと思います。ただ、その場合はホルモンが全く出なくなる訳ですから、代わりに薬でホルモンを取り入れることになります。ホルモンバランスはいわば手動で調節することになりますから、そういう覚悟は必要ですよ」

「薬を飲み続けるという事ですか?」

「そうですね。副作用の心配はあまりない薬ですから大層なことはないです。でも、安城さんの場合、一度手術を受けられて、その切開痕が残っていますね。それがもう一つできる訳ですから、その、お嬢さんだからそういう決意も必要です」


 しかし紗彩に躊躇はなかった。傷痕は確かに恥ずかしいし自分でも見るのも嫌だ。だけどこういう生活から抜け出すことを阻むほどの理由にはならない。紗彩は孝の顔を一度見て言い切った。


「先生。手術もう一度お願いします」

「判りました。じゃ、オペのスケジュールを決めましょうか」


 ドクターと相談した結果、オペ日は3週間後となった。私も思い切って飛び込むよ。だって柚ちゃんも、一人で私を訪ねて来た。あれには相当勇気が必要だった筈だ。彼女はきっと悠太を想う気持ちから、それをやってのけたのだ。あの一途な瞳がそれを物語っていた。私も負けられない。


 手続きを終えた紗彩と孝は、ロビーを横切って正面玄関に向かう。孝は紗彩の決断に感服していた。小さかった孫娘がこんなにしっかり成長している。年寄が口を挟むべきことじゃない。帰ったら婆さんにちゃんと説明しないとな。


 正面玄関で、孝の車を待つ紗彩に、突然声がかかった。


「紗彩ちゃん」


 紗彩が振り向くと、そこにはスクーリングで一緒だった亜美がナースのユニフォーム姿で立っていた。


「あれ?亜美さん?どうしたんですか、その恰好」

「偶然ねえ。体験実習に来てるのよ。1日で看護師の体験ができるってコース。紗彩ちゃんは通院?」

「はい。定期健診です」

「そっか。やっぱりずっと通わなくちゃいけないんだ」

「いえ、やっぱり手術をまた受けることにしました。それで治ればもうあまり来なくていいそうです。薬だけ貰えばいいって」


「へえ、決心したんだ。ここで受けるの?」

「はい」

「どんな手術なんだろ」

「あの、ここを切って組織を取るんです」


 紗彩はそう言って、首のネッカチーフをずらして亜美に見せた。そこには一文字の切開痕があった。亜美は驚いた。


「え?それって、前の痕?」

「はい。もう一度切るんでまた増えちゃいます」

「そう・・・。そうなんだ」


 亜美は少し考え込んだ。そりゃ躊躇うわな。でも決心したんだ。えらいよ紗彩ちゃん。


「その手術っていつ?」

「えっと、3週間後です。25日の午後」

「判った。あたしも応援に来るよ、その日」

「え?いいんですか?」

「うん。仕掛けた責任も感じちゃうし、乗りかかった船みたいにも思うし」

「いえ、亜美さんは関係ないです。でも有難うございます」


「あのさ、念のためだけど、紗彩ちゃんの血液型は何?」

「O型ですけど」

「そっか。一緒だ」

「何でですか?」

「ううん。一応ね、何かあったら役に立てるかなって。それまでは禁酒しておくよ。じゃね」


 そう言うと亜美は手を振ってロビーに入って行った。


 手術の日がやって来た。前日から入院している紗彩は緊張感に包まれていた。一度体験した事なのだが、そして全身麻酔で気がつかないうちに終わっているのだが、それでも首を切開するという事には恐れがあった。


 ストレッチャーに乗って手術室に向かう。手術室の前には孝と景子、そして亜美がいた。紗彩ちゃん、頑張って! 景子に声を掛けられて紗彩は中へ入ってゆく。扉が閉まり、間もなく『手術中』の赤いサインが灯った。


 所要時間は2~3時間という事で、手術が始まって暫くして孝と景子は席を外した。亜美は一人、手術室の前で待った。目の前を様々なスタッフが行き交う。将来自分もこういう一員になるんだ。亜美には勉強の機会との思いもあったのだ。


 手術が始まって1時間程経った頃、俄かに手術室内の様子が慌ただしくなった。看護師が点滴用パックらしきを抱えて手術室に駆け込む。何だろう。何かあったのかな。家族の人もいない時に。亜美は漠然と不安を感じ始めた。今もまた看護師が二人廊下を急ぎでやって来る。


 すると、手術室の扉がいきなり開き、中から看護師が飛び出してきた。その看護師はすれ違う際に「溶血!」と小さく叫んだ。溶血? 溶血って赤血球が壊れることだ。亜美は先日の実習で聞いた話を思い出した。高校のスクーリングでは異なる血液型を輸血した場合、入って来た血液を固めてしまうと習ったが、実際は溶血と言う現象が起こると。


という事は、輸血に手違いがあったのでは? 亜美は立ち上がり、走って来た看護師に向かって手を上げた。


「あの、私、O型です。足りない時には輸血できます」


 看護師は立ち止まり、「はい、有難うございます」と答えて手術室に入って行った。間もなく、また廊下を走って来た別の看護師が亜美に声を掛けた。


「あの、輸血にご協力いただけるとか?」

「はい」

「あれ?あなた、この前来た人じゃない?」


 看護師は亜美をじっと見た。亜美も気がついた。現場で説明してくれた人だ。


「はい、薩摩です。手術中の患者さんが友達なので来たんです」

「そうなの? 解った。じゃ、ちょっとお願いしていいかな、2単位程。念のために」

「はい」


 1時間程で亜美は手術室前に戻った。そのまま休んでいてもいいと言われたのだが、こちらも気になる。手術室前には紗彩の祖父母も戻っていた。また何らかのパックを抱えて看護師が慌ただしく中へ入る。不審に思ったのか、孝が亜美に声を掛けた。


「あの、失礼ですが、安城紗彩のお知り合いの方ですか?」

「あ、はい。スクーリングが一緒で」

「それは失礼しました。お世話になっております。私は祖父の一条孝と申します」

「紗彩ちゃんから伺ってます。大学の先生ですね」

「え、ええまあ。あの、紗彩の両親への連絡で出ていたのですが、何かあったんでしょうかね?バタバタしてるもんで」

「私も詳しくは判らないんですけど、輸血が必要になっているみたいです。今、私も献血してきました」

「え?そうなんですか。それは有難うございました。それなら私らもやらんと」


 景子が口を出した。


「だって、血液型Aでしょ? 紗彩ちゃんはO型やから」

「それに多分ですけど、年齢的に70歳未満でないと駄目です」

「そうなんですか。知らんかったな・・・」

「採血されるときにショック受ける人がいるみたいなので」


 亜美が説明していると、手術室から看護師が一人出てきた。


「安城さんのご家族の方、間もなく手術は終了しますので、病室の方でお待ち頂けますか。後ほどドクターが説明しますので」


 どうやら手術は無事に終わりそうだ。亜美は胸をなでおろし、祖父母とともに病室へ向かった。家族じゃないけどまあいいだろ。


 三人が病室で待っていると、紗彩より早くドクターと看護師がやって来た。孝が真っ先に聞いた。


「あの、先生、紗彩は無事でしたか?」


 ドクターはマスクを外し、パイプ椅子に座って微笑んだ。


「ええ、大丈夫です。途中で出血が酷くて輸血したんですが、ちょっとそこでバタバタしましてね。余分に輸血をせざるを得なくなってご心配お掛けしました。申し訳ありません」


 ドクターは一度頭を下げた。


「しかし、あなたですかね、輸血にご協力頂いて、お蔭様で助かりました。よく状況がお判りになりましたね」


 亜美はちょっと照れて答えた。


「一応看護師を目指しているので。ここで体験実習も受けましたし」


 ドクターはまた微笑んだ。


「そうでしたか。命を救うには気転って大切なんですよ。今回はタイムリーな判断でしたよ。頑張って、是非ウチの病院に来て下さい」


 ドクターは続けた。


「で、本題です。手術については問題ありません。先程申し上げた輸血でのバタバタがあったので暫くICUの方で様子を見させて頂きますが、何もなければ明日にはここに戻って頂きます。で、今回の切除で今後はホルモンの減少が見られると思います。最初にもご説明しましたが、そこを薬でカバーしますが、やはり脈拍が遅くなったり、体温が低下したり、疲れ易くなったりとかすると思いますので、ご家族の方は気をつけてあげて下さい」


 ドクターはなおも術後の予定や予想される状況について説明を続けた。亜美は、紗彩が一段階進んだことは喜ばしい事と思ったが、亜美自身もドクターの言葉に救われた。ずっと引きずっていた『あの時・・・』が少し軽くなった気がしたのだ。


 紗彩は翌日病室に戻り、順調な回復を見せた。3日後には亜美が病室を訪れた。


 紗彩はベッドで上体を起こして何やら一所懸命に描いている。


「どう?紗彩ちゃん」

「亜美さん!」


 顔を上げた紗彩は慌てて手に持っていた小さなスケッチブックと色鉛筆を傍らのラックに置いた。亜美はベッドサイドのパイプ椅子に腰かける。紗彩は背筋を伸ばした。


「輸血有難うございました。先生から聞きました。命の恩人だよって」

「んな大袈裟な・・・。献血と一緒だったよ」

「いえいえ、丁度血液製剤を取り寄せようとしてたから助かったって仰ってました」

「そうなの?大丈夫かなあ、ここ」

「でも前にお会いした時に亜美さんが血液型を聞いて下さってて、そうか、こういうことを予想してたんだなあって、びっくりしました」


「たまたまよ。O型が足りないって、こっちだってびっくりよね。何があったのか知らないけど」

「でも亜美さんの血だから余計に元気になった気がします」

「どういう意味よ。ま、元気になったから笑えるんだけどね。はい、で、これでもっと元気つけて」


 亜美はお見舞にフルーツ入りカスタードブリュレの入ったパッケージを渡した。


「わ、これって広島のお店ですよね。美味しいところだ。すみません、有難うございます」

「バイト代入った所だからね。あたし、他に大して使うところないし」

「大好きです。カスタード。一緒に食べましょう、眺めのいい談話室みたいなのがあるんです」


 紗彩は首に包帯こそ巻いていたが、自由に動け、また何でも食べられた。二人は自販機で飲み物を買って、コーナーがガラス張りの談話室の一角を陣取った。


「さっき何描いてたの?」

「海の絵です。前に亜美さんに送ってもらった時、私、実は海で泳いじゃったんです」

「えー!大丈夫だったの?」

「その後はちょっと大変でしたけど、でも嬉しかったんです。突堤みたいなのに挟まれた入り江で、子どもたちと一緒に泳いで、私、下着で飛び込んじゃったから初めはショーツ脱げないかなとか心配してたんですけど、反対側の突堤でターンしてみたら、急に海の底の綺麗な砂とかおさかなが見えるようになって、海は4年前と変わらないやって、私だって本当は変わらない筈だって、そう思うともうショーツなんて脱げてもいい、思いっきり泳ごうって。あれは運命のターンだったなって思えました。だから忘れちゃいけないって」

「ふうん、運命のターンか・・・」

「はい。次のコースに向かうターン」


 亜美も思い描いた。きっと、人ってそういう運命のターンを幾つも経て齢を重ねていくんだ。そうやって背が伸びていくんだ。亜美は改めて紗彩の顔を見た。うん、いいお顔だ。


「で、いつ退院なの?」

「えっと4日後に検査があって、それで良ければその次の日くらいみたいです」

「そうか。もう自宅療養しなくて済むのかな」

「うーん。しんどくなることは少なくなるみたいですけど、高校はそのまま続けようかなって思ってます」


「そうなんだ。じゃ、また自宅引きこもり?」

「いえ、水泳再開したいです」

「もうちゃんと泳いでいいんだ。前からやってたの?」

「はい。中学の初めまでやってて、この病気が判ってからは中断してるんですけど、こんな海の綺麗なところで泳がないなんて、やっぱり勿体ない」


「海で泳ぐの?」

「いえ、水泳教室みたいなところがあれば通って少しずつ再開したいなって」

「なるほど。市内だとスポーツジムとかもあるもんね。じゃあまた通い出したら時々会おうね。あたしも気持ちが若返る気がする」

「はいっ。有難うございます」


 本当に、偶然の連鎖がもたらしてくれた今だ。スクーリングで亜美さんが隣に座らなかったり、お爺ちゃんの県庁での会合が予定通りに終わっていたり、柚ちゃんが水泳やってなかったり、一つでも違うと今は無かった。まるで無数にある夜空の星を繋いでできる星座みたいだ。最後はどんな形になるのだろう。カスタードブリュレの表面に散らばる星座のようなザラメをスプーンでそーっと掬いながら紗彩は思った。


 そして4日後の検査の結果、紗彩は退院が許可され、孝の車で家に戻って来た。悠太が帰宅するとダイニングで紗彩が景子と喋っている。


「あ、お帰りー悠太」

「え、そっちこそ、いや、こっちが『お帰り』でしょ」

「はは、そうかもね」


 紗彩が笑う。リュックを置いて手を洗った悠太はダイニングに座る。


「いいの?寝てなくて」

「うん。もう大丈夫。なるべく普通にして下さいって。悠太有難うね、心配かけて」


 まだ紗彩は首に包帯を巻いていたが、表情は明るかった。


「いや、俺何もしてないし」


 それを聞いて景子も溜息をついた。


「私も爺さんもよ。何も出来なかった。紗彩ちゃん、お友達に助けてもらったんだもん」

「お友達? 手術で?」

「そう、輸血してもらったの。私も爺さんも血液型が違ったけど薩摩さんは一緒だったのよ」


 紗彩も言った。


「手術の前から『紗彩ちゃん何型?』って聞かれて、看護師さん目指してる人は違うなあって思った」

「ジジババは役に立たないわ。厚の時は私も爺さんも美和ちゃんもみんなAだったから輸血できたんだけどね」

「美和ちゃん?」


 紗彩が不思議そうな顔をする。


「あ、紗彩ちゃん知らないよね。悠太のお母さんよ」


 悠太は頭の隅に何かが引っかかった。しかし続いて景子が言ったことにその『何か』は吹っ飛んだ。


「紗彩ちゃん、お父さんとお母さんの所へ行くって。南ヨーロッパ」

「え?」


 紗彩が笑う。


「まだ先だけどね。半年後にもう一回ちゃんと検査して、それでOKならお薬の処方箋作って貰ってね、外国でもお薬要るからね、それで行くの」


 紗彩がいなくなる・・・。顔にこそ出せないが悠太はショックを受けた。


「だって、学校とかどうするの?」

「んー、通信制だからスクーリングさえ何とかなればどこで受けても一緒でしょ。だから多分、続けられる」

「そうなの・・・」

「でもまだこれからよ、決めるのは。学校と病院にも相談しなきゃいけないし、もしかしたらスクーリングの時だけ、またここに戻って来るかもだし」


 悠太は頷くしかなかった。


「それとね。お医者さんがいいって言ったら、また水泳するよ。この前、悠太の代わりに泳いだ時、めっちゃ気持ち良かったもん。またやりたくなっちゃった」


 悠太は呆然とした。自分が『紗彩を水に返してあげる』と思っていたのが、紗彩自身が自らの力でそれを実現しそうになっている。何だか紗彩に『スイッチが入った』気がした。きっとこれが本来の紗彩なんだ。悠太は現実を苦く噛み締めるしかなかった。

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