第10話 神話
翌日、紗彩はけだるさが抜けなかった。スクーリングが終わったので、授業も夏休み状態で、取り立ててやることはない。ベッドから蝉の声に耳を澄ます。昨日は元気で気持ち良かった。でも3年分くらいの運動しちゃったかな。今日はその分疲れてる・・・。
ノックが聞こえ、景子が入って来た。
「紗彩ちゃん、大丈夫?」
「お婆ちゃん。うん、大丈夫だけど、しばらく寝ててもいい? ちょっと起きられる気がしないの」
「勿論いいけど大丈夫かな。無茶しちゃったんじゃないの?」
「ううん。昨日は全然平気だったの。自分でも元気だなあって感じたし。今日の分の元気を昨日使っちゃったのかな?」
「そうかもね。でも通学終わってからでよかった」
「うん」
「じゃ、フレンチトーストとお茶、置いておくよ。気分良くなったら食べて」
「有難う、お婆ちゃん」
悠太は学校へ部活に出掛けていたが、昼過ぎに戻って来た。
「あれ、紗彩はまだ寝てるの?」
「そうよ。昨日、今日の分の元気も使っちゃったんだって」
「へえ。便利な話だな」
一旦2階へ上がった悠太はまた降りて来て、ダイニングに座った。
「あのさ、お婆ちゃん」
「ん?」
「紗彩は昨日、自分は『海のテティス』って言ってたんだけど、それもギリシャ神話の神様?」
「そうよ。小さい頃から紗彩ちゃんそう言ってるの。優しい海の女神様みたいよ」
「小さい頃からギリシャ神話知ってるの?」
「そうなのよ。直人さんが足をケガしちゃった事がキッカケでね」
「直人叔父さん?」
「そう。まだ紗彩ちゃんが小学校の1年生だったかなあ・・・」
景子は語り出した。それは市民運動会のことだ。紗彩の父・直人はソフトボールに出場していた。若い頃からスポーツに親しんでいた父だ。紗彩が見ていることもあり張り切っていた。
試合は接戦で最終回を迎える。敵失でランナーが二人いるところで直人に打順が回って来た。味方の応援は熱を帯び、小さい紗彩も『おとーさーん、がんばれー』と可愛い声を張り上げていた。これで頑張らない父親はいない。直人はワンストライクの後の絶好球を右中間へ弾き飛ばした。1塁を蹴って2塁を回る。ランナーは二人生還し同点になっている。ライトからのボールはモタモタしながら1・2塁間にいるファーストへ返ってきたが、ファーストがファンブルしボールは一塁方向へ転がった。直人はその様子を振り返りながら3塁を蹴った。
サードコーチは『とーまれー!』と絶叫する。ボールはファーストからキャッチャーへ投げられ、更にサードが背後で構える。3塁へ戻ろうとした直人の脚と気持ちが逆さまになった。その瞬間、足首から不気味な音が聞こえ、直人は地面に転がった。
小さい紗彩はびっくりした。 おとーさん、こけちゃった!
なおも足首を押さえる直人に、周囲も尋常じゃないと解り、チームメイトが集まる。間もなくタンカが運ばれ、紗彩は母・響子と一緒に生まれて初めて救急車に乗った。
直人は手術後数日で、ギブスを嵌めて自宅へ戻りリハビリを始めた。甲斐甲斐しく父のお世話をする紗彩は、そこで初めて『父のアキレス腱が切れた』と響子に聞いたのだ。
「あきれすけん?」
「そうよ。足首のね、後ろの所にあるの」
「ふうん。アキレスってワンちゃんがいるの?」
てっきり紗彩はアキレスという種類の犬だと思った。
「ワンちゃんがここにいたら大変でしょ? 腱って言うのは身体の中にある骨を引っ張って動かす頑丈なお肉なの」
「お肉? アキレスって名前のお肉?」
「そう。アキレスって言うのは元々人の名前だったのよ」
響子は微笑んでアキレス腱の名前の由来を紗彩に聞かせた。
「ずーっと昔のギリシャ神話っていうお話の中に出てくるの」
「ぎりしゃ?」
「そう。遠い外国でね、きれいな海と真っ白い建物があるところ」
響子は紗彩に話した。アキレスというのはギリシャで有名な強い男の人で、それはアキレスのお母さんのテティスって言う女神様がアキレスの足首を持って、アキレスを魔法の川に浸けたからなのだ。しかし足首を手で握って浸けたもんだから足首だけは魔法の川の水に浸からず、強くならなかった。その部分は、丁度お父さんのように無理すると切れちゃう弱い部分としてアキレス腱と呼ぶようになったと。
紗彩はその話を聞いて、アキレスよりそのお母さんのテティスに興味を持った。テティスが海の女神で大変美しく、そして優しい女性と聞いたからだ。
「たくさんの男の人から、結婚してくれーって言われたみたいよ」
響子はそう言うと、紗彩のほっぺを触った。
「紗彩もそうなれるといいね」
「うん。なる!」
丁度水泳教室に通い始め、しかも結構上手に泳げることを自覚し始めた頃の紗彩だ。
「紗彩もみんなに優しくして、海のお姫様みたいな神様みたいなのになる」
紗彩は宣言すると、海で自由に泳いで、魚や人間に愛される女の子の絵を描きまくった。景子はその中の何枚かを今でも持っている。
「だから紗彩ちゃんにとって海の神様テティスは憧れの人なのよ」
「ふうん。海の神様だから泳ぎが上手いんだ。紗彩も上手かったからそう思ったのか」
「そうね、紗彩ちゃんは人魚みたいに泳いでたからね、小さい頃から」
「そうなの?」
「そうよ。知らなかった?あの子、小学生の時、県の記録も出したのよ、クロ-ルで」
「え? そんなに?」
悠太は驚いた。街のお嬢様と思っていたのが、そんな才能があったのか。それがずっと部屋に引きこもっていなくちゃいけなかったんだ。こんなに海の傍なのに。
「ね、紗彩また泳げるようになるのかな」
「さあねえ、治ればできるんじゃない?」
「紗彩って何の病気なの?」
「詳しくは知らないんだけど、ホルモンバランスが崩れてるみたい」
「ふうん?俺さ、実は見ちゃったんだ。紗彩の首の傷」
景子は悠太を見つめた。悠太はその視線に少したじろいだ。しばらくして景子は目を逸らし、小さく息をついた。
「そう。そうなんだ。必死で隠してるんだけどね。紗彩ちゃん可哀想なのよ。治るからって言われてあんな手術したのに、女の子なのにあんな目立つ傷痕つけられちゃって、でもまだ治らないのよ。もう一度手術するっていう方法もあるみたいだけど、直人さんも響子もね、それでも良くならなかったらってちょっと躊躇ってるのよね。気持ちは凄く判る」
「紗彩は?紗彩はどう思ってるの?」
「判らない。考えないようにしてるって感じ。でも昨日は泳ぎたかったんだろうね。本当に、ずっと水を得た魚みたいに伸び伸びと楽しく泳いでた子だったから・・・」
景子はそれきり黙ってしまった。悠太は仕方なく2階へ引き上げた。
自分の部屋に戻って、悠太は祖父・孝のお古のノートパソコンを開ける。
テティス,テティス・・・ あった。
ネットで調べてみると、先程景子が言ったようなことが並んでいた。
『美しい海の女神で、全能の神ゼウスも求婚した。人間と結婚し勇者アキレスの母親』
神様なのに人間と結婚・・・。それがどういうことなのか悠太には良く判らなかったが、イレギュラーな事であることは見当がついた。例えば、いとこ同士が結婚するのと同じような?いや、さすがにそれはちょっと違うかな。俺、何を考えてるんだ。
しかし、祖母とのやり取りは悠太の心の針路をちょっとばかり変えた。『今の紗彩を守る』というのではなく『紗彩を元に戻してあげる』、もっと言うと『紗彩を水に返してあげる』にはどうしたらいいんだろう。それは単に守るより遥かにハードルが高いことのように思えた。




