第9話 片鱗
スクーリングの最終日は真夏を思わせる暑い日だった。最後の授業終了後、5日間一緒だったクラスメイトとあいさつを交わし、亜美と互いにLINEを登録していたら孝からメッセージが入った。
『紗彩、ごめん、抜けられない。バスで帰れるか?悠太にはターミナルまで迎えに行かせるから』
あらら。確かお爺ちゃん、今日は県庁へ行くって言ってた。そう言う所へ行くと抜けられなくなるんだ。紗彩は漠然と理解し、了解 のスタンプを送った。
「紗彩ちゃん、どうかしたの?」
亜美が聞く。
「いいえ、ちょっとお爺ちゃんの都合が悪くなってバスで帰ってって」
「へえ。じゃ、送ってってあげるよ」
「いえ、だって島ですから」
「何よ、橋渡るだけじゃん。あたし今日はフリーだから。お出で」
「はい。すみません」
「でもびっくりしないでね」
「はい?」
駐車場に歩きながら亜美はニヤッと笑った。
「だってさ、車って、これなんだもん」
亜美が指差したのは軽トラ。色はブルーで黄色の稲妻ラインが入っている。21歳女子の車には・・・確かに見えない。
「トラック ですか?」
「そう。車持ってるって言うとさ、面倒な奴らが見てやるとか乗せろとかうるさいんだけどさ、これを見せると大抵黙っちゃうよ。何しろ二人しか乗らないから荷台に乗るか?って聞くんだけど、乗るって奴はまだ出てこない」
紗彩は吹き出してしまった。
「まあ紗彩ちゃんは聞いても判んないと思うんだけど、これって只の軽トラじゃないんだよ。エンジンは4気筒でスーパーチャージャー付き。軽いから加速は結構凄いよ。それに、リアエンジンだから振動も少ないしね。サスペンションは独立懸架で、切替えて四駆にもなるんだ。あたしバイク乗ってたから、エンジンついたものには結構うるさいんだよね」
「へえ。全然判りません」
「そうだよねえ。まあ、ヤンチャなだけでなくてある程度実力もある男子中学生みたいな感じ?」
亜美は笑った。
紗彩は一瞬悠太の事を思い浮かべた。
「さ、乗って。座席はリクライニングしないからね。後ろが壁だから」
紗彩は亜美に促されるまま助手席に乗り込んだ。トラックに乗るの、生まれて初めてだ。
「じゃ、行こうか・・・って、どこへ行けばいいのかな?」
「えっと、じゃあ島のバスターミナルまでお願いします」
「うん判った。じゃ、行くよ」
亜美は巧みなハンドル捌きで青い軽トラを走らせた。島への橋を渡る時、紗彩は窓を開けてみた。潮風が舞い込む。橋に纏わりつくようにカモメが飛んでいる。夏だ。海だ。
「ああ、泳ぎたい」
紗彩は無意識に口走った。
「泳ぎ、好きなの?」
亜美がハンドルを握りながら言った。え? 紗彩は慌てて窓を閉める。
「泳ぎ・・・好きですけど、どうして?」
「だって、今言ったじゃない。泳ぎたいって」
「あれ?」
「はは。思わず出ちゃったのかな」
「かも、です」
「あんまり聞いちゃいけないかなって黙ってたけどさ、紗彩ちゃんの病気って良くなってるの?」
「んー、変わらないって言うか、一進一退みたいなです」
「それ以上はどうしようもないんだ」
「いえ、うん、そうですね・・・」
「なんかありそうねえ」
「えっと、一度手術して、悪い所取ったんですけど、まだ残ってるので、それを取るって言うのはあるみたいです」
「やらないの?」
「それで100%治るって保証はないって前の病院では言ってました」
「マイナスはないんでしょ?」
紗彩は傷痕の事を打ち明けるか迷った。だが、亜美に笑われそうで言い出せなかった。
「あるみたいです・・・」
「ふうん」
青い軽トラは橋を渡って、ウィンカーを出しながら、島の中央のインターチェンジに入って行った。
「でも泳ぎたいんだよね」
ステアリングを切りながら、亜美は言った。青い軽トラは一般道へ右折する。
「今のままだと、紗彩ちゃんはずっと今の場所にいる気がするなあ。悪いことじゃないけどね」
何気ないその言葉は、紗彩の自覚がないまま心のダイヤルをそーっとつまんだ。そしてそれとともに青い軽トラから眺める海の色が急に色褪せ始めたことに紗彩は気づいた。本当はこんな色じゃないのに。私が好きな海はこんなじゃないのに。回りかけたダイヤルを抱えて紗彩はバスターミナルに降り立った。
「有難うございました」
「うん、じゃ、またLINEするねー」
亜美は何事もなかったように窓から手を振りながら引き返して行った。
ずっと今のまま。それはその通りだ。だけど決して居心地は悪くない。いや、高校が終わったらどうするんだろう。やはり通信制の大学に進むのだろうか。でもその先は? 判らない。この症状を抱えながらどんな道があるのか判らない。
紗彩はひとまずペンディングにして周囲を見渡した。夏の日のバスターミナル。人も殆どいない。時間も早いから悠太もまだだろう。バスターミナルの向こうから子どもたちの歓声が聞こえる。何かあるのかな。
紗彩はターミナルの周囲を歩いてみた。裏手に砂浜が見えた。突堤に挟まれた狭い砂浜だ。へえ、こんな所に砂浜があったんだ。子どもたちが歓声を上げながら泳いでいる。水はきれいだな。もうちょっと近くに行ってみよう。トートバックを肩にしっかりかけて歩き出した紗彩に声がかかった。
「紗彩!」
振り返ると悠太が立っていた。
「あれ、悠太」
「あれじゃないよ。紗彩何時のバスに乗ったの?まだだと思ってた」
「あ、ごめんね。クラスの人が送ってくれたの。トラック初めて乗っちゃった」
「そうなんだ」
「ね、ちょっと砂浜歩かない?」
「え、大丈夫なの?」
「たぶん。今日はなんか気持ちいいし」
突堤の間は50m位で丁度広めのプールのような感じだった。子どもたちは突堤から飛び込んではしゃいでいる。二人は突堤をブラブラ歩く。子どもたちが気がついた。 あ、ユウタ! 悠太は子どもにも有名らしい。
「おう」
悠太は偉そうに手を挙げた。子どもたちも寄って来る。
「ユウタ!泳ご!」
「え?」
泳げない悠太は腰が引けている。子どもたちは悠太が泳げないことを知らないらしい。
「ユウタ、100m速いんだからクロールも速いんやろ?」
「競争しよう」
「ウニ拾って!トゲあるから駄目って言われてるし」
子どもたちは口々に叫んで悠太を取り囲む。なかなかの人気ぶりだが、どうする悠太。紗彩は少し離れて見守った。
「なんで泳がんの?」
「大丈夫やって、ユウタ、家近いからずぶ濡れで帰っても大丈夫!」
「そうや。ボクがお婆ちゃんに言うたげる。ユウタがウニ取ってくれたから濡れたって」
子どもなりにいろいろ気を遣っているようだ。しかし悠太は進退窮まっていた。
紗彩は察した。私の前だ。悠太、みなと祭の後悔を引きずっていたら無茶して飛び込んでしまうかも知れない。それに、私は、私もこのままじゃ亜美さんに顔向けできない。
紗彩はトートバックを置き、スニーカーと靴下を脱いだ。髪を一つにまとめながら子どもたちに近づく。
「みんな、悠太は今しんどくて無理だから、お姉ちゃんが代わりに泳ぐよ」
子どもたちは一斉に紗彩を注目した。悠太は狼狽えた目で紗彩を見る。紗彩はその場でTシャツとスカートを脱いで下着だけになった。そして突堤の端まで歩くとそのまままっすぐ飛び込んだ。
悠太も子どもたちも驚いて海を見る。子どもが2,3人、慌てて飛び込んだ。しかし、その先を泳ぐ紗彩は速かった。
無駄のない綺麗なフォーム。エメラルドグリーンの透明な海から白い腕が真っ直ぐ伸びで水をかいでゆく。悠太は思った。本物の人魚姫だ。紗彩はあっという間に向こうの突堤に到着し、きれいなターンを見せる。小さな水しぶきを上げながらぐんぐん進む。途中でその姿がすーっと水の中に消えた。透明な水の底に紗彩の姿がゆらゆら見える。
そのまま暫く潜った紗彩は近づいてきて浮上した。白い指に何やら掴んでいる。
突堤に着いた紗彩は周囲の子どもに、ほら と手に持ったウニを見せた。子どもが歓声を上げてバケツを差し出す。
紗彩は、水を滴らせながら、突堤に付いている階段を登って来た。笑顔だ。
「悠太、悠太の代行、任務完了!」
水に濡れた下着姿の紗彩が敬礼しながら目の前に来る。悠太は直視できなかった。目を掌で隠す。
「紗彩、透けてる・・・」
「あっ!」
慌てて紗彩はしゃがみ込む。女の子が一人、紗彩にタオルを渡した。
「有難う」
紗彩はそのままタオルで身体を簡単に拭いて、スカートとTシャツを身に付けた。まだ水は滲んでくるが、見えなくはなっている。
「悠太、見えた?」
「え、いや、あの、大丈夫」
「見たんでしょ」
「いえ、見てない」
「もう!」
紗彩は立ち上がり、靴下とスニーカーを履いた。
「帰ろ、悠太」
「うん」
「じゃね、みんな」
紗彩が子どもたちに手を振る。
「すっげー、お姉ちゃんめっちゃ速い」
「また泳いでー」
「ウニ、ありがとー」
「今度は競争!」
子どもたちはまた口々に叫んでいた。紗彩が振り返って見た海は、もう元の色に戻っていた。
しばらく無言で歩いていた二人だったが、坂道にかかったところで悠太が口を開いた。
「紗彩、凄い。泳ぎが得意だって知らなかった」
「だって、私は『海のテティス』だから」
「なにそれ」
「神様」
「またギリシア神話?」
「そう」
「いや、そう言うことじゃなくて、運動全然しないのかと思ってた」
「ちょっとね、今はしんどい。でも気持ち良かった」
悠太は湿った紗彩の背中を押した。
「ありがと。今日、泳ぎたかったんだ。橋から海見てて、泳げないの悔しくて。だから丁度良かったの」
紗彩は心のダイヤルがほんの少し回ったことに気がついた。しかし、その先どうするべきか、まだ決断はついていなかった。
帰り着いた紗彩は真っ先にシャワーを浴び、景子の小言を聞きながらベッドに入った。夕食時にも紗彩は起きてこなかった。
「しょうがないわねえ。後でお部屋に持って行ってあげるわ」
悠太は、何故か、ごめんと景子に謝った。やっぱ俺のせいだよな。俺が泳げなかったから無理させた。
びしょ濡れで目の前で笑っていた下着姿の紗彩は、悠太の目に焼き付いて離れない。人魚のように綺麗に泳ぐ姿も一枚の絵のようだった。しかし悔しい。情けない。みなと祭のことだけじゃない。数学の証明問題も、今日もまた俺は自分で何もできなかった。紗彩に助けてもらった。守るべき俺が守られるべき紗彩に助けてもらった。
悠太の心は、紗彩への憧憬と自分への叱責がごちゃ混ぜになり、明日、紗彩に何て言葉をかけたらいいのか、全く迷子になっていた。




