見敵不殺
ここだ、な。
ひとけのない寂れた街区の一角で、竜仁は鷹司から教えられた建物を見上げた。
正確には建物の成り損ないと言うべきかも知れない。聞いた話によると、完成を間近にして会社が破産、新たな買い手もつかず、もはや解体するしかないのだが、そのための資金のあてもなく、放置されたままになっているという状況らしい。
乏しい街灯りの中、人々から見捨てられたビルはいかにも不気味だった。たとえ行き場のない犯罪者だろうと、ここに隠れ潜みたいとは思うまい。誰も寄りつきそうにない場所は、当然のようにひっそりと静まり返っている、はずだった。
「うひゃっ!?」
破壊音が遠雷のように轟き、竜仁はびくりと肩を震わせた。持参した木剣の柄を無駄に強く握り締める。
幽霊か、はたまいわゆるポルターガイストか。
そうかもしれない。でも絶対それだけではない。
「ユリア、何してるんだよ……」
ほとんど泣きそうな声で呟く。悪霊に取り憑かれたようだ、と鷹司は言っていた。おそらく本当だと思う。この廃墟の中にユリアがいる。魂で繋がる竜仁にはそれが分る。しかし言葉は届かない。
直に触れられる距離まで近づくしかない。そして目を覚ませと耳元で叫ぶのだ。他ならぬこの自分が。今は我を失っているに違いない、力も技も武器の性能も自分を圧倒的に上回る相手に対して。
今すぐ回れ右したい気持ちによろめきながら、竜仁は廃ビルへと足を踏み入れた。
暗い。もちろん電気など通じているはずもなく、人工の光は皆無だ。だがユリアによる修業の成果だろう、肉体とともに五感も鍛えられているようで、竜仁は夜目が利くようになっている。
騒音は上から聞こえてくる。竜仁は階段へ向かった。崩れはしないかと冷や冷やしながら足を進め、三階でいったん止まる。もう現場はすぐそこだ。この上の階に違いない。物理的な衝撃とともに、激しい霊的な波動がびりびりと伝わってくる。
びくつきながら進軍を再開する。ようやく四階までたどり着き、入口の陰からそっと中を覗き込む。黒スーツを着た背中が見える。賀茂忠正とかいう男だろう。鷹司の知り合いの悪霊祓い師だ。竜仁も前に一度あったことがある。
イケメンぶった、いけすかない感じの奴だった。ユリアにばかり色目を使い、竜仁のことは完全に無視していたくせに、いざ自分の身が危なくなると呼びつける。何様のつもりだ。むかつく。それにユリアを守れなかった。
あの男に助太刀したい理由はない。だが黒スーツ姿のさらに向こうには、竜仁がここにいるべき理由があった。
闇の中、濁った赤黒い光がぼうっと浮かび上がっている。剣だ。常は澄んだ白金色に輝く刃が、今は暗く不吉な錆に覆われてしまったかのようだった。
気分は複雑だった。やはりユリアは悪いものに取り憑かれているらしい。だがあの状態であれば、普通の剣と変わらないか、それ以下の威力しか持たないかもしれない。賀茂は超常の戦闘には慣れているはずだ。不完全な今のユリアが相手なら、竜仁が助太刀すればどうにか戦える気がする。
強いて楽観的な分析を試みていると、奥に佇むユリアが無造作に剣を振るった。
「うぉっ?」
物陰に身を隠していてなお竜仁は飛び上がりそうになった。物凄まじい熱気だ。本来のユリアの放つ清冽な光とは全く違う、マグマのような奔流が押し寄せる。もし正面からまともに浴びでもしたら、骨まで溶かされてしまいそうだった。
では賀茂はどうなったのかと見れば、なんと扇をかざして立ちはだかっている。驚愕の光景だった。何の防御力もなさそうな雅な扇が、赤黒い光の流れを受け止めて、周囲に飛沫を散らしている。
ついに耐えきったらしい。熱波が消えて、再び暗闇が戻る。竜仁は半ば吸い寄せられるように、半ばこそこそと身を小さくしながら、中に踏み入った。
奥にはユリアが佇んでいる。その美しさは見紛いようもない。だが同時に普通でないこともまた一目瞭然だった。
右手に持った剣の切っ先が、だらりと床に落ちている。そういう構えなのではないだろう。単に持つのが億劫という風情である。全くもってらしくない。
だがもっとずっとユリアらしくない部分があった。
「ユリア、だよな……?」
距離を隔てたままそっと声を掛ける竜仁を、澄んだ瑠璃色の瞳が真っ直ぐに見返す、ことはない。苛立たしげに竜仁を捉えたのは、どろりと濁った赤黒い視線だ。
そして錆びついたような色合いの剣を、ユリアはぞんざいに振り上げ振り下ろす。
「ちょっ、待っ……」
竜仁は咄嗟に木剣を構えた。だが無理だ。こんな半端な体勢で防ぎきれるわけがない。戦慄する竜仁を、暴風のような衝撃が襲う。全身が薄紙のように震え、踏ん張ろうとした足は後ろに滑り、あえなく吹き飛ばされかかる。
「……あれ?」
だが体がボロ屑と成り果てることはなく、ユリアの剣が放った波動は失せていた。どうやら命拾いしたらしいが、事態はまだ何一つ改善していない。
「ユリア!」
とにかく正気に戻すことが先決だ。二人は魂で繋がった主としもべなのだ。誠心誠意気持ちを込めて名を呼べば、頬を張るぐらいの効果はある。あるはずだ。あるといいな。
ユリアが竜仁を見る。まるで忌わしいものにでも対するように、端麗な顔が引き歪む。竜仁は軽く泣きたくなった。
「ユリア……僕が分らないのか?」
まるで取りすがるような調子で問う竜仁に、わずかながらユリアが身を竦ませる。余り嬉しそうな仕草ではない。むしろ脅えてさえいるふうだった。あのユリアが。竜仁ごときに。あり得ない。




