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素肌のままで

 汗をかいた体に、ぬるめのお湯が心地良い。

 この世界の文明技術の発展には目を瞠るものがあるが、中でもシャワーという仕組みを考えついた人は最高の賞賛に値すると思う。


 ユリアは暫しの間目を閉じて、落ちかかる水流に我が身を委ねた。頬や額に当たる温かな滴が肌を透って、芯まで強張りをほぐしてくれるかのようだ。いつまでもこうしていたい。そんな誘惑に駆られてしまう。


 だがユリアは自らを戒めるように首を振ると、栓を捻ってシャワーを止めた。

 ユリアが快楽に浸っている今も、竜仁は朝の鍛錬を続けているはずだ。しもべたる自分だけが安穏としているわけにはいかない。主が帰ってくる前に、朝食の準備を済ませておこう。


 新しい下着をはいて、タオルで髪の水気を拭いつつユニットバスを出る。

 ガチャリと金属の噛み合う音がした。

 ユリアは振り返った。玄関のドアが開く。入ってきたのは竜仁だ。もちろんそうに決まっている。他の者だったら敵対的侵入者だ。


「あ、ただいま」

「おかえりなさい、ませ」

 しかしなぜだろう。ひどく気まずい。竜仁は玄関先に突っ立ったまま、ぼけっとユリアのことを眺めている。まるで次に自分がどうすればいいのかを忘れてしまったみたいだ。


 そしてユリア自身は何をしようとしていたのだったか。そうだ。朝食の支度だ。だが今はまだシャワーから出たばかり、だからまず先に服を着なければ――服?

 ユリアは頭を拭いていたタオルで胸を隠し、玄関に背中を向けてしゃがみ込んだ。湯を浴びていたさなかよりなお肌が火照るのを意識する。


「我が君、なぜここに! 鍛錬を続けるのではなかったのですか!?」

「あー、うん。そのつもりだったんだけど。予習しとかないといけない授業があったの思い出して」

「そうでしたか……ただ今服を着ますので、少々お待ちください」


 竜仁の声は存外に平静だった。ならば自分一人が取り乱しているわけにはいかない。覚悟を決めて立ち上がる。背中に主の視線を感じたが、あえて無視する。

「失礼しました」

 ズボンと胸覆い、それにシャツを身に付けて振り返る。竜仁の目がわずかに泳いだ。ユリアも主の顔を真っ直ぐに見られない。だがその原因となったことについてはどちらも触れない。


「では私は朝食の支度を致します」

「僕は予習してるよ」

「はい」

「うん」


 ユリアはキッチンに立った。前の世界では料理などに縁はなかったが、やってみればなかなかに楽しい。もっとも、習う相手にも道具にも事欠いているので、今はごく簡単な物しか作れない。いずれはもっと本格的に取り組んでみたいところだ。


「我が君、申し訳ありません」

「何が?」

 キッチンにいるユリアに、竜仁が居室の方から応じる。手狭な住まいだ。これでも会話するのに支障はない。


「我が君を巻き込んでしまったことです。もしも昨晩の戦いがなければ、必要な勉強を済ませておけたのではないですか」

「かもね。だけどきみに呼び出されるまでは、僕も飲み会に出てたわけだし。結局はやらなかったかも」

「それは確かに」

 ユリアは強く同意した。


「しかもかなり酔っていらしたようですし」

「げふっ」

「あまつさえ女の脂粉の匂いまでまといつかせていました。まるで最前までべったりと抱き合ってでもいたかのように」

「ごふっ」

 胸を突かれたように竜仁がむせる。ユリアは卵を握り潰しかけたが、寸前でこらえた。


「だいたい我が君には自覚が足りないのです。私という者がありながら、よその女にふらふらと……いえそういう問題ではなく、つまり、もっとしっかりしていただきたいということです。人としても騎士としても最高なタツヒト様の魂を身に宿していながら、どうしてそう情けなくあれるのですか。あのような卑小な魔物さえ持て余すなど、恥ずかしいとは思わないのですか」


 こぼれるままに言葉を吐き出す。昨晩の竜仁は思い返すだにひどかった。根本的に戦いというものに向いていないのかもしれない。

「それに比べて、あの男は実に見事だった」


 精細に見定めたわけではない。だがおそらく身の裡に蔵する霊力は、この世界の人間の標準を大きく超えるものではないだろう。ユリアと主従の契りを結び、タツヒトの一部を同化している竜仁にはたぶん及ばない。

 しかしその限られた霊力を、男は素晴らしく巧みに操っていた。よほどの修練を積んだのに違いない。第一印象の通りだ。ただ者ではない。


「……まさか偶然居合わせたわけではないだろうし、同じ魔物を追っていたと考えるべきだ。ならば、今後も会う機会はあるか?」

「知らないよ。鷹司さんに訊いてみれば」

「は? はい、そうですね。ではそうしてみます」


 半ば独り言のつもりだったので、思いがけず強い調子で答えが返ってきたことに戸惑う。竜仁の勉学の妨げとならないよう、ユリアは自分の仕事に専念することにした。やがて出来上がった目玉焼きを皿に移し、軽く塩と胡椒を振る。食パンも既に焼けている。


「我が君、支度が整いました。そちらに運びます」

「ありがと。冷蔵庫に入れといて」

「は?」


 聞き違えたのかと思った。さもなければ言い間違いだ。

 だが竜仁は座卓の上の本や筆記具を片付けると、出掛ける準備を始めた。立ち尽くすユリアへ口早に告げる。


「あとは大学でやるから」

「なぜ急に……家ではできないのですか?」

「気が散る」

 まるで逃げるように竜仁は部屋を出て行った。


 味気ない。だが作ったのは他ならぬユリア自身だ。文句を言っても仕方ない。

 作業的に朝食を口に運び、よく噛んでから呑み下す。そして気付いたときには、皿の上はすっかり空になっていた。冷蔵庫に入れておいてと言われたはずの、竜仁の分まで完食している。


 いったい何をやっているのかと思う。

 竜仁は主であり、ユリアはしもべだ。ユリアがこの世界に転生することができたのは、竜仁が魂を結んでくれたからだ。ユリアがここにいるのは全て竜仁のおかげである。


 その主君に対して、自分はどれだけ報いているだろう。衣食住を依存していながら少しの役にも立てず、ただいたずらに本人の望まぬ戦いを強いて、過大な負担を負わせているだけではないのか。

「……私が竜仁様の元にいることに、どんな意味がある?」

 問いは虚しく空気を震わせて消えた。

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