無に至る病
まだなのか。いくらなんでも長過ぎはしないだろうか。もし何かまずいことになっていたらどうする。手遅れになる前に覗いてみた方がよくないか。
覗くといっても、もちろん邪な意味ではない。竜仁は純粋にユリアのことが心配だった。普段の状態であれば、たとえ相手が格闘技の世界チャンピオンでも遅れを取りはしないだろうが、今は違う。高熱を発し、意識もない。
あの鬼頭とかいう大男は得体が知れない。鷹司が付き添っているのだからまさか不埒な所業には及ぶまいと思う一方で、その鷹司に対する不安もゼロではなかった。ユリアは誰しもを惹きつける超絶の美少女だ。そのユリアに対して、これまでもしばしば必要以上に好意的な態度を示している鷹司が、この際に気が迷わないと断言できるだろうか。
やっぱり少しだけ様子を見てみよう。
高鳴る心臓を押さえつけ、竜仁はそうっと引き戸に擦り寄った。
「終わったわ」
まさにその瞬間引き戸が開き、背骨が折れそうな勢いで仰け反った竜仁に、鷹司が不思議そうに首を傾げる。
「どうかしたの?」
「や、気にしないでください。ちょっと柔軟体操してただけなんで」
「どうぞ入って。あなたの部屋なんだから、遠慮はいらないわ」
鷹司が場所を空ける。竜仁は真っ先にユリアの様子を確認した。きちんと布団を掛けられて寝ていることに、まずはほっとする。こうして見る限りでは、特に悪化してもいないようだ。
その傍では鬼頭が黙々と道具を片付けている。室内でも真っ黒いサングラスを掛けたままの姿は、とても医者には見えなかった。あの聴診器や注射器はちゃんと本来の正当な目的に使用されたのだろうか。不安を覚えずにいられない。
いつまでも口を開かない鬼頭に代わり、鷹司が診察結果を教えてくれた。
「特に異常無しだそうよ。たぶん過労だろうって。もし二、三日経っても良くならなかったり、容態が急変するようなことがあったら、すぐに連絡して。それと念のため血を採ったから検査に回すわ。もちろん秘密は厳守するし、結果が出たら改めて知らせる。それでいい?」
鷹司もユリアが普通の人間でないということは知っている。何かおかしな点が出て来ても、上手く処理してくれるだろうと信じることにする。
「はい、色々ありがとうございます。このお礼はきっとしますから」
「そんなこと気にしないで。ユリアちゃんのためだもの」
「それであの、お礼はともかく、今日の診療代金はどうしたら……実は僕あんまり持ち合わせがないんですけど。後払いとか分割でもいいですか?」
「大丈夫、全額雇用主負担にしておくわ。ユリアちゃんとは今後も末長く良好な関係を築いていきたいしね。これで私の方がずっと甲斐性があるって、彼女にも分ってもらえるでしょう?」
「……えっと、そうですね、はい。すいません。助かります」
午後になってもまだユリアは目を覚まさなかった。朝に比べればだいぶ熱は下がっているし、辛そうにあえぐようなこともほとんどない。ただ眠っているだけと言ってもいいぐらいだ。
しかし竜仁の気分は沈んでいた。部屋の中がやけに暗いような気さえする。それでも腹は減ったので、食べそびれていた二人分のトーストと目玉焼きを口に入れた。当然すっかり冷えきっていた。しみじみとまずかった。
だがカロリーはちゃんと摂取できたようで、とりあえず肉体のひもじさは治まった。ユリアの分まで食べたのだから、そのくらいのご利益はあっていい。代わりに少女は今頃お腹がぺこぺこになった夢でも見ているだろうか。
「それが嫌なら早く起きればいいんだ。僕が焼肉でも寿司でも……いや牛丼でものり巻きでも奢ってやるからさ」
ユリアは答えなかった。竜仁はこれから何をしたらいいのか分らなかった。眉間の辺りがじんわりと痺れ、視界がだんだんぼやけてくる。前がよく見えない。意味のある形が消えて、世界が曖昧に沈んでいく。
それでも一つ残り続けるものがあった。
不純に染まることのない白金の輝きが、秘められた魂を照らし出す。
“お前は変わらないな”
心の赴くままに少女の髪へ手を触れる。静かに撫で梳いてみれば、まるで光の川に指を浸すような心地がする。
“どこまでも純粋で、真っ直ぐだ。たとえ巨岩に前を阻まれようと、引き返すことなど思いも寄らない。全力で打ち破るか、己が倒れるまでぶつかり続ける”
意識の軸がぶれていた。自分の存在が二重になって、別の人格の紡ぐ言葉を聞いている。その主を竜仁は知っていた。
“タツヒトだな?”
異世界の天剣騎士にして、ユリアの真のマスターだ。滅びをもたらす悪しき竜との戦いにおいて命を落とし、その砕け散った魂の一片が、竜仁の中に宿っている。
タツヒトはただじっとユリアの髪を撫でている。だが本当は竜仁のことに気付いている。
“いったいユリアはどうしたんだよ。お前には分ってるんだろう?”
手が止まった。それから顔にかかった最後の一房をすくい上げると、タツヒトはユリアの寝姿を整えた。再び触れることを憚るように、後ろに退る。
“こうなるのは必然だったのだ。そもそも無理のあることなのだからな”
“なんだよそれ。どういう意味だ”
竜仁の心にさざ波が立った。ひどく不吉な響きを感じ取っていた。
“ユリアは本来この世界に属する者ではない”
“そんなことは知ってる。今さらお前に言われなくたってな”
“つまりは異物ということだ。ならばあるべきではない存在として排除されるのが世の理だ。このまま汝が無為に傍観しているなら、ユリアはひたすらに衰弱していく。やがては露のように消えるだろう”
ひどく殴りつけられたみたいに、頭がぐらりとした。だがそのまま倒れてしまいはしない。タツヒトが条件をつけていたことに思い至る。
“このまま傍観してるならって言ったな。なら逆に言えば、何か方法があるってことだろう。頼む、教えてくれ。僕はどうすればいい?”
このままむざむざと消えさせはしない。ユリアは竜仁の隣にあることを誓ったのだ。ならば自分にはそれを果たさせる義務がある。
気のせいか、微かに笑いの気配を感じた。それも余りたちのよくないものだ。
“ユリアを世界にとってあるべきものとするために、汝にできることは一つだ。それは――”
がくんと顔が下に落ちた。竜仁の目が開く。自分の部屋だ。前に敷かれた布団にはユリアが寝ている。さっきと何も変わってはいない。
夢を見ていたのだと気付く。だがあれは同時に現実でもあった。タツヒトと話したことは、記憶に鮮明に残っていた。
ユリアを救う方法。竜仁の為すべきこと。
「……僕にそんなことができるのか?」
自信などなかった。だがやるしかないのだ。今は竜仁がユリアの主なのだから。




