サングラスの男
氷を浮かべた水にタオルを浸し、ぎりぎりと固く絞ってから適当な大きさに畳んで少女の額に乗せる。
ユリアはよく眠っているようだった。たまに苦しげな様子もするが、おおむねは静かに落ち着いている。竜仁は起こさないように注意しながら、病人の首筋に手を当てた。
「……まだかなり高そうだな」
たぶん九度ぐらいはある気がする。だが体温計がないので正確なところは分らない。
さすがにそのぐらいは買ってくるべきかと思う一方で、ユリアを独り残して外に出るのも心配だった。
それに薬がないのも問題だ。風邪系の症状はないようだし、吐き気や腹痛も見られない。となると必要なのは解熱鎮痛剤の類だろうか。しかし果たして飲ませても大丈夫なものか。
なにしろユリアは普通の人間ではないのだ。
確かにものすごい美少女という以外、見た目に変わった点はない。食事も竜仁と同じ物を摂っているし、トイレにも行っている(もっとも実際にしているところを確かめたことはないが)。
しかし事実として竜仁はユリアが特別な存在だと知っている。虚空から現れた異世界転生少女騎士が、中身までこちらの人間と同じ作りなのかは全く定かでないのだ。
それゆえ医者にはなおさら連れて行きにくい。もしも医学的に、それどころか生物としてさえあり得ないような体だったりしたら、きっと厄介なことになる。
それでも今より悪化するようなことがあれば、もうなりふりを構ってはいられない。担いででも病院に連れて行くか、最悪救急車を呼ぶしかない。
独り不透明な先行きを案じていると、玄関チャイムの音が鳴った。こんな時に誰だよと思う。ぼっちの竜仁には部屋を訪れる友人や知人はいない。恋人にいたっては言わずもがなだ。つまりはほぼ確実にセールスか宗教の類だろう。
「無視だ無視」
そのままユリアの傍に座り続ける。幸いチャイム連打もドアドンもされることはなく、静穏が戻ったことにほっとしたのもつかのま、今度はスマホにメッセージのリプライが来た。同じゼミの鷹司凛子からだ。即座に内容を確認する。
“開けて”
間髪を容れず再びドアチャイムが鳴らされた。竜仁は脊髄に電気を流されたみたいに立ち上がった。ダッシュで玄関へ向かい、恐る恐るドアを開ける。
「こんにちは」
「た、鷹司さん!? どうして急に僕なんかのところにっ」
雅な微笑を浮かべる鷹司の姿に軽くパニックになりながらチェーンを外し、改めて大きくドアを開け放つ。そして竜仁は絶句した。
鷹司の後ろに、マフィアの始末屋みたいな男が立っていた。
身の丈は二メートルほどもあるだろうか。そのうえに肩幅が広く、胸板も分厚い。まるで小山がそびえているかのようだ。
つるつるに剃り上げられた頭もカタギではない風情を醸し出し、とどめとばかりに濃い黒のサングラスが黙然と竜仁を見下ろしている。
これはいったいどういう状況なのだ。とりあえずこの場で土下座すればいいのか?
硬直する竜仁に、鷹司が穏やかに望みを告げた。
「入れてもらっていいかしら」
命令を受けたロボットみたいに竜仁は体をどけようとして、だが鷹司に続いて巨漢までもが近寄ってくるのを見るや、咄嗟に踏みとどまる。
「すいません待ってください。さっきもメッセしましたけど、ユリアは体調悪くて寝てるんです。だから鷹司さんの家のバイトにも行けません。勝手に休むのは駄目っていうなら、僕が代わりに行ってなんでもやりますから。無理やり連れてくのとかは勘弁してください」
びびりつつも訴える。鷹司は眉をひそめた。
「ユリアちゃん、そんなに悪いの?」
「今はわりと落ち着いてる感じなんですけど。とにかく熱が高くて」
「そう、やっぱり来て正解だったわね。先生、お願いします」
巨漢は鷹司の言葉に頷いた。のっそりと前へ出る。
「だから駄目だって、おわっ!?」
竜仁は立ち塞がろうとしたが、あっさりと片手で振り払われてしまった。見た目に違わぬ怪力だ。しかしこのまま行かせてしまうわけにはいかない。
「武大くん、大丈夫よ」
なおも巨漢に食い下がろうとした竜仁の手を、鷹司がいたわるように握り締める。練り絹で包まれているような心地に、ふっと力が抜けてしまいそうになる。
「鷹司さん、けど……」
「鬼頭先生は印象通りの方なの。沈黙の掟に忠実だから、安心して任せていいわよ」
竜仁は目眩を覚えた。安心できる要素がどこにも見付からなかった。