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夜の道行き

 築年数の浅い小綺麗なマンションの七階、南東角部屋のリビングである。

 照明は点いていない。だがカーテンが開けっ放しのため、窓の外には街の灯りが見えていた。

 にもかかわらず、室内は奇妙なほど闇が濃かった。まるで黒い霧でも立ち込めているかのようだ。


「僕のせいじゃない僕のせいじゃない僕のせいじゃ……」

 男は洒落たソファの脇の床に座り込んでいた。両手で頭を抱え、陰鬱で偏執的な呪文を唱え続ける。

「……ない僕のせいじゃない悪いのはあいつだあいつが悪いんだ僕の」


 ふいに顔を上げる。調子外れに声が高まる。

「せいじゃないっ、全部あいつのせいだ!」

 憎い仇に対するように、彦坂(ひこさか)直純(なおずみ)は重くわだかまる空気へ向けて吠えかかった。


「答えろ! 僕のせいじゃないって言えよ! あの娘が死んだのは僕のせいじゃない、そうだな!?」

 輝くように美しい少女から、噴水のごとく鮮血が迸る。記憶に焼き付いてしまったみたいに、同じ場面がいつまでも脳裡から離れない。


 彦坂が直接手を下したわけはない。それは絶対確かなことだ。

 彦坂にはあの娘を傷つける意図さえなかった。凛子(りんこ)との仲を邪魔しようとしゃしゃり出て来た身の程知らずを追い払おうとしただけだ。

 それを勝手に過剰反応した挙げ句、自分から剣の前へと飛び出したのだ。つまり本人の過失による事故で、彦坂には何の責任もないはずだ。


「然り。ぬしの罪ではない」

 闇が軋んだ。彦坂の背後に、暗い影がどろりと浮かび上がっていた。

 彦坂は骨まで凍るような寒気を覚え、だがその場から動こうとはしない。むしろ救われたような風情で、異類の物へ言葉を吐き出す。


「当り前だ。だって僕は指一本触れてないんだからな。全部お前がやったことだ」

「然り。まさに吾が剣を振るった」

「だからお前がどうにかするんだ。僕は知らない」


 彦坂の一方的な押し付けにも影が逆らうことはない。中世騎士の冑そのものの面上には、もちろん一筋の表情も浮かんでいない。

「然り。全ては汝の与り知らぬことだ。汝は何も知らずにいれば良い。故に」

 黒騎士の影が広がる。彦坂の身がじわじわと侵蝕されていく。


「吾に委ねよ。汝の心を開くのだ。さすればあらゆる煩いは夢のあわいに消え失せよう」

「そうか、そうだな……うん、お前に任せよう。それで僕は……」

 彦坂の首ががくりと垂れた。急速にまぶたが落ちていく。


 いつの間にか黒騎士の姿は消えており、やがて彦坂はゆるゆると面を上げた。

 その瞳はどこまでも暗く黒い。あらゆる光を閉じ込める純粋なる闇の色。

「凛子を、僕のものにする」

 錆びたバネのようにぎこちなく開いた口が、無感動に妄執を紡ぎ出した。




 頭が痛い。悩み事とかではなく、純粋に肉体的な意味で辛い。竜仁(たつひと)は歩きながら顔をしかめた。

 さっきユリアに突き飛ばされた後遺症だ。出血やめまいなどはないものの、大きなたんこぶができていて、しきりと疼く。するとそれをわざわざ自分で押してみたりして、無駄に悶える破目になる。


「痛っ」

 つい力を入れ過ぎた。我ながら実に間抜けだ。文字通りイタい奴である。

「我が君、どうされました」

 隣を行くユリアが顔を向ける。心配してくれているのは間違いない。だがいかんせん調子が素っ気ない。


「大丈夫、大したことないから」

「そうですか」

 ユリアはあっさりと頷くと、すぐに前に向き直った。その小脇にはシーツを巻いた細長い包みを抱えている。中身は人に知られたら非常にまずい代物だ。だがなにしろ見た目は可憐な美少女だから、人も殺せる兇器を持ち運んでいるのだとはまさか誰も思うまい。


 その生真面目な横顔を竜仁は盗み見る。

 夜の住宅街に灯りは乏しく、暗視能力など持たぬ身には、肌の色の変化までは見定めがたい。

 ひょっとして未だ治まらぬ怒りに紅潮しているのだろうか。それとも不機嫌に蒼褪めているのかもしれない。知りたいが、知るのも怖い。


 だがいずれにせよ、失神する前の出来事は現実だった。

 だからこそユリアは微妙に尖っているのだろう。

 キスすら未遂に終わったとはいえ、一糸纏わぬ姿のユリアに触れてしまった。思い出すだけで下半身の一部に血が集まってきそうになる。駄目だ。こんな所で前屈みになるわけにはいかない。もしユリアに悟られでもしたら、きっともう立たなく、もとい立てなくなるまでしごかれてしまう。


 後ろから自動車のエンジン音が近付いてくる。道幅は狭く、専用の歩道はない。竜仁は端へと身を寄せた。

「きゃっ」

「わっ、ごめっ」


 だがユリアの小さな体にぶつかってしまい、反射的に距離を取ろうとしたのがまずかった。

 けたたましいクラクションの音に打たれて身が竦む。まずいと思っても体はますます固くなり、かろうじて顔だけ振り向かせたことが、いっそう状況を悪くした。至近からのハイビームに視界が眩む。

「我が君っ!」


 まさに間一髪だった。しがみついたユリアが竜仁を引き戻し、直後にワゴン車が鼻先を走り過ぎた。風圧がまつ毛を揺らしたのを感じ、どっと冷や汗が滲み出る。

「ふぅー……ありがとうユリア。おかげで助かった」

「いえ、大事なくて何よりでした。緊急時とはいえ、ご無礼を致し……」


 ユリアの言葉がふいに途切れる。竜仁もまた息を止めていた。

 距離が近い、どころではない。完全に密着している。不可抗力の成り行きとはいえ、端から見ればまるっきり抱き合う男女の図だ。

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