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夜は寝るものである。

どうも久しぶりです。

これ書いたのはすごく前です。

 足音は、通り過ぎずに静止した。いくら気を付けていても、この部屋のドアは開ける度に悲鳴を上げる。鳴るぞ、と思うと同時に鳴った。毛布の中で小さくガッツポーズを決めた。

「ゆー君」

 同じ音を響かせ、ドアが閉まった。真ん中に下りたカーテンにちょっと触れたらしく、今度はレールが小さく揺れた。

「ゆー君、寝た?」

「寝たよ。何時だと思ってんだ」

 返事の代わりにカーテンが滑った。開けていいとは言ってない。

 振り向かず、目だけを動かした。窓のカーテンも全開だった。自分のスペースに入る前には真也しんやのスペースを通る必要があるので、わかっていたことではあった。でも、つい浅く息が漏れた。今日みたいな満月でも、穴が開いたような新月の夜でも、真也は寝る前に必ずカーテンを開け放した。

「また裏の塀乗り越えたのか? 危ないからやめろって何度も言ってるだろ」

「だってそうしないと入れないんだもん」

「帰ったから鍵開けてくれって連絡入れればいいだろ。なんのために夜勤の職員さんがいるんだよ」

「だって今日はあっちで寝るって言ってたから」

 論点が噛み合っていない。この施設がぼろいのも悪いけど、生まれたときからずっと住んでいるらしい真也が身軽すぎるのも難ありだ。裏庭の塀を乗り越えて東棟2階によじ登り、脆くなって少しのコツで外から開けられる男子トイレの窓の鍵を外し、侵入して元に戻す。そして自分の部屋に向かう。間の悪いことに、ここは東棟の2階だった。

「カーテン開けといていい?」

 真也は仕切りのカーテンを嫌っていた。そのくせ、俺のほうがバイトで遅くなるときは閉めていた。統一性のない奴だな、とそのときは思った。

「風呂は?」

「あっちで入った」

「飯は?」

「いらない」

「は? 食ってねーの?」

 身体を起こした。真也は指定の学校鞄を机に置いたところだった。ブレザーの下には、寝間着でよく見かけるグレーのトレーナーを着ていた。

「菓子パン確保してるぞ。好きだろ」

「ゆー君の朝ご飯じゃん」

「ちゃんと食えっつってんだよ。ただでさえバランス悪い生活してんだから」

 着替えを済ませた真也は、何故か無言で俺の隣に立った。石鹸の匂いが漂ってきた。風呂に入ったのは本当らしい。

「なんだよ。またか」

 真也はまた答えなかった。月明りだけの仄暗い部屋では、表情までは見えなかった。

 俺が目一杯右に寄ると、真也はすぐにベッドの低い柵を跨いだ。俺より早く横になり、俺をそっちのけて毛布を被る。その度に、俺は我儘な弟を持ったみたいな気持ちになった。嬉しいような面倒なような、自分でもよく判別をつけられない不思議な気分だった。

 真也はうつ伏せだった。俺は仰向けになり、真也に3分の2取られた毛布をちょっと引っ張った。肩の隙間の微妙な空洞に、冷たい空気が流れ込んだ。

「ゆー君さあ」

 こういうときは、だいたい真也から話があるときだった。しょうもない漫画の話のときもあったし、はまっているゲームの話だったこともあったし、歩いていたら自称ファンにいきなり肩を掴まれたことの愚痴だったこともあった。何故自称なのかというと、応援してくれているのは嬉しいけど、初対面の人にいきなり触るなんてそれ以前の話だから、とのことである。まあ正論か。

「エッチしたことある?」

 喉をいきなり指圧されたみたいだった。想定の「そ」の字もなかった議題に、条件反射で跳ね起きた。真也は変わらない姿勢のまま、頬杖をついて俺を見上げていた。

「な、なんだよいきなり。藪から棒にも程があるだろ」

「今度18だよね。それくらいになったら、もう普通にあるもんなのかなと思って」

 不本意にも顔が赤くなっていくのを感じた。暗い部屋でよかった。再び俺は身体を倒した。真也には背中を向けた。

 めちゃくちゃびっくりした。が、真也がいきなりそんなことを言い出す理由が気になった。もしかして今日――と考えそうになったことを振り払った。春からようやく高校生で、しかもお茶の間にただならぬ影響を及ぼす真也が、軽率な行動に及ぶとは考えにくかった。

「なさそうだね。つまんないの」

「なんでお前がつまんなくなるんだよ」

「知識欲が満たせないから」

「どんな知識欲だっての」

「じゃあさ、経験なくていいから教えてよ。あれって、お互い好きならやっていいんだよね」

 頭の一言は余計だが、こっちが勝手に恥ずかしくなっているのがバカかと思えるくらいに無垢な口調だったので、年上っぽく答えてみたくなった。俺はひとつ咳払いをした。隣で真也が姿勢を変えた気配があった。

「まあ、その……どっちもがいいと思うなら、別にいいと思う」

「よくないときあるの?」

「そりゃあるだろ。たまたま気分じゃないときだってあるだろうし。お互い好きでも、まだそこまではって場合だって」

「あー……」

 なるほどと言わんばかりの間延びだった。ちょっと疑問には思った。そんなことわざわざ人に訊かなくても、なんとなくわかりそうなものなのに。普通に漫画やゲームをクラスメイトから貸し借りしている真也なら、尚のことそうだった。

「お前さ、まさか」

「ないよ」

 言ってないのに否定されたら黙るしかない。振り向きかけた俺に、真也は言った。

「彼女ができたとかじゃないよ。彼氏もできてない」

「そりゃ彼氏は……違うだろうけど」

 俺が訊きたかったことには、当然それも含まれていた。でも、どちらかというと、ほかのことのほうに比重があった。真也の訊き方は自然ではなかった。学校やバイト仲間でひっそりそういう話題になったとき、その行為自体の出方を疑う奴はいなかった。真也が挙げたのは、前提として当たり前の確認だった。

 なんでいきなりそんなことを言い出したのか。そのきっかけになったことはなんなのか。真也の行動理論上『なんとなく』はあり得なかった。

「ねえ」

「ん?」

 背中で返事をすると、真也はこっちを向けとばかりに俺の襟を引っ張った。

「俺にしてよ、それ」

 気が付いたときにはベッドを出ていた。かなり騒々しく柵を超えたと思う。隣の部屋に音が漏れたかもしれないけど、とてもそこまで注意できなかった。

 明かりを点けた。俺のベッドの中で、真也は目を丸くしていた。目を丸くしたいのはこっちだ。

「戻れ」

 カーテンレールを挟んだ先に指を突きつけると、真也は無邪気に瞬きを繰り返した。

「なんで?」

「いいから戻れ。聞かなかったことにしてやるから、二度とバカげたこと言うな。あと今日はもう電気消さないから」

「経験ないゆー君にとっても、そんなに悪い話じゃないじゃん。まあ、男同士だからちょっと勝手が違うかもしれないけど、予行演習できるんだし。もちろん俺が彼女役でいいよ」

「そんな話してねーよ!」

 しかも頭の一言が余計である。が、真也は首を傾げるだけだった。

「大きい声出したら、職員さん来るよ」

 しかもどうしてそんなに怒っているのか、もしくは顔を赤らめているのかに対する疑問ではなく、この深夜にどうして騒ぐのかという疑問らしい。

 相手があまりにも冷静なので、こっちもちょっと落ち着いた。つい刺していた視線も緩んだ。真也は少し俯き、おとなしくベッドを出た。俺の横を通って自分のベッドに入る前に立ち止まった。

「ごめんね」

 怒らせたからとりあえず謝っておこうとか、そういう感じの謝罪ではなかった。途端に俺は、年下の子どもに激昂したことが恥ずかしくなった。虚ろに視界を動かしながら、やるせなく頬を掻いた。

「まあ、俺も……でかい声出したし。謝る」

「ゆー君は悪くないよ」

 真也はベッドの柵に片足を掛け、止まってこっちを見た。意図を察したので、先に答えた。

「開けといていいよ。嫌なんだろ」

「ありがとう」

 真也はそう言って笑うと、ベッドに潜った。俺もと戻る前に、電気を消した。部屋にまた柔い月明りが灯った。

「寝れなかったら洒落になんねーからな。俺はともかくお前は。変なこと考えずさっさと寝ろよ」

「うん」

「一応訊くけど、さっきのこと言いに戻って来たんじゃないよな」

「ひとりの部屋が思ったより寂しかっただけ」

「何回もしてるのに?」

「今日は前より寂しい気がした」

 それ以上聞くのはやめた。そっか、とだけ言って、俺もベッドに入った。

 無音が部屋に溢れていた。薄い月の光が外の音を吸い取っているみたいだった。

「真也」

 静寂にわざと水を差した。寝返りの音もなかったけど、寝息も聞こえていなかった。

「朝飯ちゃんと食えよ」

「わかってるよ」

「おやすみ」

「うん。おやすみ」

 淡々と時間が過ぎ、10分にも30分にも1時間にも思えるくらい経った後、ようやく真也は眠ってくれた。次第に重くなっていった瞼を擦っていた俺も、やっと責務を果たしたつもりで目を閉じた。

 来年この部屋を出て行かなければならない俺より先に真也がいなくなるのは、もう並の大人以上の収入があるからだけではないことは知っている。そのうちのひとつに、俺も入っている気がするのは自惚れだろうか。真相を訊くつもりはないし、訊いたとして、真也がいつでも本当のことを言うとも思えなかった。

 とりあえず今は、まあいいか。夜は寝るものである。近付く睡魔に、俺はそっと身を委ねた。



お世話になりました。


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