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わたしとあなたの七十五日  作者: ばち公
第一章 月吉伊吹
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荷車は月の荒野を行く

 アルマ・アルマットは、荒れた大地に転がした死体の目を、出来るだけ丁寧に閉じてやった。死体の瞼は痛みと恐怖のせいでひどく強張ってしまっていた。

 祈りの文句を呟いてから、別の死体を検分している医師の男に声をかけると、待てとばかりに手を挙げられた。

 『東の蛮族』の密偵だろうか、とアルマ・アルマットなんかは適当に考えているわけだが、この男がどのような判断を下すのかは分からない。


「……砦の宴に機を見て、こんなところまで出てきたのだろうか」

「さあな。だが、ありえなくもないだろうなぁ。どちらもガタイだけはいいが、顔はまだずいぶんと若い」


 月の光が滑るように射しこみ、樹皮や、検案する男の手元を照らしている。

 その清らかな月明かりを利用して、アルマ・アルマットは己の装備――例えば未だ剥き出しの剣の刃や、固く結んだブーツの紐などを淡々と確認する。汚れの少ないことや、今すぐにでも戦えることを理解すると、彼はやっと安堵することができる。


「これだけ若いとやはり哀れだが……もし宴会だから油断している、なんて踏んで足を伸ばしてきたのなら、愚かだとしか言いようが無いな。――ここにはお前がいる」


 アルマ・アルマットはそれには答えず、周囲の静けさに剣を収めた。


 仲間からそのように評価されるアルマ・アルマットが、滅多に他の北方砦へは派遣されず、カノック砦に籠りきりなのは、それが上の人間の意向だからだ。

 彼らはアルマ・アルマットをカノック砦から出そうとしない。彼に死なれてしまえば人々の士気に関わる――というのが尤もらしい理由で、なによりの本音は、彼を自らの近くに置いておきたいがためだ。彼らはアルマ・アルマットの存在を護衛とし、この戦中の僻地に飛ばされた恐怖から逃れようとしている。


 アルマ・アルマットが顔を上げたところで、遠くカノック砦は木々に阻まれ天辺さえ窺えない。

 彼は月吉伊吹のことを考えている。一人砦に残してきた、今頃すやすやと何も知らずに夢見ているだろう少女のことを。きっと窓一つない暗い部屋で、健やかな寝息を立てているだろう。

 護衛としてエディという知人に部屋前に立ってもらっているため、彼女について何かを恐れることはない。彼は腕が立つ。

 しかし嫌な予感がする、いや、自分はただ不安なだけなのか。彼女と離れたという、それだけのことが。


 二人の密偵の目的が月吉伊吹ではないと知った、というより引きずり倒して聞き出したとき、アルマ・アルマットは心底安堵したものだ。

 これで自分はあの少女に手をかけなくて済む。


 アルマ・アルマットのような腕の立つ男が、弱々しい少女一人の監視役を任せられている理由なんて単純で、月吉伊吹があまりにも信用ならないのと、何かあれば――例えば彼女が何事かを企てたり、厄介事を持ちこんだりすれば、即座に殺してしまうためだ。

 彼女が誰と、何処と繋がっていようが、アルマ・アルマットが傍についていれば対処することができる。アルマ・アルマットはどうせ砦内に待機している必要があるため、その点でも都合がよかったのだろう。


「おい! お前、こいつの顔に触っただろ。瞼を閉じてやりたい気持ちは分からんでもないが、止めてくれよ」

「すまない」

「ったく。ま、これだけ手早く倒してくれたんだから許すが……。変に歪んでいないから、検死もしやすい。いや、さすが違うとはいえ勇者アルマの、」

「――口を動かしてる暇があるなら、早く終わらせてくれ。もう眠りたい」

「はいはい」


 口を閉じ、手だけを動かし始めた男を一瞥してから、アルマ・アルマットは痩せた針葉樹に凭れかかった。そして一息つくように、シャツの首元を緩めた。


 たった二人だけの密偵だったらしい。最早周囲に人気はない。

 比較的視界の利く明月の夜であるし、なにより、風一つ無く凪いでいる。全てが静寂に沈み眠る中で、まさか何かを聞き逃すはずもない。

 よほど腕のいい密偵なら分からないが、アルマ・アルマットはそこまで化物染みた密偵なんて、誇張されたホラ話でしか聞いたことがないし、なによりそのような人間はこんな所まで来ず、より慎重かつ沈着に動くに違いない。


(まだか……)


 あまり伊吹から目を離したくない。

 かつては得体の知れない、かつ無防備な彼女を放って、どこかにでも攫われたらどうしようか、という、それだけであった。それがアルマ・アルマットに与えられた仕事だった。

 伊吹はうすっぺらい身体で、へらへらしていて、吹けば飛びそうなところがあるから余計に心配だった。本人に言ったら叱られるだろうけど。


――だけど今は、外より中の動きが気がかりだ。


 この不安定な政情のなか、いつ、誰の気まぐれで彼女が殺されるかも分からない。

 理由はなんだっていい。上の人間が不祥事を起こした、その隠れ蓑として彼女に責任を押し付けて殺す。証拠はいくらでもこじつけられる。砦内で何か一つ不穏な動きがあれば、それ自体は内々で処理して、彼女だけを表に立たせて派手に処刑して誤魔化す。庶民は詳細を知る手段も無い、それだけで全ては闇に葬り去られるだろう。


(……あいつが大人しく過ごしてくれていたから良かったが)


 伊吹は弁えているのか自覚しているのか分からないが、目立つ行動はとらず、日々大人しく過ごしていた。

 アルマ・アルマットとしても非常に助かっていた。暴れたり喚いたり、変に目に付く不安定な行動でも取られていたら、さすがの彼でも庇いきれなかった。


 謎多き隠された客人の少女――周りが彼女をどのように噂しているか、彼女自身は知っているのだろうか。どこぞの貴族の隠し子、他国から奪った人質、あるいは、囮。目立つ存在を一つ置いて、敵にそこを狙わせるようにする。

 実際、あらぬ噂――例えば彼女は帝国、特に北方砦への融資を申し出た商会の子である――を流されて、暗殺されかけている。

 ちなみに、本物の商会の人間は騒ぎの裏側で、武器の売買(融資の話は全くの出鱈目であった)の商談を済ませてさっさと帰っていった。


(……平然としているように見えたのに)


 アルマ・アルマットと月吉伊吹は、今までずっと、ほぼ離れることなく、すぐ傍らで過ごしてきた。アルマ・アルマットから見た伊吹は、飄々として明るく、時に子どもっぽくもある、柔軟性に富んだ少女だった。

 砦の上層部にいちいち嫌味を言われても、元いた世界に戻る方法がとんと見つからなくても、唐突に幼子から暗殺されかけても、彼女はある程度の感情こそ表には出していたが、そこまで引き摺ってはいないように見えていた(・・・・・)

 しかし、彼女が日々の暮らしや、その合間に起こった出来事で何を思い、実際にどう感じてきたかなんて、アルマ・アルマットには分からない。彼女が彼に向かって叫んだとおり、彼には分からない。

 互いのことを真剣に語り合ったこともなかったし、なにより彼には彼女の感情を理解するためには様々なもの――他者と心を通わせた経験や、親愛の情を育む知識など――が欠けていた。

 彼にただ一つ分かるのは、彼女の――『あなたには分からない』という、それだけの言葉に込められた思いくらいで。


『あなたには何が見えてるのかなぁ』


 伊吹の何気ない問いかけ、いや呟きに対して、咄嗟に答えに窮したのは何故だったのだろう。そのときアルマ・アルマットは暗闇のなかで、かつて自分の家族であった人達のことや、自分の最も大切にしている聖書の一節などを思い出していた。

 そして彼は結論を出す。


――恐らく自分は、何も見えていない。誰のことも。自分のことも。


 しかし、もし目の潰れるような暗闇のなかであっても、「アルマくん」と自分を呼ぶ、彼女の声は聞こえるだろう。

 彼女だけが、アルマ・アルマットを「アルマ」と呼称する。彼女は何も知らない。だから彼女にとっては、アルマ・アルマットだけが唯一の「アルマ」という名を持つ存在なのだ。


(それだけで、俺はなんだって出来るだろう)


 彼女の為に。そして、それだけを求める自分の為に。




 やがて検分を追えた男が腰を上げた。男は少しばかり背筋を捻り、伸ばしてから、死体を別々に、それらを運ぶための頑丈な袋にしまい始めた。

 まだまだ調べ足りないという様子であったが、さすがにこんな所に長居するわけにもいかない、という認識はあるらしい。

 アルマ・アルマットが手を貸そうかと申し出ると、


「絶対に止めろ」


 と渋い表情で断られた。

 アルマ・アルマット自身にあまり自覚は無いが、彼は致命的に不器用なのだ。

 男には医師としてまだ確認したいことが山ほどある。アルマ・アルマットの手にかかって、対象を台無しにされては堪ったものではない。




「こんなもんか」

「終わったか?」

「なんだ、やけに焦るな。用事でもあるのか?」


 いや、とアルマ・アルマットは首を振る。彼は、自分があの少女に情を傾けていると大っぴらに知られるのもまずい、と考えている。


「それより、荷車はどうする?」

「いや、俺が押す。お前は護衛だ、ついてくるだけでいい。寧ろ荷車には触れてくれるな。……だからしっかり護衛しろよ? 最悪、体張って俺を庇えよ!」

「お前を?」


 アルマ・アルマットは白けた目で医師の男を見やる。人間二人の重さがかかった荷車を、一人で安々と運べるほどの大男だ。医師とは思えぬほど膨らんだ筋肉が、厚みのある外套の下からも主張している。

……これに対して、健気にも身を挺して庇おうなどという酔狂な人間が、いったいどれほど居るのだろうか。


「適材適所だ。お前のアホみたいな治癒力と俺の素晴らしく天才的な頭脳と技術さえあれば、お前が死ぬことだけはないだろうからな」


 アルマ・アルマットは聞き流しながら、剣の柄に手をかけて荷車と男の背中を追う。

 発言の仔細はともかく、己の腕にこうも自信があるのは、医師としては頼もしいと言えなくもない。

……誰も彼もが、これほど分かりやすい人間であれば、と彼は内心独りごちる。


――つまり砦の上層は、得体の知れない人間を中に置いておくのも怖い、外に放してしまうのも怖い、だから殺してしまおう。殺すなら殺すで、利用の方法がある、というのである。


 とても人間が人間に行う仕打ちではないだろう。あんな外に放り出したら死ぬような、世界でたった一人みたいな少女に対して。例え思い付いたとしても、平然と口に出してよいことではない。

 アルマ・アルマットは職業柄人の命を奪うため、あまり模範的とは言えないだろうが、この北の地に生まれた他の人間同様、『北聖教会』の信徒である。今でも聖書の言葉を熱心に読み込み、いくらかの文句をそらで唱えることもできる。教えを通して道徳、あるいは倫理観を学び、それらに基づいた社会的規範を身につけている。

 彼の持つ『真っ当な価値観』からすると、月吉伊吹という一人の人間をそのような目に遭わす、あるいは彼女がそのような目に遭わされるということは、とてもではないが、受け容れきれるものではなかったのである。

 それに、


(彼女はこの世界に独りきりだ)


 それだけの事実がどうしても彼の共感と、同情にも似た憐憫を誘う。




 数刻前の宴が嘘のように静かな夜だった。荷車が岩を踏み軋む音だけが響いていた。

 医師の男は死体袋を乗せた荷車を引きながら、アルマ・アルマットはその少し後を行きながら、月に照らされた静寂の荒野を進んだ。月は狼の目のように大きく、二人と荷車の影はまるで樹木のように長かった。


 冷ややかに澄んだ夜気のなか、アルマ・アルマットはふと足を止めた。何を言うでもなく振り返ると、遠く紺碧の空に山の輪郭がにじんでいた。


「……」


 彼は完全に静止し、しばらくその場に佇んでいた。時おり人の胸を突く、なんとも説明しがたい静寂への衝動がそこにはあった。

 己の足元からは、黒々とした影が線のように伸びている。砂利混じりの大地に、ただ一つぽつんと伸びていた。まるで世界にそれ以外存在しないみたいに。


 剣の柄からも手を離し、独り立つアルマ・アルマットを置き去りにして、荷車は先へ先へと進んでいく。

 医師の男は、決してアルマ・アルマットを振り返らなかった。彼は沈黙とともに、ただ前へ前へと足を運んでいた。頭を垂れるように俯き、それがまるであまりにも重いものであるかのように、荷車を運んだ。


 アルマ・アルマットはまたその荷車の後を追いながら、北聖教会の祈りを胸のなかで唱えた。それから暗い部屋のなか、独り在るだろう伊吹のことを思い浮かべた。

 それは夜闇よりも深い胸のうちの暗がりに解けて、いくらか彼の心を慰めたのだった。

ここで一章はとりあえず完結です。

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