二人の七十六日目
「いってきまーす」
返事も聞かず、家から出た。
並ぶ電柱、アスファルトに舗装された道路、行き交う車、町並みを飾る植木や街路樹。息を吐くと確かに白いが、この地域は滅多に雪が降らない。
あれから、散歩をすることが日課になった。
体力を取り戻すため、そして自由に動けるありがたさ――制限のない移動と、健康な体という両方の意味で――を噛みしめる、というのが最初のきっかけ。今はもうただの日課だ。おかげで体力がついた気がする。それに少し体を動かすと、勉強も捗ることが分かった。
散歩コースはいつも同じ。近所にある自然豊かな市民公園をぐるりと一周。普段なら子どもたちの笑い声などで賑やかだが、今日は空が曇っているのもあって静かだった。
ベンチで読書をするお婆さんや、並んで犬の散歩をするカップル。平和だなあ、と別の世界を思い出して、なんとなく寂しくなった。
こういうときは人気の少ないところに移動して、ベンチに座って、ぼんやりする。無心で、ただただぼけーっとして、気を紛らわせる。
青い球体が光ってからすぐのことは、正直まったく覚えてない。
うわ、と我に返って、気づけば自分の部屋にいた。薄っぺらい絨毯の感触に目をぱちぱちさせた。私の部屋だ、と思った。買ってもらったばかりのパイプベッドに、昔からあるブランケット。開いた窓と、風になびくレースカーテン。昔からある勉強机には開いたノートに、シャーペンと消しゴムが転がっている。
呆然と足元を見ると、靴を履いたままだった。買ったばかりで新品同様だったけど、今はもうさすがに履き慣れてしまったローファー。
とりあえずそれを脱いでから、学生カバンを開き、スマートフォンを取り出す。のろのろと充電器に繋いで、電源をいれて、日時を確認する。
「……」
私はまた電源を切ってしまってから、固いベッドに倒れ込んだ。
それから、ちょっとだけ泣いた。
私が帰ってきたのは、ちょうど七十五日前の、私が異世界に、アルマくんの世界に移動してしまった日だった。
変な話だ。私は七十五日分、みんなより年を取っていることになるのだろうか。時間は平等とかよく聞くのに。この世界の時空は大丈夫だろうか。世界が崩壊したりしないだろうか。
まあ、今の私にとってそんなことどうでもよかった。
寂しかった。私とアルマくんの七十五日が、まるですっかりどこかにいってしまったような気分になった。いっそピッタリ七十五日分、時間が経ってくれてたらよかったのに、と思った。
寂しい、と思って、しばらくその気持ちを噛み締めながら。私はぐすん、と鼻水をすすった。
(……アルマくんに、ひどいことを言ったかもしれない)
忘れてよ、と言った。また一人になる孤独を味あわせるくらいなら。寂しくて辛い想いをさせてしまうくらいなら。
私のことなんて忘れて、と言った。
(私はばかだ……)
今ならわかるが、あれは間違いだった。
だって私は今、彼と離れてこんなにも寂しくて辛くて虚しくて死にそうな気分なのに。
アルマくんのことを忘れてしまいたいとか、出会わなければよかったとか。そんなこと、全く微塵もこれっぽっちも思っていないのだから。
(会いたい)
国の意向で生まれて、生かされて、なのにとんでもない反逆をやらかした彼は大丈夫なのだろうか。
約束したから、信じるけど。
日常生活は当たり前みたいに続いていく。普通に学校に行って、授業内容をかなり忘れていたから受験だった頃くらい毎日必死で勉強して、家に帰ってだらだらして、友達と遊んで、たまにおじいちゃんとおばあちゃんに会いにいく。
異世界での日々が、本当に夢みたいだった。
私がこの世界にくるために使った青い海のような色合いの玉は、ただの無色透明な水晶玉になっていた。そのへんの土産物屋で、やたら高い金額で売ってそうなやつ。
置き場に困ったけど、勉強机の下の見えにくい棚に、隠すことにした。傷つかないようにクッションを敷いて、たまにハンカチでつるつる拭いている。そうしていると、あの青色も夢だったのかな、とたまに思う。
アルマくんにもらった髪飾りは、実は手元にない。あっちの世界に忘れてきてしまった。病室の、ベッド脇の引き出しにしまったままだ。
落として壊したくなかったから、アルマくんに移動すると言われた時に置いてきてしまったのだ。これについて考えると後悔と歯ぎしりで死にそうになるので考えるのをやめる。
そんな間抜けな私のもとに残っているのは、水や石鹸でごしごし洗っていたため、ほつれてボロくなった制服くらいだ。
制服は結構高いから、お母さんには怒られて嘆かれた。お前は制服一つまともに着れないのかと。
謝りつつ、それでも粘って交渉し、これは絶対に捨てないという約束をお母さんと交わした。
今もそれは、私のクローゼットのなかで眠っている。
私は必死に勉強した。いい大学いい職業に就き、いつかこの世界にアルマくんが来ても自力で養えるように、だ。……現実逃避みたいな目的だけど、それでも打ち込めるものがあると、寂しい気持ちも紛れた。
クラスメートに頑張る理由を聞かれて、
「恋人を養うため」
と答えて、ものすごく心配されたのは記憶に新しい。高校生なのにヒモみたいな男と付き合ってるのかとひどい勘違いをされた。
「いや、いつかのもしもの話だから」と説明したけど、それはそれでものすごく心配された。
そう、いつかの話だ。アルマくんと別れてから一年以上経った。七十五日どころじゃなく、一緒にいた時間よりもっと月日は流れて、散歩っていう新しい趣味も、すっかり日課として体に染み付いて。なのに。
――なのに、それがいつになるかは、分からない。
鼻先にヒヤリとしたものが当たり、ビックリしてひっくり返りかけた。慌てて体を支えると、白い花びらのようなものがひらりと目の前を落ちていった。
「雪だ……」
寒いと思った。とか、いや、こんな時に降る?とか、軽く考えて笑おうとして、目の端がじわっと熱くなった。ぐっと堪えて、誤魔化すように勢いよく立ち上がった。
ぺしぺしと両手で頬を叩く。一度立ち止まってしまったら、冷静になってしまったら、もう動けなくなってしまう気がして。
(……ウジウメソメソしててもしかたない! 帰って気合入れて勉強!)
気合を入れて、よっしゃ、と体を解すために軽く腕を回そうとして。
その間抜けな体勢のまま、凍ったみたいに動けなくなった。
青い髪の人が、ぱたぱたと走っているのが見えた。
遠くて、小さくて。それでも私に、その色が見つけられないはずがない。くすんだコートに身を包んで、すらりと高い背で、まるで迷子のようにきょろきょろしながら走っていた。
目が合った瞬間、ぱっと笑顔になってきらきらと、曇天の下なのにまるで光に照らされたみたいに輝いて。
「イブ! イブキ!!」
痺れたように動けなくて、見開いただけの目で彼を見つめる。青い髪、青い目、それでも浮かないほど整った綺麗な顔。
動かない私の前で彼はぴたりと足を止めて、それから戸惑うように視線を泳がせた。
「…………あの、俺は、アルマ・アルマット、だが……」
「え、うん……え、ええ? ん? は??」
「その、覚えているだろうか……」
本当に心細そうに不安そうにつぶやく彼に、忘れるはずないでしょとかツッコミをいれるべきだったのだろうけど。
「アルマくん!! アルマくんっ!!! アルマくん!!? アルマくーん!!!」
アルマくんしか出てこなかった。アルマくん、アルマくんと彼にタックルのような勢いで飛びつくとすんなり抱きとめられて、体は子供体温ぽっかぽかで、ああアルマくんだ、と思った。
「アルマくん……」
「うん、俺はその『アルマくん』だ」
キリッとそんなことをいい声で言うもんだから私は笑えてしまって、なのに涙が出てきて、とにかくぎゅうぎゅう彼に抱きついた。
「イブキが生きてて嬉しい……」
抱きしめ返されて、幸せで、あと正直ちょっと熱いくらいで、でもそれさえ嬉しいくらい幸せだった。
「私も、私も嬉しい。アルマくんが生きててくれて嬉しい……」
「そうか。なら俺は本当に、本当に、生きててよかったなぁ……」
「うん、うん」
「頑張って生き延びたよ。イブキが俺に刺繍をくれたお陰で、俺はここまで生きてこれた」
「うん。会いに来てくれたね」
「約束しただろ?」
「うん。約束したもんね」
ね? と小指をさし出すと、アルマくんは「ああ」と優しく頷いて、そして右手を見せてくれた一方で。
さっと、自分の左手を背後に隠した。
……。
「なんで隠したの」
「隠してない」
「見せて」
強く迫ると、アルマくんは逃げたそうにそわそわしていたが、やがて諦めたようにそっとその手を差し出した。
指が三本も無くなっていた。
親指と人差指しかないその手を見て、絶句する私に、アルマくんは「雪だな」とか「空が灰色だな」とか、すごくどうしようもない話題の逸らし方にチャレンジしていた。チャレンジ精神は認めるが無理がある。
「……何があったの……?」
「戦場でうっかり。お前が去ってから色々なことがあって……とにかくベアトリーチェをトップとして帝国に反旗を翻したんだが、当然ゴタゴタして。俺もこうやって、傷を負った。すぐに『遺産』で治療出来ていればよかったんだが、時間が経ってしまい、結局このままだ」
「あるま、くん……」
「実は足も片方なくなった」
「ないの!!?」
「作ってもらったからある」
ほら、と軽い調子で上げられた足にぺたぺた触るが、確かに筋肉や皮膚があるにしては硬い。ゴツゴツしている。機械だろうか、と思ってアルマくんを見ると、アルマくんは微笑んで私を見ているだけだった。
わっと衝動的が走って、私は気付いたら彼のお腹に抱きついていた。固かった。これは腹筋の固さだった。
「アルマくんのばか!! 軽く言わないでよ!!」
「黙ってて後で言ったら怒るかと思って……。泣くな。利き手じゃないし、慣れたし、俺は別に気にしない。むしろ俺は人間だから……これが本来の、当然のことなんだと思う」
アルマくんも私をぎゅうぎゅう抱きしめてくれた。そして「イブキが生きてて嬉しい」と噛みしめるみたいにつぶやいた。それから、暫くの沈黙の後、その、と躊躇ってから、
「もう一つ、イブに言うことがある」
「か、覚悟はできてるよ……。なに……?」
「これ、壊れてしまった」
アルマくんがそっと取り出したのは、彼が以前私にくれた、飴色の髪飾りだった。真っ二つになっていて、仕掛けのところも崩れていて、なかなか派手に壊れていた。
「その、イブの忘れ物だから絶対に失くさないようにしたくて……戦場でもずっと持ち歩いていたら、壊れた」
「うん」
「でも、俺は頑張って直そうとしたんだが、なのに、なぜかもっと壊れてしまった」
アルマくんは手足の怪我について語るよりもずっとしょんぼりしていた。相変わらず不器用なうえに、やっぱり心配の分量がおかしいと言うか偏っているというか、私はなんかもう堪らなくなって、また彼に抱きついた。
「大丈夫。私が接着剤で直すよ」
「セッチャクザイはすごいな……。なら良かった」
アルマくんは心底安心したみたいに微笑んでいて、それが可愛くてかっこよくて綺麗で、悲しくて。
「……アルマくん」
「ん?」
「アルマくんのせいで私、イケメンが全然イケメンに見えなくなっちゃったよ。学年一のイケメンも後輩の美少年も生徒会のクール美男子ももう無だよ、無。全部形のいいジャガイモだよ。整ったジャガイモ。ほんと目だけ馬鹿みたいに肥えちゃったよ、私」
「空腹なんだな」
「違うよばか。だからつまりその責任を取って頂きたいですって言ってるんですけどつまり、その……!」
「うん」
「えっ」
にこにこしてあっさり頷いたアルマくんに、私は一瞬呆気に取られた。
「……分かってて頷いてる?」
「その、よく分からない。すまない。だってこんなに幸せで、幸せで、俺はこんなの初めてで、どうしたらいいかよく分からないんだ。ええと、感情を持て余してる」
「浮かれて舞い上がってるんだね。私も一緒」
「なら良かった。もっと嬉しい」
「ところで、感情を持て余して浮かれて舞い上がった恋人同士が再会したんだし、することがあると思うんだけど、ど、どうですか」
と、私は結構かなり頑張ってこんなことを言ったのに。
アルマくんはうん、と頷いて、私を抱きしめて、そのまま幸せそうにじっとしていた。
うん。違う。
「……アルマくん、ちょっと違う」
「ん?」
「あのね、ちゅーとかキスとか口付けとか接吻とかの話なんだけど。……えーと、アルマくんはそういうのにあんまり興味ない?」
「分からない。イブキが生存しているだけで尊い。こうして俺の側にいるということ自体が本当に嬉しくて幸せだと思う。こんなにもありがたいことはない」
変な方向に悟りを開いてやがる……。
私はアルマくんのコートの首元を掴んで、そのまま彼にキスをした。無駄に行動しないのは馬鹿だと、私はあの世界で学んだのだ。
アルマくんはされるがままだったが、それでも十分びっくりしていた。
「アルマくん」
「あ、うん」
「……たぶん私の『好き』は、アルマくんを知りたいって思ったところから始まったの。だからアルマくんに『分からない』とか、そういうことを言われると、それを否定されてるみたいで嫌だったんだと思う」
「……うん。すまな、」
い、と言う前に、もう一度キスをした。
「――だから、私に教えてよ。アルマくんのこと。私、あなたのことで知りたいことが、まだまだたくさんあるの」
アルマくんは少し微笑んで、私の額に唇を落とした。
「俺でよければ。……これからも時間は、たくさんあるのだから」
そのまま人目もはばからず、しばらく抱き合っていたのだが。
「イブ」
「ん?」
「俺はそろそろ帰らないと」
「え!!?」
どういうことなの。
「時間が出来たから会いにきたが、実は戦いはまだ終わっていない。中央は落としたが、まだ各地で暴れている奴がいる。そいつと決着を付けなければ」
「時間がたくさんあるとは一体……?」
「また会いに来るよ。何度だって。イブが嫌だと言うくらい会いに来る」
アルマくんはそう言って、コートのポケットから青いビー玉サイズの球体を取り出した。なんだか見覚えのある色合いだった。
「何故か分からないが、『海の者』から気に入られて貰った。以前とは異なり俺が本来の主人だから、何度だって使えるらしい」
「う、うん、なるほど……うん。しょうがないよね、仕事だもんね。うん」
……なんか気が削がれたというか、雰囲気がなくなったというか。
それから普通に、明日会うくらいのノリで別れと再会の言葉を言い合って、私はアルマくんが光って消えるのを見送った。
妙に格好がつかない、なんて気もしたけど、逆にこれくらいの方が私達らしいのかもしれない。
「よし、勉強頑張るぞー!」
「イブ!!」
「早いよ!!!」
またアルマくんだった。『監視役』と言って、いつもいつの間にか背後にいたのを、なんとなく思い出してしまった。
彼から慌てて押し付けるように渡されたのは、あの飴色の髪飾りだった。
「これを返すのを忘れていた。壊れているけど、直してくれるんだろう?」
「あ、うん」
「じゃあ、また」
「うん、また……」
そしてアルマくんはさっさと帰っていった。忙しいのは、なんとなく伝わってくるけど。
なんだこれ、と思う一方、口元がほころぶのを抑えられなかった。
だって、またね、と言ったのだ。彼は二度も現れて、髪飾りまでこの手にある。夢じゃなかったし、きっとまたこうやって、アルマくんが私に会いにきてくれる。
「……これからも、よろしくね。アルマくん」
完!!!!
あとオマケとして三話投稿しますが、二人の話はこれで本当に完!!!!
ありがとうございました!!!!




