あなたの
次にアルマくんが来てくれたのは、しばらく日が経ってからの早朝だった。太陽がやっと頭を出したくらいの早い時間帯で、アルマくんはちゃんと寝てるんだろうかと疑問に思った。
私はもう昼夜関係なく、寝れるときに寝て、目が覚めたら起きるような生活をしている。だから、アルマくんが私の起きている時に、まるで見計らったようにお見舞いに来てくれるのが不思議だった。どうやって、私の起きている時間を把握してるんだろうと思っていた。
前に来てくれたエディに聞いてみたら、「ただお前が起きてるときも寝てるときも来てるだけだろ」と笑われて、ちょっと泣いてしまったのを覚えている。
「ねえアルマくん、私の刺繍もってった?」
「うん」
「綺麗だった?」
「うん。ありがとう。死んでも大事にする」
こくこく頷くアルマくんは、大人っぽい外見なのにすごく可愛い。
――刺繍、綺麗だったらしい。
最近縫った部分なんてぐっちゃぐちゃで目も当てられない有様だったのに(だから渡す勇気が出なくて隠してたのに)、アルマくんは本当に、心の底からそう思って頷いてくれるからズルい。
「……あの刺繍を見て、今まであったことを思い出したよ」
アルマくんが優しく目を細める。……刺繍があまりにも不格好だから、私と顔を合わせ辛くて最近来てくれなかったのかと思った。よかった。
「今までのことって、どんなこと?」
「そうだな、例えば……俺が少し旅に出たときのことだな。その時に会った五人のことを、まずは思い出した」
「……そっか」
「うん」
五人と聞くと、勇者アルマの『五人の仲間』のことかな、と思ったけど、それにしては清々しい顔でにこにこしているから、判断がつかなかった。
とにかく、結果として私はアルマくんに刺繍を渡せた。これで心残りが、また減ったことになる。
あとは、目の前の――
「ん? どうした、イブ。具合が悪いのか」
「具合はずっと悪いけど、そうじゃなくて。えっと、私も……病気になってから、色々考えたり、振り返ったりしたの」
「うん」
「――聞いて、アルマくん」
改まって座っているアルマくんを呼べば、彼は神妙に私を見つめる。
「わたし、私だったの。『あなたには分からない』って、突っぱねてたのは、わたしだった」
こんな弱った状態になってはじめて、やっとそんな事がわかった私は馬鹿だと思う。
「みんな、ふつうの、いい人だった」
この世界の人達は、いい人だった。もちろん全員じゃない。良い人もいれば悪い人もいる。私の世界と同じだ。普通の、人間だ。
『私の世界』、『この世界』――そう区切っていたのは、私だった。
宴会で私に、「実はこれが甘いのでは一番高い」とジュース(という名の酒)をこっそり注いでくれた給仕のお姉さん。場の空気に戸惑う私を、気遣ってくれたのだ。
私に裁縫道具を貸してくれた女性。快活とした笑顔のあの人の名前すら、私は知らない。
エディは実は、若いころから凄腕の傭兵らしいけど、どう見ても面倒くさがりなオジサンで、なのに私がこうして隔離されてからもふらっと尋ねて来てくれた。
髪飾りを売ってくれた明るい商人さん。雪だるまを二段重ねにするか三段重ねにするか、通りすがりに熱く語ってくれた男の子とそのお母さん。
ベアトリーチェは綺麗で強かで賢くて、なのに少し不器用で、最近やっと弟と打ち解け始めた。彼女への手紙は届いているだろうか。
私を大事に想ってくれたティー。彼女は私に救われたと言ったが、私こそどれほど彼女に救われたことだろう。感謝したいのは私の方だ。
倒れた私を嫌がる人もいたが、熱心に助けようとしてくれる人だっていた。ムキムキのお医者さんはいつも冷静に真剣に診てくれる。夜、心細くなった私の手を握ってくれた看護師さんは、いつも優しく微笑んでくれる。
他にも、たくさんの人がいた。私はその時は、その人達自身を見れていたつもりだったけど、本当のところはどうなんだろう。
「……いろんな人のおかげで私は刺繍も完成させられたし、病気になった今も静かに寝ていられる。嫌なこともたくさんあったけど、イコール嫌な世界ってわけじゃなかったのかも。だってこうやって、アルマくんとも仲良くなれた」
アルマくんは顔を歪めた。
でもそうじゃない。違うってアルマくんは言う。
本当は私は軟禁されてる可哀想な身で、いつ殺されてもおかしくないような存在で。お偉いさんたちからはやたら嫌味は言われていたけど、それ以上に何度か殺そうって案が出されたらしい。ウーン知りたくなかった。
そういえばご飯を抜かれたこともあった。アルマくんがビスケットを分けてくれていたから、意識しなかったけど。あと、暗殺者に狙われたのだって、誰かの身代わりにされたからなんだって。
だけどアルマくん。
アルマくんのお陰で、私、傷付けられたことなんて一度もなかったよ。
「あなたとの七十五日で、わたしは、一度も――ゲホッぐっ、う……」
咳き込む私の背中を、アルマくんが撫でてくれる。呼吸の落ち着いたあと、私は続ける。
「……いるよ、アルマくん。この世界のどこにでも、きっと、あなたを分かってくれる人が、絶対――」
アルマくんは変な顔をする。「人と人とが理解し合えるものか」と吐き捨てる。
「だって今の俺とお前だって、それこそ分かり合えていないじゃないか」
そもそも相互理解という言葉はもちろんだが、相互不理解という言葉だっておかしいのだ。人間なんて分からないのが当然の状態なのに、「相互不理解」なんて言葉、つまり人は分かり合えるという理想・幻想があるからそのような事を言うのではないか。人間という生物に夢を見ているようなものだ。
「分かり合う必要なんてないだろう。そんなものなくたって人は生きていけるのに。どれだけでも。ただ理想のためだけに生を望まれて、誰かと刃を向けて殺し合って、それで相手を分かろうとする? そこまで出来るものか。俺はそこまで器用でもなければ不躾でもない」
アルマくんは苦々しく吐き捨てた。
「……分かって堪るか。分かられて堪るか! あいつらなんかに、あいつらなんかに! 俺は俺だ、代替でもいい、だが代替ではない部分は他の誰でもない、俺だ!! ……だから、神に祈った。神の前では、神に祈る者は皆等しく同じ命だ。神の前では救われるも救われないも平等だ、俺は人殺しだから救われないのであって、そこに俺が何かなんて関係がない。だから俺は本当に救われた心地だったのに、祈りの行きつく先が――」
アルマくんはそこで私の顔を見て、はっとしたように口を噤んだ。
「…………すまない。お前の体調も考えず、一人で喋りすぎた」
「聞きたい」
「……イブを助けてほしいと、本当に祈っているのに、それに行きつく先がないのは、辛かった。俺は、俺の信仰なんてものは、そんなものだったんだ。祈りというのは、そもそもそういうものじゃないのに、……分かるか?」
難しい、と内心思っている私に気づいたらしく、アルマくんは首を傾げた。私は曖昧に笑った。
「よく、分かんないや」
「だろう? お前には分からない。だから俺は、人と人とが理解し合えるなんて思わない。思えない。永遠に」
「……それでもいいよ、アルマくん」
確かにどれほど聞いてもアルマくんの言っていることは分からなかった。どうしたって私の心には届かなかった。私は、人と人とは分かり合えると思うし、通じ合える生き物だと思う。そうして、いつか孤独でなくなるということを願いたかった。
しかし、私がこう思うことこそ、アルマくんの語ったことなのだろうと思う。
私は、それでも――。
「『彼らは』、」
「イブ?」
アルマくんの手を握った。たぶん、温かいだろう大きな手のひらを。
「――『彼らは目の潰れるような暗闇にいた。音は無く、光は無い』」
ベッドで暇する私のために、アルマくんが置いていってくれた聖書を、私は何度も読み返した。
ただ聖書の文章はとても難しく、自力で全て読み切る、なんてできるはずもなかったため、会った人達に色々と尋ねることとなった。彼らにはそれぞれ心に留めた一節があって、私はその勧められたところを読むことにした。
――これなら文章の意味も解説も聞けるし便利だな、なんて、初めはそのくらいの感覚だった。
読み込むと、聖書の力強い言葉は、心身ともに弱った私にとって、深い慰め――この言葉は意外にもエディから聞いた聖書の一節にあった――になった。
それは、まさかこの世界に来る前は、考えられないような体験だった。
「『誰が彼らに救いを与えようか。彼らは他人の存在を知るものか』」
――彼の開くそのページは何度読まれたのか、擦りきれるように色あせていた。それこそあっという間に開かれるほど、くっきりとした読書の跡が染みついている。
だから、私も何度となくそのページを開いた。偽の預言者、エドゥンのヌフエドの言葉を、アルマくんの触れた言葉を求めて。
「『彼らは他人に触れる。その手を握り、他人の温度を知ることができる』」
私の手を握る指先に力がこもり、アルマくんの表情が歪む。綺麗な青の瞳に、涙があふれる。
「『永遠の暗闇でさえも、人々の温かさを遮るものではないのである』――」
永遠はないのかもしれない。いつまでも互いに理解し合っていける、なんてことは無いのかもしれない。
しかし、きっと、たった一瞬、心が通じ合う時はきっとある。そうだと確信できる瞬間が。
それは偽物なのかもしれない。一時の気の迷いなのかもしれない。しかし、これこそが真実だと、その一端に触れたと信じられるような一瞬が、きっと訪れるに違いない。いつかの私とアルマくんのように。あるいはアルマくんとベアトリーチェのように。
そうすれば、わたしとあなたのこれまでの七十五日は、どれほど救われることだろう。
アルマくんはぼろぼろ泣いていた。涙に歪んだ顔もあいかわらずイケメンだったが、なんだかとても幼く見えた。私の肩に顔をうずめて、ぎゅうぎゅう抱きついて泣く。寂しい子どもみたいに。彼の身体はきっと温かい。
「イブ。イブ。俺を置いていかないでくれ。俺も連れていってくれ。誰に祈ったらいいか分からないんだ。分からない。俺には誰もいない。何もない。自分すらもなかったというのに、何をお前にしてやれると言うんだ」
「ずっと一緒にいて、アルマくん。最近来てくれなかったの、ちょっとさびしかったから」
「うん、うん。ごめん。少しすることがあったんだ。傍にいるくらい、俺でいいなら永遠にしてやる。でも、それだとお前は死んでしまうだろう。俺はそんなの嫌だ。いやなんだ、それだけは……頼むから、ずっと俺といてくれ。俺を呼んでくれ……」
「(……それは、叶えてあげられない)」
私は石みたいに重たい手をあげて、彼の涙が溢れる頬を撫でる。アルマくんが私の涙を拭ってくれたときみたいに、せめてハンカチくらいあったらよかったのに。
「お前だけなんだ、俺を見つけてくれたのは。お前がいなければ俺は何にもなれない。アルマにも。アルマ・アルマットにも。おれは――」
彼の肩に頬をすり寄せたのは、なにより私がそうしたかったからだけど、気を失って頭から倒れてしまいそうだったからでもある。アルマくん、と呼びかけると彼は口を閉じる。
「わたし、もうなにもあげられないの。ごめんね」
温かな手のひら。かたいビスケット。可愛い髪飾り。看病のリンゴ。
「あんなにたくさんもらったのにね」
疲れたせいか、目が霞む。
一生懸命喋って、私の思ったこと全部を伝えて。それで、出来る限りずっと傍にいるくらいしか、もう私に出来ることはないみたい。
「――一緒に来てくれるか」
え、と聞き返す私を強く抱きしめながら、アルマくんは続ける。
「準備はしてきた。うまくいくかなんて全然分からない。自信もない。なんにもならないかもしれない。お前を苦しめるだけになるかもしれない。……でも、だから、俺を信じて来てくれるか」
なんの話か、それこそ『分からない』と思ったけど、私は頷く。
「うん」




