海珠使いイータ
海珠使いイータは、まるで死人とは思えぬほど堂々と椅子の上に腰かけていた。短袴から伸びたすらりとした足を組み、目を奪われるほど長い睫毛を伏せ、玉座で一時気を落ち着かせている王のようであった。
彼はふと目を開くと、アルマ・アルマットをその藍色の、海より遥かに深い青をした瞳で捉えた。
「遅かったな」
年端のいかぬ少年にも、老獪な老婆にも見える笑みだった。中途半端な感覚だがそれもそのはず、彼には性別がない。そもそも人間とも言い切れない。
イータはとある部族の、王の子だった。彼には、いや、彼らには謎が多い。海で生まれ、海で暮らし、海で死ぬ。ときたま、潮風の音を切り裂くような、口笛が聞こえると、彼らが海に潜る合図だ。陸の者の多くは彼らを『海の者』や『人魚』、『水の精霊』と呼ぶが、彼らは自らを『人』という意味の単語で呼称し、陸の者のことを『それ以外』――対外的には礼儀をもって、『陸の者』と呼びかける――と呼ぶ。彼らは誇り高く独自の世界を維持し、外の、いわゆる『それ以外』のものにはそれほど興味が無い。
いくつかの部族があり、それらをまとめた頂点に立つのがイータの親である。普段海の者は陸の者と交流をとらないのだが、この海の王族と、帝国の貴族の間には何やら縁があるようで、互いに交流をしているようだ。詳細を知る者はいないし、知ろうとした者がいくらか歴史の闇に消えている、というのは、噂にしては生々しい。
そんなイータと勇者アルマが出会ったのは単純で、ある日、海辺をぷらぷらと歩いていた勇者アルマが、イータが吹いた口笛に興味を持ったのがきっかけだった。まだ勇者アルマは幼いくらいに若く、イータは彼と同い年くらいの外見で、それよりも遥かに老熟していた。
「どうも」
若い勇者アルマはぽかんとした声で、そんな風に挨拶したらしい。イータは、田舎者らしくあまり教養の無さそうな人間だと思ったし、実際そのとおり口にした。
それでもイータは、勇者アルマの青い髪と目の色を気に入って、そこから二人の交流は始まった。といっても、たまに会っては、何ともつかないことをだらだらと喋っていただけらしい。勇者アルマの日録には、友達としての会話はあまり人間とは変わらない、と書かれていた。
「私を前につまらない考え事か。まあいい、時間も無いからな。しかし、よくもまあこの私をこれだけ待たせてくれたよ。昔からそういうところだけは変わらないな」
ゆったりと足を組み直すと、何気ない動作でイータはどこからともなく出現した瑠璃色の玉を、アルマ・アルマットへと放り投げた。わざわざ受け取ろうとする必要もなく腕に収まったそれを、アルマ・アルマットはじっと覗きこんだ。ガラスで出来ているようなのに、何も映り込まないという不思議な素材だった。驚くほどに透明で、中では海のような青色が、波の影のようにゆらゆらと柔らかく揺れている。
「持ってけ、アルマ。我が一族の宝、『還しの宝珠』だ。ああ、もちろん一族に返す必要はない。それは私に還る、唯一私だけの物だからだ」
イータの言葉の意味は、アルマ・アルマットには分からなかった。彼の一族は謎が多い。今まで述べられた海の者の特性は全て、勇者アルマがイータとの雑談から聞き出したことだ。それほどまでに彼らは謎に包まれていた。人間と同じ生命体なのか、死という概念があるのかすら分かっていなかった。
もちろんこうしてアルマ・アルマットの前に留まっている以上、彼は死んでいる、ということになるのだが。
「どうした。反応が薄いな。前に私が見せたときには、あんなに嬉々として覗きこんでいたくせに」
アルマ・アルマットは答えない。いや、答えることができなかった。
彼にはイータのそれに応える資格が無い。アルマの日録は全て暗記するほど読みこんだが、まさか彼の全てを書きこんであるわけではなかったからだ。だから、イータの苛立ちにアルマ・アルマットは答えられない。
「分からないのか、忘れたのか。なぜ私がここに、命なんてものに執着したのか。この私が、死後もこの世にしがみつくなんて無様なことをした理由が。お前には分からないのか、アルマ」
焦れたようにその身を起こしたイータだったが、アルマ・アルマットは彼がそれを腕の力だけで行っていることに気付いた。
立てないからこそ、ああして座り込んでいるのか。
彼の足にうずまく禍々しい黒い影が、蛇のようにその身を立ち上らせる。イータはそれに気付いていないように振る舞う。
「我が友よ。お前が見せてくれた世界に、あの馬鹿な仲間達に報いるためではないか」
イータの訴えるような言葉のあと、神殿には沈黙が落ちた。
彼はすとんと椅子に腰を落とした。その視線が天井を仰ぐ。
「……お前は帰りたいところに帰ることができたのか、アルマ。なぜこんなところまで来てしまったのか。誰にでも帰る場所はあるだろう。私は海だった。しかしお前は、そこに帰れたのか――」
茫洋と呟く。聞き取り辛いが、この静寂のお陰でなんとか言葉は理解できた。
イータが誰に語りかけているのか、アルマ・アルマットには分からない。ただそれは自分にではない気がした。
――死んだ大切な人間は人の心に残る、と聞いたことがあるから、恐らくそうなのかもしれない、と思った。
アルマ・アルマットにはそういう存在はいないので、そういった感覚は理解できないのだけれど。
ふと、イータはしばらくしてようやく、気だるげに顔を上げると、アルマ・アルマットのことを目にとめた。
彼は驚いたようにわずかに目を見開くと、ふと、柔らかく微笑んだ。
「――親なる海はいつだって私達を見守ってくれている。いずれ私達の還る場所。それを忘れぬよう生きることだ」
やがてイータの体が、泡のように薄れて空に昇っていく。
「その海珠がお前の帰路に幸を授けんことを祈ろう。かつての我が友に代わって――」




