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わたしとあなたの七十五日  作者: ばち公
第四章 アルマ・アルマット
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五十八日目 勇者アルマの日録

 私が目を覚ますと、部屋には夕焼けが射しこんでいた。この世界の夕焼けは、私が知っているものよりずっと赤い気がする、とアルマくんに零したのを思い出した。いつのことだっただろう。ずいぶんと前のような気がした。

――赤いのは世界が違うからなのか、この国が北にあるからなのか、それとも単なる気のせいなのか。

 私はぼんやり、そんなことを考える。体を病んでから、覚醒までずいぶんと時間がかかるようになった。目は覚めているが、それに体が追いついてくれない。体が追いつかないと、意識までまどろみに引きずられていく。

 やがて私がほっと一息つくみたいに覚醒すると、看病をしてくれていたアルマくんが、優しく挨拶をしてくれる。


「おはよう、イブ」

「おはよ、アルマくん」


 こういう時に、ありがとう、とかごめん、とか言うと、アルマくんは「俺がいたいからいるだけだ」なんて言って困った顔をする。それを知ってから、私は彼の看病に対して、そういったことを口にするのを控えるようにした。ただリンゴを剥いてくれたとか、野に咲く花を摘んでくれたとか、些細なことへの「ありがとう」はもちろん忘れないようにしている。

 眠る私の傍でずっと待機していただろうアルマくんは、片手に本を持っていた。一目で読みこんでいると分かるくらい色あせていて、彼の手にしっくりなじんでいる。はじめは聖書かな、と思ったのだが、よく見るとそれよりもずっと薄く、よりシンプルな装丁だった。


「なんの本?」


 ああ、と答えかけてアルマくんは少し考えたように口を閉じた。そして、私にその本の表紙を見せた。タイトルは想像よりも短い単語でできていた。


「読めるか?」


 文字の勉強、とアルマくんは笑う。

 寝込んでばかりで退屈をする私に、彼は隙あらば気晴らしをさせてくれようとする。あまり喋っていると疲れてしまう私を飽きさせないために、彼の方から色んな話を丁寧に語ってくれるようになった。私は相槌を打ったり、たまに質問したりして、その長く楽しい話に耳を澄ますだけでいい。

 こうした彼の優しさが、身に染みるように嬉しい。


「『勇者アルマの』、は分かるけど……ごめん、次の単語が分かんない」

「日録だよ」


 勇者アルマの日録。そんなものがあったのか、と驚く私に、アルマくんは丁寧に説明をする。

 これは写本だが、販売されているものではなく、アルマくんのためだけに用意された一冊らしい。勇者アルマが残した、唯一の、彼自身の肉筆による言葉だ。

 アルマくんはその背表紙を人差し指でなぞった。


「一文字違わず暗唱させられたよ。俺が肉体とともにこの世に生を受けたのは、……いくつだったかな。八つのベアトリーチェよりも、幼かったことだけは覚えているが」

「五歳じゃなかった?」

「そうだったかな。――その時からずっと、俺の傍らにあった本だ」

「ずっと?」


 頷くと、アルマくんは私にその日録を手渡した。かさついた紙の感触。適当に開いてみると、アルマくんは、その開いたページの最初とその次の単語を読むように言った。私でもすらりと読める程度のものだったので、読み上げる。誰かの台詞のようだった。


「えーっと。『お前を、俺は』」

「続きはこうだ。――『お前を、俺はまだ認めていない。だから帰ってこい。それまで、最後まで、俺は戦い抜く。帰ってきたら、お前は勇者だ』と。彼にしては珍しく、それ以上の無駄口はなかった。二人で黙って酒を飲んだ」


 すらすらと暗唱され、私は驚いた。そして慌ててそれを確認しようとして、非常に困った。圧倒的に私の語学力が足りない。

 結局、アルマくんの力を借りながら、私は答え合わせをした。それから何度試しても、アルマくんは一言一句違わず暗唱してみせた。


「ちなみに、『お前を、俺は』の前は、『騎士は言った。』だ」


 騎士、という単語は見慣れず難しかったが、結局、その一文も合っていることが分かって私は愕然とした。

 すごい、と驚嘆するよりも先に、疑問のほうが(まさ)った。どうしてこんなことができるのか?

――あまり、良くない予感がした。

 尋ねると、アルマくんは普通に答えてくれた。


「それを学ぶ必要があったんだ。俺を勇者アルマにするための教師に言われて」

「なにその教師」


 私は困惑した。アルマくんは苦笑する。


「説明が難しいな。――俺は、勇者アルマの代替だった。俺が目を覚ましたとき、俺は俺として生まれてきたつもりだったけれど、人々は俺をそう見てはいなかった」


 アルマくんは目を伏せる。私は胸が痛くなる。当たり前だ。私はアルマくんが、アルマ・アルマットがどのようにして誕生したのかは分からない。今までの話から予想するに、クローンのような技術を利用したのかもしれない。だとしたら遺伝子という設計図が同じなだけで、勇者アルマという人格や記憶とともに生まれたわけではない。

 だけどこの世界の人達に、そこまでの知識があったのかは分からない。なかったとしたら、彼への期待は、どれほどのものだっただろう。


「だから俺が完全な勇者アルマでないことに、彼らは寛容にはなれなかった」


 そのため誕生してすぐ、アルマくんは勇者アルマとしての教育を受けることになった。ちなみに、勉学の機会を見計らっていたベアトリーチェも、彼と同様、教育の機会を得た。功労者サンドールの娘として、あるいは勇者アルマの代替のさらにおまけとして、彼女はその地位を得たのだった。

 もちろん二人の教育内容は異なっていた。ベアトリーチェはもっぱら一般教養と、彼女が希望したいくつかの専門科目。

 アルマくんが学ぶべきことは、『勇者アルマ』と、それに成るに必要な事実だけであった。


「とある女教師が日録を俺に手渡し、こう言った。――『あなたは勇者アルマの代替として、己の役割を遂行するために、彼の全てを記憶せねばならない。彼の綴ったこの日録を、一文字違わず覚えなさい』と。だから俺は言ったんだ。『幼い勇者アルマが、このような文を暗唱していたと思うのか?』、と。そうしたらなんて言ったと思う?」


 私がその教師だったら、きっとぐうの音も出なかっただろう。しかしアルマくんが他人に、そんな意地悪な回答の質問をするはずもない。

 私はしばらく腕を組んで考えたが、結局思いつかなかった。


「彼女は言った。『幼い勇者アルマは、そのようなことを問う子ではなかった』」


 アルマくんは肩を竦めた。「だからお前は勉強が足りない、とでも言いたかったんだろう」と、まるで少し呆れたことを語るだけみたいに、軽い口調で話す。それは、今のアルマくんだから出来ることだ。

 幼いアルマくんは、どんな思いで、その言葉を聞いたのだろう。ベアトリーチェよりも幼い身体で誕生した、というが、精神はまだ外の世界に触れて間もなかったに違いない。そんな小さな子が、どんな気持ちで、そのような周囲の視線を受け容れたのだろう。

 それはあまりにも悲しい光景に思えたが、目の前のアルマくんはもう成長し過ぎていて、どうしても私は幼い彼の姿を、今の彼に投影することができない。


「――と、まあ、そういう話が続くわけだが。気分が良くなるものでもないだろうけど……聞きたいか?」


 聞きたい、と思う自分がいた。

 彼の思い、その全てを知りたいと思った。浅ましいくらいに。

 しばらく間を置いてから、私は首を振った。アルマくんがそれで傷つくなら、止めておくべきなのだ。


「小さい頃の話は聞きたいけど、別のことがいいな。ほら、えーっと。あ、ベアトリーチェのこととか」


 アルマくんは考えるように顎に手をあてがう。


「……ベアトリーチェは、俺よりもよほど勉強が出来た。俺より年上なのだから、当然といったら当然なのかもしれないし、俺への対抗心もあったのかもしれないが……それ以前に、頭の出来からして違った。あらゆる分野に適正があった、との噂を耳にしたことがある。さすが彼のサンドールが実子とでも言うべきか」


 続く彼の呟きはあまりにも小さい。


「それでも評価されるのは俺だった」


 その度にどれほど二人は苦しんだことだろう。きっと寝る間も惜しんで努力し、悲しみを堪え唇を噛みしめただろうベアトリーチェと、そんな彼女の背中を独り見つめたアルマくん。

 私がそこにいたら、いくらだって手を伸ばしたのに。

――違う。今、伸ばせばいい。

 私は震える指先をアルマくんに伸ばそうとする。そしてそこで改めて、自分の手の現状に気付く。病的に痩せこけて、少し皺っぽくなって、変に血の気のない、生白い手。

 私は躊躇する。しかしそれでも結局、アルマくんに手を伸ばす。伸ばさずにはいられなかった。


「すまない、イブ。お前の気を悪くするような話をするつもりはなかった。でも俺の小さいころの話といえば、こんなことしかなかったんだ」


 私の手を、壊れ物でも扱うみたいにして、恐る恐る握り返すアルマくん。少し困ったような彼の声には、悲しみ一つ浮かんでいない。そんな彼の言葉が、私にはあまりにも悲しかった。

 これからは私がいるから大丈夫だねって、言ってあげられたらいいのに。

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