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翌日、私は今度こそはっきりと、ティーの誘いを断った。ティーはとても残念そうだったけど、私に無理強いはしなかった。
私が一番辛かったのは、ティーと別れなければならない事だった。もういつもみたいに会えなくなる。それを考えると、胸が引き裂かれるくらい寂しい。堪えきれず涙が零れた。
――最近、というよりティーと出逢ってからのここ数日、涙腺が緩んでしまったみたいだ。やたらと涙を零している気がする。
ティーも泣きそうな顔をしていたが、私の視線に気付くと、いつもみたいにニッと歯を見せて笑った。
「気にするな。なんとなく、分かっていたことだから」
「ティー、」
「気にするなって。しっかしこんなにいい条件で勝ち馬に乗れるっていうのに、イブキは欲が無いというか……あっ、ここに誰か好いている奴でもいるのか?」
何故だろう、心が弱っていたせいだろうか。私は気付けばすんなりと頷いていた。
「うん。いる」
ティーに誘われたあの時。真っ先に浮かんだのは、アルマくんの笑顔だった。
ベアトリーチェを見送ってすぐの、明るい笑顔。「きちんと見送れたよ」と、彼は普通の青年みたいに笑ったのだ。永遠に忘れられないくらいに。
やっぱり私は、彼が好きなのだ。
「す、素直だな……。じゃあそいつも連れて来たらいい。帝国は完敗こそしないかもしれないが、勝つ見込みだけはゼロに近い。そのうち上の話し合いで片が付くんじゃないかな」
「なんとなーく予想はついてたけどさあ……」
部外者の私でさえそんな風に思うのだから、戦況は本当に悪いのだろう。
「気づいてたのか」
「まあ、空気的に。……こうしてると、賑やかそうに見えるけどね」
積荷を台車から下ろす人、笑顔で金勘定をする人。砦のこの場所にいるのは元気な商人ばかりだ。
最近、砦の兵士の皆は時々、暗い目でどこか遠くを見ているのに。
「ほとんど他所の商人だからな。……戦争は物が無くなるから、荷物さえ運べたら、色んな物が高くよく売れるんだ。だから、元気な商人がさらに張り切る。まあ、だから私もこうしてこの場にいれるのだが」
「……このまま戦争で負けたら、砦の皆はどうなるの? 死んじゃうの?」
「ウーン……」
ティーは眉間の辺りを掻いた。しばらく言葉をまとめるように黙っていた。
「責任ある人間以外が、無闇に死ぬことはないだろう。私に言えるのはこのくらいだ」
「……」
私は俯く。ということは、砦で暮らすほとんどの人は大丈夫だ。ベアトリーチェも問題無さそうだ。彼女はまだ本格的に活動しているわけではないらしいから。
――でも、アルマくんは?
彼はどうなるのだろう。アルマ・アルマット――勇者アルマの代替を、この世界の人々はどのように捉えているのだろう。
かつて亡くなった『五人の仲間』。彼らの閉ざす神殿の戸を開き、その魂を解放した恩人。あるいは、ただの勇者のまがい物。
ティーの手が私の頬を滑った。彼女は困ったように微笑んだ。
「――今日はずいぶんよく泣くな」
「私も、そう思う。なんだか涙が止まらないの」
「……体調が悪いのかもしれないな。私にはそう見える」
「まさか」
笑って流そうとする私の目に、ティーの真剣な表情が映った。
「これでも勘はいい方なんだ。それに、体になにかしら異常が起きたときは、まず体調不良を疑った方がいい」
「そんなものかなぁ」
「具合の悪い人間は死ぬんだ。単純だが。――イブキ、忘れないでくれ。君のことを心配してる人間が、この世のどこかに一人はいるのだということを。敵だろうが関係なく君のことを気にかけ、いつでも手を差し伸べるだろう輩が一人、この大地の何処かにいるのだ、ということを」
「ティー?」
祈るような声に私が思わず問いかけると、ティーは夕日色の瞳を細めて、子供みたいに照れくさそうに笑った。
「そういう人間が、私にとってはイブキだったんだよ。群れを離れ、ただ一人放浪する私を気にかけ、手を伸ばしたのが」
「私……そんな、感謝してもらえて、ありがたいけど……本当に、大した意味はなかったんだよ。ただ、手を伸ばしたってだけで……。それに、一人旅で、自由気ままだったって言ってたのに」
「そうだな。私は自由で、それが楽しく、そして帰る場所もなくただ独りだった。……なあ、君に私はどう見える?」
「ぐすっ……普通に、そのままのティーだけど……。あと前から思ってたけど、毛先は整えた方がいいと思う……」
ティーが自分で切ったという後ろ髪は、実は長さがかなりちぐはぐだ。
最後だし言っておこうと思って教えると、思ったとおり、ティーはくすくす笑った。
「……私は本当に、この国にとっては、ただの通りすがりなんだよ。ふとこの国を通りがかった、それだけの――。でもきっとこの国の人々はきっと、私の素性を知ったら、私を間諜だと推測するだろうね。当然だけど」
間諜、スパイ。確かに……という感じだけど。
(向いてない、絶対)
ティーはこの国では普通じゃないタイプの女性で、そうでなくても不思議と目を惹くし。おまけに案外、大雑把なところがある。(そこが魅力だけど)
「別に、それでもよかったんだよ。自由気ままに生きて、野垂れ死ぬならそれでもいいって思った。だから……折角だから、一生来れないだろう国に来てみた。素性がバレても、何も無い身だ、死んだって誰にも迷惑がかからない」
そんな言葉に思わず顔が歪んだが、ティーは笑って「今は違う」と言った。
「イブキのお陰だよ」
と。
「……なあ、イブキ。苦しい時の助けが、どれほど人の力になるものか。求めていないものを求めていたと自覚し、救われたとき、それがどれほどその人間の心を打つものか。だから私は、この国を好きだと――いや、この世界も捨てたもんじゃないと。そんな、子どもみたいなことを思ったよ。……ふふ、何を言ってるんだろうな、私は。イブキは分かるか?」
「――分かるよ」
「、そうか」
私の額に、ティーの額が触れる。熱を持っているように温かだった。
彼女の長い睫毛が囁きに揺れる。
「自分のことを大事にしてくれ。私の友達。誰よりも、自分自身を護ってやってくれ」
次の日からティーは現れなくなった。
彼女を雇っていた業者の人が、「働き者だったのにねぇ」とぼやいているのを聞いた。彼女は確かに余所者だったが、彼女なりに自分の居場所を作っていたのだ。私はなんだか眩しく思った。
寂しかったが、虚しくはなかった。彼女の残した言葉の――彼女は今日もこの世界の何処かにいる、という感覚のお陰だ。
私はこの感覚を知っていた。ちゃんと自分は周り――例えばお父さんやお母さん、おじいちゃんなどの家族や、信頼する友達――に見てもらえていて、心から想ってもらえているという、支えられるような安心感だ。
ティーは私と同じだった。ただ独り、何も無いまま生きる必要があった。
私に手を伸ばしてくれたのはアルマくんで、私はその温かな手を掴んだ。そして私はそれを覚えていたから、ティーに手を差し伸べた。そこに深い意味はなく、ただ自分を見ているようで放っておけなかった、というだけだったけれど……。ティーもまた、私に深く感謝してくれたのだった。
(もっと早く会ってたら――)
ティーについて行っていたと思う。
偉い人から嫌味は言われるわ、殺されかけるわ、平気なフリするのも嫌だったし。こんな砦から連れ出して! と、大喜びで彼女の手を取って逃げていた。確信できる。
今は違う。嫌味も減った、というか私どころじゃない雰囲気だし、私よりこの砦の人達の方が命賭けで戦ってることも分かった。この国に、また会いたい人もできた。平気なフリなんてしなくても、アルマくんがいてくれる。
「イブ、そろそろ戻ろう。此処にいたら邪魔になる」
「うん」
たくさんの荷物と人々で、ワイワイと賑やかな出入り口から、私はアルマくんと一緒に砦に帰った。
――伊吹は少し、勘違いをしている、とアルマ・アルマットは思う。
ティーが伊吹を勧誘していることをアルマ・アルマットは知っていた。さすがにその状況を完全に放置するほど迂闊ではない。(個人的な感情としては、二人をそっとしておいてあげたかったが)
彼女たちが会うのは、人の出入りの多い場所だった。そういう場は人に紛れるのも容易な一方で、人に紛れつつ耳を澄ませるのも容易となる。そういうことが得意な者が忍び込むには、うってつけの場所だ。
アルマ・アルマットも人を使うことができる。公式に部下はいないが、彼を信奉する者が幾人かいる。普段は(正直、己を信奉するという謎の行為に勤しむ彼らがよく分からないため)距離を置いているが、頼めば喜々として働いてくれる。今回もそうだった。
友人同士の会話に聞き耳を立てる無礼のため、必要最低限の報告しか受けていないが、とにかく伊吹は、ティーという蛮族の娘に共感を覚えていた。ティーもまた同じように、伊吹に共感し、友情を感じていた。
しかしアルマ・アルマットから見れば、どちらも勘違いをしている。
二人は、今、この帝国にいるからこそ、『独り』を『二人』に感じられているだけだ。もしも揃ってティーの故郷に帰ってしまえば、異世界人たる伊吹は結局、一人に戻ってしまう。ティーがどれほど手を尽くそうとも、聳え立つ事実の前には、短期の解決は難しい。
アルマ・アルマットは単純にそれが――伊吹が新しい世界で、独りで寂しがるのが嫌だった。
自分がついて行ければいい。そうすれば、自分だけでも彼女の側にいることができる。ひどく慎重ではあるが、まだ年若く柔軟な伊吹だから、徐々に新しい世界に慣れていくことだろう。『東の蛮族』に馴染み、孤独感に苛まれることもなくなるだろう。
こんな自分でも、そこに至るまでの彼女の孤独を慰めるくらいはできる。
しかし、さすがに無理だ。不可能だ。向こうからすれば自分は敵国の化物で、なにより、自分はこの国に剣を向けられない。前線に出てくる兵はエディ含めた顔見知り達だろうし、姉のベアトリーチェの敵になる気はない。
アルマ・アルマットは、伊吹とティーについて口を出さなかった。何を選ぼうが伊吹の自由だ。敗北間近のこの国で、彼女の状況を思えば、出ていかれてもしょうがない。自分やこの国は、選ばれるに値しなかった。残念だが、それだけだ。
なんであれ、自分は受け容れる。そのつもりだった。
でも、彼女は残ってくれた。理由までは報告を受けていないため不明であるが、その事実だけで十分だ。
……たぶん嬉しい、のだと思う。彼女がこの国で生活することを選んでくれて、嬉しい。自分はそのことを喜んでいる。恐らく。
しかしこの安堵にほど近い喜びが、伊吹の負担にならないかと、心配でもある。
『東の蛮族』のもとには行かなかったが、なんにせよ彼女はいずれ元の世界に帰るのだ。その彼女がこの国を離れなかったことに喜ぶ者がいる、という事実は、当人にとって重荷になるのではないか。
「……」
感情の真っ当な発露は、結構難しいらしい。
(こっそり喜ぼう)
結局アルマ・アルマットは自分が一人、歓喜の感情を、少しだけ味わうのを許すことにした。明るい安堵の気持ちをそっと噛み締めた。
(よかった)
「……アルマくん、なんか機嫌いいね」
「気のせいじゃないか」
「うーん……いややっぱすごく機嫌いいって。あ、リンゴ食べた!?」
「昼に食べた」
「それでか……」
「(なぜこれで納得されているのだろう……?)」




