四十四日目 ティー
私が彼女に出会ったのは全くの偶然だった。本当に奇跡が積み重なって生まれた、ほんの一瞬に私達は出会った。
彼女の名はティー。
『東の蛮族』の娘だった。
私たちが会うのは決まって、砦の西端の入口。そこは主に荷物の搬入口で、搬入が始まるより早く、ほんの一時だけ沢山の箱や商人が並んでごった返す時間がある。その時に、どこからともなく彼女はひょっこり現れる。今だけ荷卸しのバイトをしているらしい。
それから私たちはその辺の木箱に腰かけて、他愛も無いことをあれこれ喋る。
「――だからイブキ、私と来たらいい。こんな閉鎖的で古臭い場所は、この地に生まれた人なら馴染めるだろうけど、イブキの居場所ではないよ」
「ティー、前も言ったけど私は……」
「またか。分からないな。生物が住みやすい場所に移って何が悪い?」
鮮やかな橙色をした大きな瞳が、訝しげに歪む。どっかりと椅子に座り込む大胆な仕草が、男の子みたいに襟足を刈り上げた、ベリーショートの髪によく似合っていた。
ティーは私を気に入ってくれているし、私も彼女をとても尊敬しているが、私達は全然違う。
「あのさ、なんでティーは私なんかをそんなに誘ってくれるの? 言っとくけど私、なんにも出来ないからね?」
「私はイブキが気に入ったんだ。平等で、先進的な価値観で、とにかく一緒にいたら楽しいだろうと思った」
ティーのまっすぐな言葉に、私は嬉しいのか恥ずかしいのか、とにかく顔が熱くなった。どこか浮かれたような心地で、そわそわとして落ち着かない。
「ありがとう。やっぱりあの時、ティーを見捨てなくてよかったかも。正直悩んだんだよねー」
「嘘をつけ。あの時、あんなにすぐ私へと手を差し伸ばしたくせに」
そうして楽しげに微笑む彼女に、私は苦笑しか返せない。
彼女が言う『あの時』。私がふと足を止めたのは、荒っぽい男性数人に、難癖つけられている旅人がいたからだった。
深く被ったボロのフードに、マントで覆った身軽な旅装。背はすらりと高いが、そのよく通る声は女性のものだった。
何故かは分からないが、私は一瞬で彼女に目を奪われた。
劣勢にあってもなお堂々とした話し振りのせいかもしれないし、その立姿がとても綺麗だったからかもしれない。それこそ絡んだ側がたじろぐくらいに、彼女には強い存在感があった。
やがて、
「余所者がうろついてんじゃねぇよ!」
男達は女性をつきとばし、逃げるように去っていった。周りの野次馬も、飽きたようにどこかへと散っていった。
私がカノック砦で暮らし始めてから、すでに二ヶ月弱が経過していた。
帝国をめぐる情勢はさらに不安定になった。『東の蛮族』との争いは激化し、物価が急激に上がった。人々からは余裕が失われ、皆どこか緊張した面持ちで通りを歩いている。
だから本当なら、余所者の私は、早くアルマくんと合流するべきなのだ。ここ数日、刺繍に熱中していた(……というより、どうしたらいいか分からないアルマくんへの想いをぶつけていた)私の気晴らしのため、外に連れ出してくれたアルマくん。そんな優しい彼と、うっかり逸れてしまったほんの一瞬に、偶然、その旅人が絡まれていたというだけのこと。
なのに、彼女から目が離せなかった。尻餅をついた、余所者の彼女から。
放っておこう、という考えが一瞬よぎったのは嘘ではない。
しかしあの時、当たり前のように私へと差し伸べられた手のひら――その光景が、脳裏をよぎった。アルマくんのあたたかな手。文字通り私を救い上げてくれた、彼との出逢い。
多くの人が暮らす街で、ただ独り座り込む彼女から目が離せなかった。
気付けば私は、彼女に手を差し伸べていた。
フードの下から覗く、燃える夕焼けのような鮮烈な瞳が、あまりにも印象的だった。
ティーはさっぱりとしていて話しやすい人だった。私達は不思議と、あっという間に打ち解けた。
「私はイブキたちの言う、『東の蛮族』の一人だ。とある部族の一員だった」
会って数分。思いがけない突然の告白に、私は息を飲んだが、その過去形の部分に首を傾げた。
「ああ。信じられないかもしれないが、私は一族を出たんだ。馬に乗らなければ生きていけないと思っていたが、案外歩くだけでもなんとかなるもんだな」
「エーット。それ、私が聞いても大丈夫な話?」
「バレたら連行されるだろうけど、その前に逃げるさ」
ティーは笑いながら、皮製のブーツを見せびらかした。
彼女の旅装はシンプルだ。動きやすそうなズボンに、皮製のブーツ。この地域の女性はだいたいがスカートを履いて、髪を編んでいるため、ティーの姿はなかなか新鮮だった。
「ティーの服装って、なんだかすごく旅の人! って感じ」
「まあその通りだからな」
ティーは男装の麗人みたいだな、と私は内心思っていた。女性に好かれそうな女性だ。
凛々しい顔立ちに、力強い夕焼け色の瞳。男性的な衣装の下、布地で押さえつけられてもなお分かるほど豊満な胸。しかし、すらりと長い手足と引き締まった筋肉のお陰で、見た目にはとてもスマートだ。
「イブキの服装は変わっているな。とてもはっきりとした印象を受ける」
対して、私はどうだ。
皆何かしらの役割を持つ砦のなか、何か出来るわけでもない穀潰しで、この世界で起きる事柄一つにちっとも対応できていない。人々からは違和感を抱かれる、厄介事を持ちこむだろう人間。
「イブキ?」
「……やっぱり変だよね、これ。分かってるんだけどさ。こんな服の人誰もいないし、変な私が着たら浮いちゃうにきまってるのに、つい着ちゃうんだよね」
「なあイブキ」
ふと顔を上げると、ティーの瞳がまっすぐに私を見つめていた。しかしその眉は、どこか困惑したように下がっている。
「私はイブキが心配だ。なんでそんなに弱々しい物言いをする? なにをそんなに遠慮しているんだ。心が疲れているんじゃないか?」
「そんなこと、」
「食事はちゃんと摂っているか? 寝ているか? 適度な運動もたまには必要だ。本当に大丈夫か?」
私は心配性だね、と軽く笑い飛ばそうとした。できなかった。
なぜか目が熱くなって涙がにじんだ。咽喉が震えて声が出せなかった。泣いていると自覚したのは、涙が零れてから少し経ってからだった。
こんな、これだけのことで。
混乱し、嗚咽を堪えながら涙を拭う私に、ティーは優しく声をかけた。
「なあイブキ、私と東に行かないか?」
「――え?」
尋ね返すまでずいぶんの間があった。思わず顔を上げた先、ティーの顔はあくまでも真剣だった。
「……でも、ティーは、」
「ああ、出たよ。どうにも族長と意見が合わなくてな。だからそこから出て、気の合う奴らと別の群れを作ろうとしたんだが、当然厄介がられて命を狙われて。じゃあ平原にいる必要もないかと、とっとと飛び出てきたんだ」
わりと勢い任せの行動だったが、なかなかに上手くいった、とティーは笑う。
それからは気の合うかつての仲間とも離れ、自由気ままな一人旅を楽しんでいたらしい。
「それが、最近偶然に、そのかつての仲間の一人と再会してな。――どうやら私のいた族は、その後すぐ、別の部族に喧嘩を売って負けたらしい」
さらりと告げられたが、それは、かなり深刻な話なのでは……?
しかしティーはなんてこと無さげに続ける。
「再会したソイツは、勝った部族に混ざって色々と動き回っていた。で、平原に戻って来ないかと勧誘されてな。迷ったが、故郷の馬にも乗りたくなったし帰ることにしたんだ。……そんな顔するな。戦には加わらない」
「そうなの?」
「ああ。私は、この国の人にとっては外敵なんだろうけど。……私はこの国を少し、好きになってしまった」
面映げな彼女に、私は思わず微笑む。
「じゃあ、また『東』に戻るんだね」
「そうだな。この国風に言うとそうなる。でも知っているか? この国の帝都は、かつてはもっと北方にあったんだ。それが、今では南に移っている」
はっとした私に、ティーはにやっと笑った。
「『東の蛮族』を恐れてだよ。はは、北東の蛮族とでも呼び直せばいいのにな?」
ティーに砦まで連れて行ってもらってすぐ、私はアルマくんに発見された。
あまり無闇に動くな、と叱られたが、きちんと戻って来れたのは偉いと褒められた。ティーのことは話さなかった。彼女は私に口止めもしなかったが、話さない方がいいのだろうということくらい、私にでも分かった。
代わりにアルマくんに、『東の蛮族』について聞いてみた。彼は少し不思議そうな顔をしながらも、すらすら答えてくれた。
「遊牧騎馬民族だ。現在はある盟主のもと、いくつもの部族が連なり平原を支配している。……まあ、完全に統一された、というわけではないようだが、それも時間の問題だろう。俺の知る限り、勢いはすでに盟主にある」
「へえ、すごいんだ」
「ああ。……まあ、統一や支配といっても、彼らの価値観のもとで成されるものだから、俺たちが想像しているそれとは少し異なるのかもしれない。しかし、偉業であることは確かだ」
アルマくんの流れるような説明に、私はふんふんと感心した。
『東の蛮族』。これまで何度も耳にしてきたこの単語。その詳しい事情一つ、今まで知ろうとすらしなかった自分が、なんだか恥ずかしいような、情けないような……。
「なぜ急にそんなことを?」
「今さらだけど、気になっちゃって。詳しいね、アルマくん。先生みたい」
彼の話し方は、私に刺繍を教えてくれたときのベアトリーチェととても似ていた。
そのことを伝えると、アルマくんは渋い顔をして口を噤んだ。照れてるんだなと察してにやにやすると、軽く額に手刀を当てられた。
その照れ隠しのせいで余計に笑ってしまい、本気で睨まれた私は、慌ててアルマくんに謝るのだった。




