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「――私は彼を慕いませんでしたから、彼もまた私を慕いませんでした。――しかし、私が彼に親切に接した分、彼は私に親切に接しました。そうすれば人間ですから、私にも情が湧きます。恐らく、彼にも。だけど、それでも、割り切れぬものがありました」
長く、悲しい話のあと、ベアトリーチェさんは長い溜息を吐いた。
「彼のお陰で、私達の生活は楽になりました。私は彼のおまけとして、真っ当な教育を受けることが出来るようになりました。……感謝しています。本当に。嘘ではありません。……ただ、父サンドールが亡くなったあと、私たちは自然と離れることとなりました。……ご存知のように、私は自ら望んで、帝都で高等教育を受けておりました。そして勇者アルマの代替、計り知れぬ力を持つアルマ・アルマットは、このカノック砦に配置されています。ここにいる貴族の命などを護るためです。――だけどそのような理由がなくとも、私達は離れていたでしょう」
互いに互いの存在が、ただただ辛かった、とベアトリーチェさんは語る。
「相手が悪いわけではない。そう理解しながらも、幼い自分が泣いている。癒されることも知らないまま、ただ心の中で泣いている。今やもうその姿も思い出せないというのに」
弟のアルマ・アルマットと距離を置き、帝都で学問を修めるようになり、そこで他人との友愛を紡ぐ生活を通して、ベアトリーチェさんは今でこそやっと、弟である彼に笑いかけられるようになった。エマの花を見て、顔を歪めることもなくなった。
(しかし、この雪国でただ独り生きるアルマ・アルマットは――)
ふと黙ってしまったベアトリーチェさんだったが、しばらくするとその顔を上げ、私を見つめた。それはとても優しげな、穏やかな瞳で、私は女性同士だというのに、なんだかとてもどきまぎしてしまった。
後になって気付いたが、この時の彼女の目は、アルマくんが時たま見せるものと非常によく似ていた。
「帝国の人間は、アルマ・アルマットをこの国に繋ぎ止めておきたいと望んでいます。『勇者アルマ』の代替であり、『五人の仲間』にさえ認められた、奇跡の存在を。ですから、今の私とアルマ・アルマットの関係は、婚約者という言葉になりました。それだけと、なりました。……私はそれでも良かった。それを人々から望まれるなら、それが理想的であるならば、父が残したアルマ・アルマットとともに、それに最後まで殉じようと思いました。それでいいと、諦めるように思い込んで」
ベアトリーチェさんは目を伏せた。瞼の縁で柔らかな睫毛が揺れる。
私はその姿に、一人誰もいない部屋で父親を待ち、やがてそれも諦めてしまった、幼い彼女を想像する。
諦めながらも父親を想わずにはいられなかった、小さな女の子の姿を。
「だけど、彼は今日、先ほど、その呪縛から離れていった。自らの力で。あなたのお陰で。……羨ましい、眩い、妬ましい、そう思ってしまう私こそが間違いなんでしょうね」
眩しそうに、寂しそうに、彼女は目を細める。
「――今でも、私とアルマ・アルマットは、墓参りのときだけは、二人並んでかつての生家へと帰るのです。本物の姉弟みたいに、父と母が眠る墓標へ。私たちは、歪ながらも、確かに家族だったのです……」
「ベアトリーチェさん」
「どうぞベアトリーチェと呼んで。……幼い私は、最早どこにもいませんが。貴女と、そしてアルマ・アルマット――貴女方の記憶の中にだけでも、どうか閉じこめておいて」
ベアトリーチェさん――ベアトリーチェは、そう言って私の手を握った。手袋越しでも分かるほどのほっそりとした指先。ただ美しさの象徴として見えていたそれも、今の話を聞いた後では全く異なって感じられた。
彼女は微笑む。エマの花のように、白い肌の目尻に、赤い色を浮かべて。
「それがきっと、彼女への手向けとなるでしょう」
「ベアトリーチェさん……。……じゃない、ベアトリーチェ」
「え?」
私は自分の思いを込めるみたいに、彼女の細い手を強く握り返した。ベアトリーチェの緑の目が、驚いたように丸くなる。
「アルマくんは、優しくて、あったかくて、いい人なんです。来年もきっと命日になったら貴女とお墓参りに行きます。だって、だって、貴女が本当に離れたい、忘れたい対象だったら。わざわざエマの花言葉なんて、覚えてるはずないじゃないですか。あんな、たぶん自分の好物がリンゴってことも気づいてないような人ですよ? だから婚約を止めたからって、ベアトリーチェや昔のこと全部から離れるとか、そんなこと考えてないと思うんです。だってそうでしょ? エマの花言葉だって、忘れろって言って忘れられるものじゃないでしょう? 記憶とか思い出なんて忘れられないし、そもそもアルマくんは忘れようなんてしてない! アルマくんが本当に嫌なのは、そんなものじゃなくて、……」
そこで、言葉がかけおちた。
――アルマくんが嫌なのは、たぶん、彼自身だ。造られた命。それに伴う周囲からの期待と圧力。そしてその期待通りに行動することだけを望まれ、それから外れられない、アルマくん自身だ。
だからアルマくんが攻撃するのは固有名詞をもった誰かじゃなくて、代替品としての自分を囲んでいる何かで。彼が離れたいと願うのも、たぶん、誰かではなくて、何かからだ。勇者アルマだとか、代替品だとか、アルマ・アルマットを取り囲む、そういった概念じみた、何か。
だからあんなにも、アルマくんと呼ばれて、嬉しそうだったんだ。
代替品でもなんでもない、ただの自分。たったのそれだけのことが、あんなにも、あんなにも、アルマくんには嬉しかったんだ。(可哀想なアルマくん)
「どうしたのです、そんなに苦しそうな顔をして」
「いえ。ただ、アルマくんがなんだか本当に、本当に可哀想で、それで、」
『それで、』――なんだろう。可哀想で、それで、それだけじゃない気持ち。なんだろう。私は彼のことを、どう思っているのだろう……。
ベアトリーチェはしばらくぽかんとしていたが、やがて、ふとその頬を緩めた。
「貴女は、彼を愛しているのですね」
「…………えっ!!?」
ベアトリーチェはふふっと笑った。
愛。愛?
私が、アルマくんを??
友情等の好意、の意味ではないだろう。ベアトリーチェの目がそれを物語っている。美人はにやにやしてても美人だ。
こういうときは、考える……。とりあえず考えて、何を言うべきか、この場をやり過ごすために相応しい言葉も考える――のだけど。思考がぜんぶ、頭の中をつるつるすべってどこかにいってしまう。こんなの初めてだ。ここまで自分の脳味噌が役に立たないなんて。だって今まではなにかしら言葉は使えていたのに。
焦れば焦るほど、冷静な思考が散らばっていく。
(……わ、分からない)
勉強ばかりしてきたから、こういう経験がない。男友達くらいはいるが、ある程度距離はあったし、気軽に喋るばかりでこんなことはなかった。
だからとりあえず否定、しようと思ったけど、今日のこととか、これまでのこととか考えると、否定の言葉がでてきてくれない。
こんなの。こんな――……。
(なんだこれ!!)
どれほどそうしていたのか、はっと我に返って顔をあげると、ベアトリーチェさんは慈しむような目で私を見つめていた。きれいなひとだ、と改めてそんなことを思う。花の咲いたような、穏やかな微笑みが、そっと桃色の唇に浮かぶ。
「――あの子を、よろしくお願いします」
やがて私を迎えに来たアルマくんに、できるだけ早口かつ簡潔に全てを話した。ベアトリーチェが語ったこと(最後のやり取りは除く)と、それから、彼女が今からこの砦を発つことを。
『見送りの必要はないと、彼に伝えて下さい』
そう告げた彼女の横顔に寂しさを見た私の勘は、恐らく間違っていない。
私が全てを話してから、ふと一拍の間を置いて。アルマくんは、「行かないと、」という一言を残し駆け出した。
私も慌てて後を追ったが、彼の背中はあっという間に見えなくなった。
「ベアトリーチェ!」
馬車の戸に手をかけたアルマ・アルマットに、ベアトリーチェは息を飲んだ。
「アルマ・アルマット――」
彼女は彼がこの場所にいるのもそうだが、なにより珍しく声を荒げていることに驚いたのだった。感情を剥き出しにして、これがあの少女の影響だろうか、と。
ベアトリーチェは己でも気付かぬうちに、この場にそぐわぬ微笑を自然と浮かべていた。
「どうしたのです、突然。見送りならいらないと、」
「エマの花畑ですが、」
ベアトリーチェが言葉を失っている間に、アルマ・アルマットは息を整えるため唾を飲み込んだ。
「要らないものを覚えない彼が、唯一覚えていた花の群生地です。彼のしたことはともかく、彼がそれを知っていたのは、貴女を喜ばせたかったからだ。俺の部品を届けにきた業者の語った、取るに足らない雑談を彼が覚えていたのは、それが――」
アルマ・アルマットは覚えている。未成熟な造り物の聴覚が捉えた、彼らの会話を。
「それが娘の好きなもので。彼がそれを覚えていたからだ」
暫しその翠玉の大きな瞳を見開いてから、ベアトリーチェは瞼を落とした。その言葉を、その意味を噛みしめるように深く目を瞑り。
やがてゆっくりと瞼を開くと、迷いの無い視線をアルマ・アルマットに落とした。
美しい青色の青年、そして今を生きる唯一の彼女の家族に。
「……アルマ・アルマット」
「はい」
「幸せに生きてくださいね」
「……ええ。貴女こそ、ベアトリーチェ」
アルマ・アルマットは、真っすぐに彼女を見つめてそう告げた。
ベアトリーチェはそれに優美に微笑むと、おずおずとこちらを窺う御者に「出しなさい」と告げた。
やがて動き出した馬車の音に合わせて、内緒話のように小さな声がアルマ・アルマットに届く。
「彼女と仲良くね」
その言葉は馬車の纏い出した風のなか、確かに彼の耳に届いた。背後から聞こえる、走っているにしてはやけに軽い足音とともに。
ベアトリーチェの美しい微笑みが、馬車に揺られて遠くに運ばれていく。
やがてアルマ・アルマットの隣に並んだその『彼女』が、ぜえぜえと肩で息を切らしながら何よりもまず、
「あ、あるまくん、どう、だった?」
なんて聞くものだから。
アルマ・アルマットは、自分でも意図せぬうちに笑みを浮かべていた。やけに心が軽かった。今までになく、嘘みたいに。
「きちんと見送れたよ」
何故か自分を見て、目を真ん丸にしている彼女から目を逸らし、アルマ・アルマットは遠く小さな点のようになった馬車の影を見送った。やがてそれが丘の向こうに消え見えなくなっても、ずっと。




