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わたしとあなたの七十五日  作者: ばち公
第三章 ベアトリーチェ 下
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 父は、勇者アルマの幻影に囚われてしまった。

 だからベアトリーチェは父の背中ばかりを覚えている。


 早くに母親を亡くしたベアトリーチェの家族は、父親であるサンドールただ一人だった。それ以外の身内なんて、祖父母ですら見たこともなければ聞いたこともない。勘当でもされたのか、だとしても十分有り得なくもない話だった。

 サンドールはそういう人間だった。

 一度研究に没頭すると、周りの何もかもが見えなくなる。目的とそれを叶えるための手段、これだけあれば他には何も必要ではなかった。一般的な常識も、礼儀も、倫理観も。

 どうでもいいと見なしてしまえば、彼に目をかけた貴族の名すら覚えなかった。

 そのような男に、まさか支援者が付くはずもなかった。


 そのためベアトリーチェの家は貧しかった。

 サンドールの計り知れない才能に惚れこんだ、変わり者の支援が極稀にはあったが、それ以外は、かつてサンドールが稼いだ蓄えでなんとか糊口をしのいでいた。


 ベアトリーチェは家を顧みない父親に代わって、家事の一切を取り仕切っていた。朝夕の食事を作り、繕い物をし、サンドールの元を訪れる業者から食糧や日用品を買いつけた。

 そんなベアトリーチェの毎日は、とうてい普通の子どもが過ごすような日々ではなかった。

 人里離れた研究室兼実家を訪れる者は少なく、他人と顔をあわすことは滅多になかった。業者の男や、彼の護衛をしていた年若い傭兵のエディ――現在カノック砦にいるエディその人である――と、ささやかな会話をするくらいだった。教育は気まぐれなサンドールから施されたり、時には彼の書物から勝手に知識を得た。


 昔はこうではなかった。サンドールが拙いながら整えた食卓に、毎日親子二人でついていた。


 変わったのは、出入りしている業者が雑談ながら語った、あの『お触れ』を知ってからだった。


―――「勇者アルマの代替となるものを探せ」


 この国には、もはや伝説となった実話がある。

 『勇者アルマ』とその『五人の仲間』が亡くなった、『明けの獅子狩り』だ。

 五人の仲間は、勇者を先へ進ませるための壁となってやがて討ち死に、勇者アルマは最後の最後、『月の獅子公』と刺し違えて亡くなった。

 彼ら全員の命という尊い犠牲のもと、その戦いは幕を下ろした。


 そうして亡くなった『勇者アルマ』を、この国の人々は求めていた。

 この国の象徴として、鍵として、あるいは下卑た野心のため。

 彼の代替(・・)には、莫大な報奨金がかけられていた。


……あんなものが無ければ、と。ベアトリーチェは今でも当時のことを、恨まずにはいられない。


 そのお触れを知ってから、サンドールは変わってしまった。いや、以前からこうだったのかもしれないが、少なくとも昔はベアトリーチェを決して蔑ろにはしなかった。

 今は違う。サンドールは研究室に籠り、何とも知れない研究に躍起になっている。共に暮らす親子でありながら、声すら聞かず、顔すら見ない毎日――。


 だけどベアトリーチェは信じていた。サンドールが用意した粗末な朝食の席。そこでの彼の、


「いつかもっと美味いものを食わせてやるから」


 という、それだけの言葉を。父親として、娘であるベアトリーチェを想って言ったあの言葉を。


 本当はどれだけ味気無くても冷たくてもいいから、家族と食卓を囲みたかった。机の上がごちゃごちゃしていてもいい、ほんのちょっとの会話をして、たまに母親の思い出話なんてしてもらって、それで腹と気持ちを満たす。


 ベアトリーチェは長袖などの、体の線が覆われる衣装ばかりを着るようになった。発育が不十分な痩せっぽちの身体を隠すために。

 それももう手遅れであった。彼女を見る人間なんて、もうどこにもいないというのに。




 それから何年経っただろうか。彼女の生活はあまりにも淡々とし過ぎていて、時の流れを感じづらいほどだった。

 ベアトリーチェは歳を重ね、背こそ少し伸びたが相変わらずの痩身だった。家事をこなし、本を読んで勝手に物事を学ぶ、それだけの日々。

 終わりはこなかった。

 研究の成果――アルマ・アルマットが完成してからも、サンドールは元には戻らなかった。


 業者の男から、ついに研究が完成したらしい、と聞いたその日。

 ベアトリーチェは何もかもを放り投げて、一目散に研究室に飛び込んだ。


「父さん、出来たの、出来たのね!! これが、この子が成果? アルマ・アルマット? ああ研究が終わったのね。おめでとう、おめでとうお父さん!!」


 ほの光る水に満たされた、妙な形の棺に眠る少年。この時のベアトリーチェは少年自身にはそれほど関心が無かったため、ただ人形みたい、とだけ認識したのを覚えている。

 ベアトリーチェはその棺に手を付きながら、父親を振り返った。サンドールは眉尻をおろし、どこか困ったような顔をしていたが、興奮しているベアトリーチェにはそんなことも分からなかった。


「お父さん、私は、私は――!」

「ベア」


 サンドールはベアトリーチェの矮躯を持ち上げ、成果(・・)から距離を取らせた。

 ベアトリーチェはじっと目を輝かせ、行儀よく彼の言葉を待った。久方ぶりに聞ける、娘にかけられる父親の言葉を。

 サンドールは笑顔を作った。


「――エマの花畑があるんだ」


 あの時の絶望を誰が知るというのだろう。


 子供を余所に向かわせることを第一に発せられた言葉。それを耳にしたあの瞬間。面倒事を避けたがっている曖昧な笑顔、そそくさとベアトリーチェの背中を追いやる手、やがて閉じられるドア。


 我に返ったベアトリーチェの鼻先に、一ひらの雪が触れた。

 彼女は屋外にいた。降り積もった雪に足音が軋む。


――良い子(・・・)のベアトリーチェは、気づいたら元気よく、明るい声を上げて頷いていた。だからベアトリーチェはエマの花畑を探しにいかなければならなかった。

 サンドールの示した場所に、エマの花畑は無かった。彼女は枝を拾い、その辺の繁みを掻き分けてさらに山を進んだ。

 やがて見つけたのは、一株のエマの花だった。とてもじゃないが花畑だなんて言えない。屈んで覗きこめば、雪の中で特別清らかに、美しく咲き誇っている。


 ベアトリーチェの大好きな花。母親の好きだった花。父親も好きだった花。

――ベアトリーチェを退かしてすぐ、アルマ・アルマットの眠る棺に向かう父親の背中。


 伸ばした指先で掬うように触れる。絹のような感触の、美しい三枚の花びら。ぽたりと落ちた涙の粒が、花びらをつるりと滑り落ちる。

 ベアトリーチェはしばらくそこで、たった一人で涙を流し続けた。


 勇者アルマ。そしてアルマ・アルマット。


 貴方には分からない。


 世界で唯一を奪われた幼子の気持ちも。雪山に浮かぶ、一人分の白い息の儚さも。屈んで摘んだ花びら、そこに散った涙のことも。その花を摘み笑顔で父親に見せた、あの良い子の気持ちなんて。


 貴方には分からないよ。

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