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わたしとあなたの七十五日  作者: ばち公
第三章 ベアトリーチェ 下
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三十二日目 理想

 私はちくちくと刺繍に精を出していた。

 自室ではなく、宴の夜に、アルマくんから教えてもらった場所だ。相変わらず人気はない。静かな場所だった。

 刺繍も、多少は慣れた。毎日続けていたお陰で、だいぶ腕が上がった。上手い、とは言い難いが、それでも指先を針でさして、アルマくんに顔を顰められることもほとんどない。

 アルマくん。

 もしくは、アルマ・アルマット。


「……」


 外ではしとしとと細雨が降っていた。

 気付けば私は針を動かす手を止めて、雨垂れに耳を澄ませていた。思考が雨音に沈んでいく。

 どれほどぼんやりとしていたのだろう。私は背後から近づく、彼女の足音に気付かなかった。


「……月吉、伊吹さん?」


 ビックリしたせいで体勢を崩し、大事な帯が膝から落ちそうになる。

 慌てて手を伸ばしたお陰でそちらは上手く掴めたのだが、その拍子に机にぶつかってしまい、針などの刺繍道具がばらばらと落ちてしまった。

 私のその姿は、傍から見ていたら途轍もなく間抜けだっただろう。アルマくんがいたら閉口されたに違いない。


「ああ、すいません! ちょ、ちょっとだけ待って下さいね――」


 慌ててそれらを拾う私の手の先で、手袋に覆われたほっそりした指先が動く。

 細やかな動きで針や糸通しなどをさっさと拾うその人こそが、今の今まで私を悩ませてきた、ベアトリーチェさんだった。


「……これで全部です。すいません、手伝わせてしまって」

「私が驚かせてしまったのですから。こちらこそ申し訳ございません」

「えっ、そんな、頭なんて下げないでください。ただ私が馬鹿でうっかりしてただけなのに、」

「しかし恐らく、元はと言えば私が先日――」


 と、何度か同じやり取りを繰り返した。ベアトリーチェさんはその繊細そうな外見に反し、なかなか強情だった。

 このままでは埒が明かないと思った私は誤魔化すように、


「そっ、それより良かったら座りませんか? 立ったままなんて疲れるでしょうし」


 と、気付けば正面の空いていた椅子を勧めていた。

 そして、なぜかベアトリーチェさんはそれを受け、その質素な椅子に腰かけた。

 沈黙が痛い。

 つい机に視線を落とすと、とてもじゃないが出来がいいとは言えない刺繍が目に入って、さらに辛い。


「それは刺繍ですか?」

「え?」


 顔を上げると、ベアトリーチェさんの視線もまた机の上の刺繍に注がれていた。


「贈り物なんです。まだまだ縫ってる途中で――。あ、この角のところが特に難しいんですよね」

「少し貸して下さる?」


 彼女の言葉は丁寧だが、有無を言わせない雰囲気があった。

 私がおずおず手渡すと、彼女はまだ白地ばかりの帯を眺めてから、机の上に広げられた図案をじっくりと眺めた。


「いい絵ですね。贈り物でしたら、まさか私が手を出すわけにはいきませんね」


 ベアトリーチェさんはそれから図案を指差しながら、丁寧にコツや注意点を説明してくれた。不慣れな私でも理解できるほど分かりやすく、まるで本物の先生のような説明だった。

 いざとなったらアルマくんに土下座で謝る気だった私にとって、まさかの天の助けだった。


「ありがとうございます! これなら出来るかも……! 刺繍、得意なんですか?」

「いえ。昔はよく繕い物もしましたが、最近はさっぱり。うまく伝えられたのなら良かった」

「そんな、すっごく分かりやすい説明でした。教えてた経験があったのかな、なんて思ったくらい」

「ふふ、私が学んだのは言葉の方です。喋り方、伝え方、人とわかり合うための手段――」


 興奮して、馬鹿みたいにはしゃぐ私を見て、ベアトリーチェさんはどう思っていたのだろう。


「――彼に贈るのですか?」


 雨の音が、激しくなった気がした。

 ベアトリーチェさんの鮮やかな緑の目から逃げるように、私は俯いた。「えっと、」と口を開いたまま、その言葉の後は続かない。

 自分の婚約者に見知らぬ女が刺繍を贈るなんて、良い気がしないに違いない。いや、この地方に生まれた人間にとって、それはあまりにも侮辱的な行為だ。――貴女のことを知らなかった、これを頼んだのはアルマくんの方だ。どれほど言い訳を重ねても、意味が無いくらいに。

 そのくらい、この刺繍には深い意味が込められている。一針一針縫ってきた私にも、痛いほど理解できてしまう程に。

 私は、唾を飲み込んだ。


「――ベアトリーチェさんは、アルマくんの婚約者なんですよね」

「婚約者、……そうですね」


 どこか煮え切らない言葉に顔を上げると、ベアトリーチェさんはすでに私を見ていなかった。追えないくらいに遠い目で、窓の外を見つめている。

 まさか雨垂れで視界の悪い景色を眺めているはずもなく。


「……アルマ・アルマットが私の傍にいる。それが理想の形なら、私はそれに添い遂げたいと願っていました。人々がそれを望むのなら、それが当然だと」

「それは、」


 どういうことなのか。

 問いかける言葉も消えるくらいに、ベアトリーチェさんは儚げな微笑を浮かべる。


「――彼に、」


 俯き気味にぽつりと落とされた声。


「彼に、『貴女には分からない』と、言われてしまいました……」


 私たちの沈黙を、いつの間にか本降りになっていた雨音が埋めていく。この砦の、この空間だけ雨に包み込まれ、切り取られたかのような錯覚を受けながら、私は縫物の手を完全に止めた。


「ねえ、少しだけ聞いてくださるかしら? 私の、私達の話を――」


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