三十二日目 理想
私はちくちくと刺繍に精を出していた。
自室ではなく、宴の夜に、アルマくんから教えてもらった場所だ。相変わらず人気はない。静かな場所だった。
刺繍も、多少は慣れた。毎日続けていたお陰で、だいぶ腕が上がった。上手い、とは言い難いが、それでも指先を針でさして、アルマくんに顔を顰められることもほとんどない。
アルマくん。
もしくは、アルマ・アルマット。
「……」
外ではしとしとと細雨が降っていた。
気付けば私は針を動かす手を止めて、雨垂れに耳を澄ませていた。思考が雨音に沈んでいく。
どれほどぼんやりとしていたのだろう。私は背後から近づく、彼女の足音に気付かなかった。
「……月吉、伊吹さん?」
ビックリしたせいで体勢を崩し、大事な帯が膝から落ちそうになる。
慌てて手を伸ばしたお陰でそちらは上手く掴めたのだが、その拍子に机にぶつかってしまい、針などの刺繍道具がばらばらと落ちてしまった。
私のその姿は、傍から見ていたら途轍もなく間抜けだっただろう。アルマくんがいたら閉口されたに違いない。
「ああ、すいません! ちょ、ちょっとだけ待って下さいね――」
慌ててそれらを拾う私の手の先で、手袋に覆われたほっそりした指先が動く。
細やかな動きで針や糸通しなどをさっさと拾うその人こそが、今の今まで私を悩ませてきた、ベアトリーチェさんだった。
「……これで全部です。すいません、手伝わせてしまって」
「私が驚かせてしまったのですから。こちらこそ申し訳ございません」
「えっ、そんな、頭なんて下げないでください。ただ私が馬鹿でうっかりしてただけなのに、」
「しかし恐らく、元はと言えば私が先日――」
と、何度か同じやり取りを繰り返した。ベアトリーチェさんはその繊細そうな外見に反し、なかなか強情だった。
このままでは埒が明かないと思った私は誤魔化すように、
「そっ、それより良かったら座りませんか? 立ったままなんて疲れるでしょうし」
と、気付けば正面の空いていた椅子を勧めていた。
そして、なぜかベアトリーチェさんはそれを受け、その質素な椅子に腰かけた。
沈黙が痛い。
つい机に視線を落とすと、とてもじゃないが出来がいいとは言えない刺繍が目に入って、さらに辛い。
「それは刺繍ですか?」
「え?」
顔を上げると、ベアトリーチェさんの視線もまた机の上の刺繍に注がれていた。
「贈り物なんです。まだまだ縫ってる途中で――。あ、この角のところが特に難しいんですよね」
「少し貸して下さる?」
彼女の言葉は丁寧だが、有無を言わせない雰囲気があった。
私がおずおず手渡すと、彼女はまだ白地ばかりの帯を眺めてから、机の上に広げられた図案をじっくりと眺めた。
「いい絵ですね。贈り物でしたら、まさか私が手を出すわけにはいきませんね」
ベアトリーチェさんはそれから図案を指差しながら、丁寧にコツや注意点を説明してくれた。不慣れな私でも理解できるほど分かりやすく、まるで本物の先生のような説明だった。
いざとなったらアルマくんに土下座で謝る気だった私にとって、まさかの天の助けだった。
「ありがとうございます! これなら出来るかも……! 刺繍、得意なんですか?」
「いえ。昔はよく繕い物もしましたが、最近はさっぱり。うまく伝えられたのなら良かった」
「そんな、すっごく分かりやすい説明でした。教えてた経験があったのかな、なんて思ったくらい」
「ふふ、私が学んだのは言葉の方です。喋り方、伝え方、人とわかり合うための手段――」
興奮して、馬鹿みたいにはしゃぐ私を見て、ベアトリーチェさんはどう思っていたのだろう。
「――彼に贈るのですか?」
雨の音が、激しくなった気がした。
ベアトリーチェさんの鮮やかな緑の目から逃げるように、私は俯いた。「えっと、」と口を開いたまま、その言葉の後は続かない。
自分の婚約者に見知らぬ女が刺繍を贈るなんて、良い気がしないに違いない。いや、この地方に生まれた人間にとって、それはあまりにも侮辱的な行為だ。――貴女のことを知らなかった、これを頼んだのはアルマくんの方だ。どれほど言い訳を重ねても、意味が無いくらいに。
そのくらい、この刺繍には深い意味が込められている。一針一針縫ってきた私にも、痛いほど理解できてしまう程に。
私は、唾を飲み込んだ。
「――ベアトリーチェさんは、アルマくんの婚約者なんですよね」
「婚約者、……そうですね」
どこか煮え切らない言葉に顔を上げると、ベアトリーチェさんはすでに私を見ていなかった。追えないくらいに遠い目で、窓の外を見つめている。
まさか雨垂れで視界の悪い景色を眺めているはずもなく。
「……アルマ・アルマットが私の傍にいる。それが理想の形なら、私はそれに添い遂げたいと願っていました。人々がそれを望むのなら、それが当然だと」
「それは、」
どういうことなのか。
問いかける言葉も消えるくらいに、ベアトリーチェさんは儚げな微笑を浮かべる。
「――彼に、」
俯き気味にぽつりと落とされた声。
「彼に、『貴女には分からない』と、言われてしまいました……」
私たちの沈黙を、いつの間にか本降りになっていた雨音が埋めていく。この砦の、この空間だけ雨に包み込まれ、切り取られたかのような錯覚を受けながら、私は縫物の手を完全に止めた。
「ねえ、少しだけ聞いてくださるかしら? 私の、私達の話を――」




