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アルマくんは川縁で涼んでいた。カノック砦の外、なだらかな丘の一部が崖のようになっている、その真下である。
日陰で、気軽には人目に付かないような所だった。そして此処からは、私が倒れていた場所もよく見えた。
私をこうして外まで連れてきてくれたエディは、アルマくんに気が付くと、静かに砦内へと帰っていった。後で一回、リリーさんとの仲を取り持つ約束だ。
私は複雑な心境でアルマくんの横に座った。彼は寝転がっていて、せせらぎに耳を澄ませるように目を閉じていた。
何も言わずにじっとしていると、やがて彼は観念したように上体を起こした。
「……服が汚れる」
「私の服の心配してる場合じゃないでしょ、普通……」
「普通ってなんだよ」
すっと彼の目の色が変わる。声のトーンはあくまでも静かだった。その下に覆い隠されているものはともかくとして。
「なんでこんなところに来たんだ、外に出たら殺されるかもしれないのに。エディはどうした? お前は自分の立場が分かってるのか」
「私は『監視役』の傍にいないといけないからね。ね、アルマくん」
「俺はアルマじゃない!」
握り拳が、崖壁を殴りつけた。ぱらぱらと土が落ちるのを耳の横に感じながら、私は彼の瞳を見つめた。
影の中でいつもより暗い、夜空みたいな、青と黒の瞳。
「お前には、」
彼は私の視線を受け、苦しげに目を閉じ、俯く。堪えきれない感情に震える声で囁く。
「お前には分からないだろう」
青色の髪が揺れる。まるで造り物めいた、ファンタジーの世界を代表する、美しい髪色。この国を表す色。
そして、彼の最も嫌いな色。
「――造られたもの、それが国を護るということ。己を造った者の娘、それと結ばれるということが。お前には分からないだろう……ッ!」
苦悩を吐露するアルマくんに、私は何も言えない。
彼の肩に触れる。逞しい男性の肩は、怒りか或いは悲しみにか細く震えている。
「アルマ・アルマットを造ったこの国を、紛い物の俺が護らなければならない。俺が。この国の色を背負って。それで、俺を造ったあの男の子どもと結ばれる。それを望まれている? くそっ、ふざけるな……ふざけるなよ……!」
アルマくんは泣いているようだった。咽喉から絞り出した声は、荒れ狂う感情のなかでよりいっそう苦しげに響く。
彼の深い懊悩は病魔のように暗い。私にそれを照らす術は無い。
「アルマくん」
だけど傍にいることはできる。いつかの聖書の言葉を思い出す。
私達は暗闇の中、なにも見えなくとも、その手を握り、温かさを伝えることができる。
出会ってから今まで。彼が私に、何度もそうしてくれたみたいに。
「私がいるよ。私も独りだけど、私にはアルマくんがいてくれた。だからアルマくんには、私がいる」
アルマくん。独りなのに一人になりたくて、こんな所に隠れていたアルマくん。そして私を見つけたアルマくん。独りぼっちの私に、いつだって手を差し伸べてくれたアルマくん。私みたいなぽっと出の不審者に「アルマくん」と呼ばれただけなのに、あんなに柔らかく笑ったアルマくん。異世界から来た私に違和感を感じないほど、この世界でずっと独りぼっちだったアルマくん。アルマくん。アルマくん。
「アルマくん。私は『勇者アルマ』なんて知らない。アルマくんだけ、アルマくんだけが私の――」
その先は言葉にならなかった。
私はアルマくんの温かい腕のなかで静かに瞼を落とす。私を何度も庇ってくれた、彼の広く逞しい背中に、私のちっぽけな手を添えた。か細く震えるそれを宥めるように撫でながら、私は彼の名を囁いた。彼が縋るような声でそうするように。
私が告げる『アルマ』の言葉、それは貴方だけに捧げられるものなのだ。
「――だけどお前だっていずれ元の世界に帰ってしまうくせに」
やがてそれだけの囁きがひやりと鼓膜を打った。アルマんくんは私の髪を掬うように掌をすべらせる。その長い指先が、あの琥珀色の髪飾りに触れる。
ややあって、アルマくんは私から身を離した。
「ごめん」
アルマくんは目を伏せた。私は彼のその言葉に、何も答えることができなかった。
そのあとすぐに、私達は砦へと帰還した。
私はそのまま恩人であるエディとの約束を果たすため、彼が待っているだろうリリーさんの働く食堂へと向かった。リリーさんの短い休憩時間の内に、エディの長所をアピールしなければならなかったのだ。
つまり、私はそこでアルマくんと別れてしまったから、アルマくんがその後どうしたのかは知らないのだ。
「どうしたのですか? 貴方が私を呼び出すなんて、珍しい」
「ベアトリーチェ。貴女との婚約を解消したい」
アルマ・アルマットが歯に衣着せずそう切り出すと、ベアトリーチェはその美しい翠の瞳を見開いた。
しばらくの沈黙があった。アルマ・アルマットは、かつて彼らが過ごしていた家での、よそよそしいまでの静寂を思い出していた。
愕然とするベアトリーチェから、やっとの思いで絞り出された声は掠れていた。
「なぜ? あの子が原因なの? 貴方は……」
「いや、イブはきっかけに過ぎない。――本当は前から考えていたんだ。ずっと、ずっと。それこそ俺が生み出されたときから、ずっと。俺は――」
「今さら、何を考えることがあるというの。私と、貴方が結ばれる。それだけのことを、どれほどの人々が望んでいるか。それがどれほど理想的か、貴方には分かっているのですか? 私はそれについての覚悟があります。例え私達が互いを――、いえ。なんでもありません」
言い過ぎたとばかりにベアトリーチェは口を閉じた。
「……ねえ、アルマ・アルマット。確かに私達は、愛の言葉を交わし合ったわけではありません。そんなつもりもありません。それでも貴方は、私は、人々に望まれるがままに、それを受け容れてきたでしょう? なぜそれを、今さら変えようとするのですか?」
「貴女には、」
アルマ・アルマットは、万感の思いを込めてその言葉を吐き出した。
「貴女には分からないよ」
造り物の青と、異常なほどの治癒力を、誇らしげに見せつけなければならなかった子供時代。異常は異常ではなく、隠しても隠れてもいけなかった。
俺は隠れたかった。人々の目に何一つ晒したくなかった。青い髪も目も、象徴としてあるだけの自分も。
延々と詰め込まれた勇者の知識、彼の言葉、彼の記憶。剣技の鍛錬に傍目も触れず打ち込んだ。まるで勇者のように。それが正しかった。それだけが正しかった。
『アルマ・アルマット』と呼ばれる名の意味。生まれた時から、俺はそれを知っていた。俺の役目を。俺の向かう先、そこに聳える神殿の門扉を。
――好きも嫌いも使命も定められていて、それを国に捧げることを喜んでみせなければならなかった、あの子どもの気持ちなんて。
「貴女には、分からない」
唯一自分を見てくれた彼女を、それだけを永遠に手放したくないと祈った男の気持ちも。
踏み込むことも踏み込まれることもできず、ただ傍にいたいと願った俺の気持ちも。
貴女には、きっと永遠に分からない。
そして。
それだけを告げて去ろうとしたアルマ・アルマットの背に、震える声がかかった。
「なんで」
アルマ・アルマットは咄嗟に振り返った。その声に聞き覚えがある気がした。
「なんで貴方がそれを言うの?」
まるで、幼いアルマ・アルマットが発したかのような、弱々しい声だった。
正面から見たベアトリーチェの眦には涙が滲んでいた。しかしその緑の双眸は、苛烈な輝きとともにアルマ・アルマットを見据えている。
「その言葉は、私の――」
そうして戦慄いた形の良い唇は、その先を告げず。
「――失礼します」
アルマ・アルマットは、背を向ける彼女を引き留めなかった。
感情を押し殺した声。刹那見た彼女の表情は、平常時と変わらなかった。
アルマ・アルマットは、そのとき初めて彼女を見た気がした。己を造った研究者の娘、共に育ってきた姉のような女性、ベアトリーチェ自身を。




