二十五日目 刺繍、大人と子ども
その日、私は頭が痛くなるくらい真剣に悩んでいた。
「刺繍のモチーフ、どうしよう……」
また熱が出そうだった。もちろん知恵熱である。
私が悩んでいるのは、以前アルマくんに願い出た、帯の裏側に忍ばせる刺繍についてだった。
請け負った(というより半ば無理矢理申し出た)のはいいが、私にはかなりの難問だった。アルマくんから帯はすでに受け取った。針や糸などの裁縫道具も借り、おまけに時間もたっぷりある。
しかし肝心の、何を縫うか、がなかなか決まらなかった。私には、この世界の文化についての知識も教養も経験も、なにもかもが足りないのだった。
少し勉強したところによると、刺繍はそのモチーフによって意味が異なり、さらにそれを形作る糸の色によって細分化される。例えば、『赤い太陽』は未来、行く先、夏、情熱、あなたは燃えるような人、などだが、『黄色の太陽』は幸運、切れ間に掴むチャンス、見えぬけれどもあるモノ、などである。
どれがいいか。まさか適当に選ぶわけにはいかない。どうせなら、アルマくんには、とっておきを贈りたかった。見えるものも見えないものも含めて、彼が今まで私にくれた全てのように。
「でもなー……」
それに辿り着くきっかけすら私にはない。
例えば――そう、安直な発想だが、アルマくんの好きな色だとか、そういうものが分かったら良かったのに……。
なんて私が頭を抱えていると、
「どうした?」
と、アルマくんが現れた。彼はこういう時に現れる。タイミングがいいのか悪いのか。
しかしまさか贈り物の内容について、本人に直接聞くわけにもいかない。私は適当に誤魔化して、逃げるようにその場を後にした。
恐らくめちゃくちゃ怪しかったのだろう、アルマくんは訝しげに形の良い眉を顰めていた。
離れた後も、背中にビシビシと視線を感じるほどだった。
眠そうな猫背を探すと、エディはあっという間に見つかった。丸テーブルに頬杖をつき、四白眼に瞼が閉じかかっている。明らかに今起きました、という風体。
「……おぉ。どうした、変な顔して」
「ね、アルマくんの好きなものって何?」
「なんだよ急に。俺が知るわけないだろうが」
ちくちくとした不精髭の生えた顎を掻いて、どうでも良さげな声だった。
「それよりリリーちゃんの好きなものを教えてくれよ。ガードが固くってさぁ」
エディの言う『リリーちゃん』とは、この砦に通う給仕の女性だ。二十代半ばらしいから、アルマくんよりも少し年上だろうか。はっきりとした物言いとその働きっぷりで、皆から一目置かれている、かっこいい女性だ。
エディもよく「そういうとこに惚れ込んだ」と語っては、当のリリーちゃん本人や周囲から鬱陶しがられていた。
「んー。とりあえず兵士は嫌いだってさ。死んじゃうからって」
この砦や、付近の村には、蛮族との戦いで旦那や息子を失くした女性が多いと聞く。詳しい事情は知らないが、彼女にも以前何かあったのではないだろうか。
「ああ、そういうところもまたカワイイねぇ」
「ほんっと、すぐ惚気るよね」
「いやいやお前に言われたくねぇよ」
「えっ、どういう意味?」
エディは私の顔を見てなぜか口籠った。
「まあ、ガキは気にしなくていいんじゃねぇかな」
「ガキって。都合のいい時ばっか大人ぶってさぁ」
「そうじゃねぇよ。ただ俺らみたいなのには、お前らみたいのは、少し……いや、なんでもねぇよ」
エディの笑顔はなんだか見たことのない、変に距離を感じるもので、私はそれにどう答えたらよいのか分からず、ただ「なにそれ」と呟いた。
「そんなことよりリリーちゃんの話をしようぜ。彼女の本名はウリララっていうんだ」
「うるりら?」
「ウ・リ・ラ・ラ! この名前を知らないなんて、さては異邦人だな」
「そうだよ、知ってるくせに。『ウリララ』ってそんなに有名なの?」
「ああ。『五人の仲間』っていう、この国の英雄達の名前の一つだな。それにあやかった名前の奴がめちゃくちゃ多いから、混ざらないようにあだ名で呼び合うんだ。……あだ名も被ったら終わりだが」
ウリララでリリーというのはずいぶん無理矢理だと思ったが、なるほど、他の人と被らないように考えられた名なら納得だ。
そんな話を聞いて、私の頭にぱっと浮かんだのはもちろん彼――アルマくんこと、アルマ・アルマットのことだった。
「じゃあアルマくんは?」
「アルマ? アルマって名前はこの国で一番有名だぜ。当たり前だろ? だからあいつはアルマ・アルマットなんて呼ばれてるんだ」
なるほど。あまりにもよくある名前だから、あだ名みたいにアルマ・アルマット、なんて長ったらしく呼ばれてるのだ。他の人と区別するために。
「へー……」
「なんだ、興味無さそうだな」
実際、私にはあまり関係の無い話だった。
私にとっての『アルマ』は、アルマくんしかいない。今さら呼び方を変えるつもりも、注意すべきこともない。
それに本人を前にして、「ずっとアルマくんて呼ぶ」、なんて宣言までしているし。
(……まあ、アルマくんがまだこんなことを覚えてるかは分かんないけど)
あれこれ考え込む私を見て、エディは鼻で笑った。
「――そーゆーとこだよ、ガキ」
「な、なにいきなり……」
「ほら、迎えが来たぞ」
言われて振り返ると、アルマくんが立っていた。少しだけ気まずそうな、ちょっとだけ機嫌の悪そうな、あまり見たことのない表情をしていた。子どもっぽく見えた。
エディはそそくさと退散してしまった。結局アルマくんから距離を置いたところで、私はなんの成果も得られなかったのだった。
「なにを話してたんだ?」
「エーット……」
まさかあなたの為に悩んでいるなんて、言えるはずもなかった。
「あっ、ちょっとエディの、相談に乗ってて」
「相談?」
「そうそう。あの、リリーさんの好きなものは何かなーって。あ、ほら、好きな色とか!」
「懲りないな、あいつも」
とぼやくアルマくんの様子を見るに、なんとか誤魔化せたみたいだった。
そこでふと私は思った。――寧ろこれはチャンスなのでは? この流れなら、私が刺繍について悩んでいるなんて、まさか思われないだろう。ピンチはチャンス!
「そっ、そういえばさ、アルマくんの」
「俺の?」
そう言って子どもみたいに首を傾げる、その仕草に何故だか一瞬言葉が詰まった。胸がいっぱいになって、まるで時が止まったかのように声が出なくなったのだ。
本当に一瞬だけ、だったけれど。
「……アルマくんの、好きな色ってなに? やっぱり青とか? 私は大体なんでも好きなんだよねー」
「――色、は、特に思いつかないが。……青か。青は嫌いだな」
「き、らいなんだ」
「まあ。この国の象徴みたいな色だから、あまり褒められた発言ではないかもしれないが」
国の色。確かにそうなのかもしれないけれど。
私は眉根を寄せる。
私にとって青は、目の前にいるアルマくんの色だった。
「どうした、変な顔して」
こうしていると、改めて思い知らされる。
私は、アルマくんのことを何も知らない。
「……なんでもない。それさっきエディにも言われたんだけど、私ってそんなに変な顔してるかなぁ。納得いかないんだけど」
「変、というか、そうだな。……たまに、よく分からない顔をしている」
「よく分からないって、」
文句を言いかけて、彼の表情に口を噤む。
憂いを帯びた大人のような、途方に暮れた迷子のような、そんな顔。
「そういうとき、俺はお前のことを何も知らないんだなと思う」
その言葉は奇妙なくらいストンと私の胸に落ちた。真っすぐに、なんの躊躇もなく。ぴたりと嵌るパズルのピースみたいに。
「……あのね、アルマくん」
「ん?」
「私ね、アルマくんの帯の刺繍で悩んでたの。どんな柄がいいかなって」
「――そうか」
「うん」
私たちはしばらく話し合って、帯の模様について意見を出し合った。なんの色がいいか。どのような形にするか。アルマくんは私と同じくらい、刺繍についての知識がなかった。知識のないもの同士だから、やはり結論は出なかった。
それでも私たちは、他愛のないことを長々と喋っていた。まるで確かめるみたいに、飽きもせずに。ずっと。
 




