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わたしとあなたの七十五日  作者: ばち公
第二章 ベアトリーチェ 上
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二十日目 風邪、聖書の言葉

 異世界にきて、早三週間近くが経過していた。徐々に寒くなる季節の変わり目、私は風邪を引いてしまった。

 額が熱い、頭が痛い! と気付いたとき、アルマくんのことを考え過ぎたせいかな……なんて思ったが、そんなことはなかった。普通にただの風邪だった。恥ずかしい。


 ベッドに寝かされる私の看病は、アルマくんの仕事だった。以前、私が暗殺されかけて寝込んだときと同じ。私がうわ言でおかしなことを――例えば元の世界のことや、それを想起させることを口走っても大丈夫なように。

 それから、


「俺の方が安心するだろう」


 アルマくんは静かにそう零した。

 私は布団で顔を隠したまま何も答えなかったが、その通りだった。

 私はアルマくん以外の人間を、心底信用出来ていなかった。エディであれ、誰であれ。


 今朝、熱で倒れかけた私の腕を引いたのは、やはりアルマくんだった。

 彼の温かく大きな手のひらだけは、私がこの世界に来たときから唯一信じられるものだった。


 アルマくんはリンゴの皮を手早く剥いた。

 これも前と同じだ。食欲の無い私のためかと思ったが、よくよく聞くと、もちろんその理由もあるが、なによりアルマくんはそれ以外の看病の仕方を、碌に知らないらしかった(そんなことをぽつぽつ話しながら果物を切り分ける、この姿だけ見ていると、壊滅的に不器用だとはとても思えない)。

 例えば、他には、寂しくないように側にいるとか、汗で濡れた身体を拭くとか……。

 と、私の知識もその程度だったので、二人してしばらく首を傾げていた。


 やがてアルマくんは、諦めたように息を吐いた。


「何かしてほしいことはあるか?」


 私はちょっと考えた。


「じゃあ、何かお話しして」

「何かって」

「なんでもいいから」

「一番面倒くさいな」


 アルマくんは組んだ長い指先に視線を落とし、しばらくの間黙々と考え事をしていた。彼との沈黙は心地よかった。


「この前の、」

「ん?」

「……出かけた帰りに話した、同じ顔をした人間のことだが」

「うん」

「別世界の同一人物や、同じ世界に三人いるという同じ顔の人間――もしもそれらの顔が同じだったとしても、魂は別物なのではないだろうか」

「魂?」

「ああ。その人間に宿った魂は、本当に唯一無二のものなのではないかと俺は思う」


 アルマくんはつまり、顔が同じ人間同士であっても、どちらも関係なんて全く無い、赤の他人同士だと言うのである。

 そもそも究極的には、『自分』以外の人間は全て他人だ。血縁の、例え親兄妹双子であろうとも、それには違いないのだから。

 だから、顔面一つ一致しているというだけの両者も、結局は全くの他人なのである。


 アルマくんは淡々とそのようなことを話した。

 私はしばらくその言葉を吟味してからゆっくりと飲み込んだ。


「そうだね。そうかもしれない。……そもそも育ち方自体違うんだから、価値観だって違うだろうし」

「だろう」


 と頷くアルマくんは、どこか満足げに見えた。


 私はふと目を閉じた。あの老人の顔を思い出していた。私のお祖父ちゃんそっくりの、あの柔和な笑顔を。ゆったりと去っていくあの背中を。恐らく育ち方も生き方も何もかも異なるだろう、あの人が浮かべたあの顔、そして優しげな声――。


「――でも、もしかしたら」


 呟くと、アルマくんからの視線を感じた。


「もしかしたらそういう人は、たった独り、本当に分かり合える人同士なんじゃないかな。心が同じだとしたら。魂が同じだとしたら、本当に唯一無二の、理解しあえる誰かになってくれるんじゃないかな。そういう可能性のある、たった一人の――」


 あの老爺と私の祖父が会話をすれば、きっとそうなる気がした。

 私と、この異世界にいるだろう何処かの『私』も、もしかしたら、きっと――。


 夢見がちな、妄想じみたことを口走っている自覚はあった。

 だってこんなもの、この世界に独りでいたくない、ただの私の願望だ。


 アルマくんは沈黙を保っていた。私はしばらくその静寂に舌先を遊ばせてから、「ただの妄想だけどね」と付け足した。

 しばらくの後。アルマくんは長く息を吐いた。


「すまない。看病なのに、つまらない話をしてしまったな」

「ううん」

「代わりに本でも読み聞かせようか」

「いいね。アルマくんにしてはお遊び感がある気がする」

「それはどうも」


 と言って、アルマくんが取り出したのは分厚い書物だった。

 頑丈なカバーに、それを縁取る銀色の金具。この砦にあるものにしては、非常に立派なものだった。イヤ、立派過ぎる、とでも言おうか。


「聖書だ」


 まさかのチョイスである。

 さすがに言葉がでなかった。

 風邪を引いた、しかもこの世界の教養が欠片も無い異世界人に、語り聞かせるものではないだろう。もはや朴念仁とか言うレベルではない。


 ドン引きする私をよそに、その分厚い本のなか、彼は目当てのページをすんなりと開くと、その節を読み始めた。


「『エドゥンのヌフエドは言う』『――彼らは目の潰れるような暗闇にいた。音は無く、光は無い。』『誰が彼らに救いを与えようか。彼らは他人の存在を知るものか。』」


 気付けばアルマくんの声に耳を澄ませていた。少し低い、聞き取りやすい声だった。

 彼の開くそのページは何度読み返されたのか、擦りきれるように色あせていた。それこそあっという間に開かれるほど、くっきりとした読書の跡が染みついている。


「『彼らは他人に触れる。その手を握り、他人の温度を知ることができる。永遠の暗闇でさえも、人々の温かさを遮るものではないのである』――」


 聖書の文章というのは独特だった。正しい音節や文脈を持っているかのように、その言葉は力強く堂々としていた。

 私はその余韻に浸っていた。なんだか不思議な感覚だった。


「ねえ、ヌフエドって?」

「最後の預言者の一人だ。エドゥンは地名。エドゥンのヌフエド、エドゥンのリュイン。二人いて、片方が()の預言者だった」

「片方って、」

「ヌフエドだよ」


 アルマくんは静かに本を閉じた。何事もなかったかのように。

 私も目を閉じた。柔らかな闇が瞼の裏に広がる。風邪のせいかそれすらも心細く感じた。私はアルマくんの温かさを想像した。たった一人救いを乞う暗闇の人みたいに。


「ねえアルマくん、起きたら聞きたいことがたくさんあるの」


 返事はない。私には聞こえなかっただけかもしれない。しかし溶けるように眠たくて、目を開けて彼を見る気力もない。

 やがて風の音が聞こえた気がした。何物にも遮られない、風の音が。それは私の身体を冷やし、底知れない不安感に震わせた。

 誰もいない。ここには誰も見えなかった。私だけが暗闇のなか風に晒され、ただ一人底知れず彷徨い続ける――。




 アルマ・アルマットは眠りに落ちた伊吹に、無表情ながら安堵した。速やかに就寝できる体力があり、状態も安定している。呼吸も落ち着き、汗もない。姿勢よく、仰向けになって眠っている。本当に、少し体調を崩しただけのようだ。

 彼は改めて、伊吹の健やかな寝顔を覗き込む。彼女には心配させられてばかりだ……なんて、口にしたら怒られるだろうから言わないが。

 なんとなく感慨深く眺めていると、伊吹の寝顔が憂鬱げに歪んだ。アルマ・アルマットは咄嗟に手を伸ばしかけ。

 そして、触れる直前で引いた。


 伊吹は忘れている。いや、無意識に思い出さないようにしているのかもしれないが、それはともかく。

――この手は、人殺しの手だ。

 しかし彼女は、そんなアルマ・アルマットの手に安らぎを覚えてくれる。温かな手だと、信頼をもって微笑んでくれる。


『あなた自身を大事にしてないってことだよ』


 伊吹の嘆く声を思い出しながら、アルマ・アルマットは自らの手の甲を撫でる。薄い色の皮膚、風穴のあいた痕。


『起きたら聞きたいことがたくさんあるの』


 何を聞きたいというのだろう。だいたい想像がつく。

 帝国を巡る情勢のこと、彼女が混乱していたあの施設のこと、それから、

(俺のこと……)

 アルマ・アルマットは自分の手に顔をうずめた。

 何も返事ができなかった。なんでも聞けと言ってやれたらよかったのに、それができなかった。


 先日の、宴会の夜と同じ状況である。ベッドで眠る伊吹。それを監視がてらぼんやりと眺めるアルマ・アルマット。

 以前は彼女からの問いかけにも、「何も分からないままでいてくれ」と、そのようなことを祈るだけだった。

 しかし今は、少し違う。何が違うのか。分からない。

 そもそもの話、それが分かるような人間であったら、手の傷だってもう少しうまく取り繕ったに違いない。彼女をあんな風に唖然とさせたり、涙ぐませたりはしなかった。恐らく。きっと。


「……」


 アルマ・アルマットは、伊吹のために剥いたリンゴに手を伸ばす。彼女は結局ほとんど食べなかった。そんなことを思いながらおもむろに齧れば、瑞々しく、甘い。

 もしかしたら、自分はこの果実の味を存外気に入ってるのかもしれないと。そんなことを思った。


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