二十日目 風邪、聖書の言葉
異世界にきて、早三週間近くが経過していた。徐々に寒くなる季節の変わり目、私は風邪を引いてしまった。
額が熱い、頭が痛い! と気付いたとき、アルマくんのことを考え過ぎたせいかな……なんて思ったが、そんなことはなかった。普通にただの風邪だった。恥ずかしい。
ベッドに寝かされる私の看病は、アルマくんの仕事だった。以前、私が暗殺されかけて寝込んだときと同じ。私がうわ言でおかしなことを――例えば元の世界のことや、それを想起させることを口走っても大丈夫なように。
それから、
「俺の方が安心するだろう」
アルマくんは静かにそう零した。
私は布団で顔を隠したまま何も答えなかったが、その通りだった。
私はアルマくん以外の人間を、心底信用出来ていなかった。エディであれ、誰であれ。
今朝、熱で倒れかけた私の腕を引いたのは、やはりアルマくんだった。
彼の温かく大きな手のひらだけは、私がこの世界に来たときから唯一信じられるものだった。
アルマくんはリンゴの皮を手早く剥いた。
これも前と同じだ。食欲の無い私のためかと思ったが、よくよく聞くと、もちろんその理由もあるが、なによりアルマくんはそれ以外の看病の仕方を、碌に知らないらしかった(そんなことをぽつぽつ話しながら果物を切り分ける、この姿だけ見ていると、壊滅的に不器用だとはとても思えない)。
例えば、他には、寂しくないように側にいるとか、汗で濡れた身体を拭くとか……。
と、私の知識もその程度だったので、二人してしばらく首を傾げていた。
やがてアルマくんは、諦めたように息を吐いた。
「何かしてほしいことはあるか?」
私はちょっと考えた。
「じゃあ、何かお話しして」
「何かって」
「なんでもいいから」
「一番面倒くさいな」
アルマくんは組んだ長い指先に視線を落とし、しばらくの間黙々と考え事をしていた。彼との沈黙は心地よかった。
「この前の、」
「ん?」
「……出かけた帰りに話した、同じ顔をした人間のことだが」
「うん」
「別世界の同一人物や、同じ世界に三人いるという同じ顔の人間――もしもそれらの顔が同じだったとしても、魂は別物なのではないだろうか」
「魂?」
「ああ。その人間に宿った魂は、本当に唯一無二のものなのではないかと俺は思う」
アルマくんはつまり、顔が同じ人間同士であっても、どちらも関係なんて全く無い、赤の他人同士だと言うのである。
そもそも究極的には、『自分』以外の人間は全て他人だ。血縁の、例え親兄妹双子であろうとも、それには違いないのだから。
だから、顔面一つ一致しているというだけの両者も、結局は全くの他人なのである。
アルマくんは淡々とそのようなことを話した。
私はしばらくその言葉を吟味してからゆっくりと飲み込んだ。
「そうだね。そうかもしれない。……そもそも育ち方自体違うんだから、価値観だって違うだろうし」
「だろう」
と頷くアルマくんは、どこか満足げに見えた。
私はふと目を閉じた。あの老人の顔を思い出していた。私のお祖父ちゃんそっくりの、あの柔和な笑顔を。ゆったりと去っていくあの背中を。恐らく育ち方も生き方も何もかも異なるだろう、あの人が浮かべたあの顔、そして優しげな声――。
「――でも、もしかしたら」
呟くと、アルマくんからの視線を感じた。
「もしかしたらそういう人は、たった独り、本当に分かり合える人同士なんじゃないかな。心が同じだとしたら。魂が同じだとしたら、本当に唯一無二の、理解しあえる誰かになってくれるんじゃないかな。そういう可能性のある、たった一人の――」
あの老爺と私の祖父が会話をすれば、きっとそうなる気がした。
私と、この異世界にいるだろう何処かの『私』も、もしかしたら、きっと――。
夢見がちな、妄想じみたことを口走っている自覚はあった。
だってこんなもの、この世界に独りでいたくない、ただの私の願望だ。
アルマくんは沈黙を保っていた。私はしばらくその静寂に舌先を遊ばせてから、「ただの妄想だけどね」と付け足した。
しばらくの後。アルマくんは長く息を吐いた。
「すまない。看病なのに、つまらない話をしてしまったな」
「ううん」
「代わりに本でも読み聞かせようか」
「いいね。アルマくんにしてはお遊び感がある気がする」
「それはどうも」
と言って、アルマくんが取り出したのは分厚い書物だった。
頑丈なカバーに、それを縁取る銀色の金具。この砦にあるものにしては、非常に立派なものだった。イヤ、立派過ぎる、とでも言おうか。
「聖書だ」
まさかのチョイスである。
さすがに言葉がでなかった。
風邪を引いた、しかもこの世界の教養が欠片も無い異世界人に、語り聞かせるものではないだろう。もはや朴念仁とか言うレベルではない。
ドン引きする私をよそに、その分厚い本のなか、彼は目当てのページをすんなりと開くと、その節を読み始めた。
「『エドゥンのヌフエドは言う』『――彼らは目の潰れるような暗闇にいた。音は無く、光は無い。』『誰が彼らに救いを与えようか。彼らは他人の存在を知るものか。』」
気付けばアルマくんの声に耳を澄ませていた。少し低い、聞き取りやすい声だった。
彼の開くそのページは何度読み返されたのか、擦りきれるように色あせていた。それこそあっという間に開かれるほど、くっきりとした読書の跡が染みついている。
「『彼らは他人に触れる。その手を握り、他人の温度を知ることができる。永遠の暗闇でさえも、人々の温かさを遮るものではないのである』――」
聖書の文章というのは独特だった。正しい音節や文脈を持っているかのように、その言葉は力強く堂々としていた。
私はその余韻に浸っていた。なんだか不思議な感覚だった。
「ねえ、ヌフエドって?」
「最後の預言者の一人だ。エドゥンは地名。エドゥンのヌフエド、エドゥンのリュイン。二人いて、片方が偽の預言者だった」
「片方って、」
「ヌフエドだよ」
アルマくんは静かに本を閉じた。何事もなかったかのように。
私も目を閉じた。柔らかな闇が瞼の裏に広がる。風邪のせいかそれすらも心細く感じた。私はアルマくんの温かさを想像した。たった一人救いを乞う暗闇の人みたいに。
「ねえアルマくん、起きたら聞きたいことがたくさんあるの」
返事はない。私には聞こえなかっただけかもしれない。しかし溶けるように眠たくて、目を開けて彼を見る気力もない。
やがて風の音が聞こえた気がした。何物にも遮られない、風の音が。それは私の身体を冷やし、底知れない不安感に震わせた。
誰もいない。ここには誰も見えなかった。私だけが暗闇のなか風に晒され、ただ一人底知れず彷徨い続ける――。
アルマ・アルマットは眠りに落ちた伊吹に、無表情ながら安堵した。速やかに就寝できる体力があり、状態も安定している。呼吸も落ち着き、汗もない。姿勢よく、仰向けになって眠っている。本当に、少し体調を崩しただけのようだ。
彼は改めて、伊吹の健やかな寝顔を覗き込む。彼女には心配させられてばかりだ……なんて、口にしたら怒られるだろうから言わないが。
なんとなく感慨深く眺めていると、伊吹の寝顔が憂鬱げに歪んだ。アルマ・アルマットは咄嗟に手を伸ばしかけ。
そして、触れる直前で引いた。
伊吹は忘れている。いや、無意識に思い出さないようにしているのかもしれないが、それはともかく。
――この手は、人殺しの手だ。
しかし彼女は、そんなアルマ・アルマットの手に安らぎを覚えてくれる。温かな手だと、信頼をもって微笑んでくれる。
『あなた自身を大事にしてないってことだよ』
伊吹の嘆く声を思い出しながら、アルマ・アルマットは自らの手の甲を撫でる。薄い色の皮膚、風穴のあいた痕。
『起きたら聞きたいことがたくさんあるの』
何を聞きたいというのだろう。だいたい想像がつく。
帝国を巡る情勢のこと、彼女が混乱していたあの施設のこと、それから、
(俺のこと……)
アルマ・アルマットは自分の手に顔をうずめた。
何も返事ができなかった。なんでも聞けと言ってやれたらよかったのに、それができなかった。
先日の、宴会の夜と同じ状況である。ベッドで眠る伊吹。それを監視がてらぼんやりと眺めるアルマ・アルマット。
以前は彼女からの問いかけにも、「何も分からないままでいてくれ」と、そのようなことを祈るだけだった。
しかし今は、少し違う。何が違うのか。分からない。
そもそもの話、それが分かるような人間であったら、手の傷だってもう少しうまく取り繕ったに違いない。彼女をあんな風に唖然とさせたり、涙ぐませたりはしなかった。恐らく。きっと。
「……」
アルマ・アルマットは、伊吹のために剥いたリンゴに手を伸ばす。彼女は結局ほとんど食べなかった。そんなことを思いながらおもむろに齧れば、瑞々しく、甘い。
もしかしたら、自分はこの果実の味を存外気に入ってるのかもしれないと。そんなことを思った。




