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『幻覚』
──頭が理解する前に体は動いていた。
右膝を着き右手はライフルを構えたまま、左手は胸のポーチから細緻な紋様を彫刻された木箱を取りだしその中身を撒いた。
バラ撒かれた赤い魔石は周囲の魔素を取り込み、その身に刻まれた魔法式を発動させる。自らを移動させ、陣となり、害意から内部を守るための結界を形成する。
大きく息を吸い込み魔素を体内に取り込み魔素を体内で魔力に変換、全身に彫り込んだ魔方式に流し込めば、魔法による探知を警戒して抑えていた身体強化や感覚の鋭敏化、そして精神汚染への対抗式が起動する。
左手は更に木箱を取り出したポーチから注射器を取り出すと首に当てぐっと押し込む、薬物が飛び出した針を通して体内へ。特定の物質ではなく『幻覚』と言う概念への対抗薬、これだけで今回の依頼料の半分が跳ぶ高価な魔法薬だが体は気にしない。訓練と経験に基づいた行動を行うだけだ。
周囲を赤く光る魔石が陣となり、体内を魔力が魔法薬が駆け巡る。ここで漸く頭が追い付いてきた、尤も直ぐに考えることは止め魔石が展開する結界と、全身に刻んだ魔方式に体内を巡る魔法薬に意識を集中させる。幻覚に掛かった状態で観察したり推察したりしても碌なことにはならないことは経験済みだった。
結界と身体強化で12.7mmまでなら耐えられる、装備は無理だろうが生きてさえいれば何とでもなる。重機関銃を撃ち込まれ続けた訓練と言う名のナニカを思い出しながらじっと待つ。
攻撃は来ない。逃走したのだろうか? だったら良いんだけど。この幻覚はかなりのものだ。視角は勿論、五感の全てを持っていかれた。しかも、こちらに気付かせない内にだ。時間の感覚も狂っているだろうから正確には解らないが、それなりの時間が経っている筈なのに解けもしない。
「ふぅ」
思ったより大きなため息になった。しょうがない、ちょっとした仕事がこんなことになるなんて……。欧州のとある国でカルト団体が誘拐した人間を生け贄に儀式を行っている。だから、その現場を押さえる。それだけだったのに。
科学で立証されても一般人には馴染みの無い魔法は裁判でも立証が面倒だ。だから魔法絡みの特に面倒な案件には民間の魔法使いが使われる。
ある依頼で調査をしていたらとんでもない事が解った。その際にカルトの犯罪集団と争いになり正当防衛で殺害してしまった。大抵これで解決できる、人権派とか言う連中も魔法使いは対象外らしい。
国は無駄な裁判費用を浮かせられて、警察も胸くそ悪い連中が消えて気分がいい。私は大して危険でもない犯罪者を殺すだけで懐が暖かくなる。誰もが笑顔になれる数少ない仕事だったのだ。
今回もそうだった。警察から貰った情報でも偵察要員の報告でも危険な相手は居なかった。不測の事態もなかった。全て事前情報のまま予定通り。30分で終わる作戦がこの様だ。
相手が何もしてこないし、幻覚が解ける気配もない。となるとどうしても考えてしまう。相手は誰なんだろうか? 奇襲だったはずだ、気取られている空気は無かった。一瞬で幻覚に掛かったのは待ち構えていたから、としか思えない。事前の準備無しに、となると余程の相手だ。世界で10人も居ない。そんな連中の居場所はある程度は把握してるし、何よりこのカルト団体との繋がりが見えない。金で雇うにもコネと金が必要だが……嵌められた?
私に死んで欲しいヤツなんてごまんと居るけど、殺したいヤツは一握り、本当に行動するとなると殆ど居ない。特に今回はこの国の警察と欧州魔法協会の依頼だ、国はともかく魔法協会はあり得ないだろう。私を殺したら自動的に『あの女』を敵に回す。『聖女』を敵に回して協会の得になることが見当たらない、むしろ、罠の存在を教えて恩を売って実験に協力させる。とかの方がよっぽど有り得る。
それに事前情報だけじゃない、偵察要員も居る。全員が結託する? 国に協会に会社、共通の利益が見えない。
じゃあ罠じゃない? この幻覚は誰の手によるもの? 私の知らない実力者が団体に居た? て言うかいつになったらこの幻覚解けるの?
「……もしかして幻覚じゃない?」
空に浮かぶ二つの月を見上げて呟いた言葉は頬を撫でる風に流されていった。
誤字脱字ありましたら申し訳ありません