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昼下がり、メルディーニは会議に出ていた。修練科から数人を選んで次代の指導者にするための会議だった。体力と技術、それに必要十分な人望を兼ね備えた人物はなかなか見当たらない。それでも数人に的を絞り、会議も煮詰まった頃。
「きゃぁぁぁぁぁ!」
スミレの甲高い悲鳴があがり、メルディーニはものも言わずに会議室を飛び出した。一階に降り、出入り口まで回る時間を惜しんで窓枠を乗り越える。
今まで何度も遠乗りに出かけ、ある時、蜂に刺された馬が暴れて振り落とされそうになったのだが、それでもあんな声はあげなかった。何かがあったのだ。
「スミレ!」
指導者棟の隣、賓客用の建物の扉を勢いよく開ける。昼ゆえに魔灯は使っていない室内は、窓の小さい独特な造りもあいまってうす暗い。だが、そこにいるのがスミレだけではなく、地面に倒れこむようにしている彼女の前に、メルディーニの弟であるウォーレンが覆いかぶさらんばかりに立っているのが見えた。
「なにをしている!」
「え? いや、僕は」
「言い訳をするな」
一足飛びに弟の背後に立ち、腕をねじり上げる。
「あ、ちょっと兄さん、痛い、いや、足元に!」
「足元?」
痛みよりも妙に慌てて床を気にするウォーレンの視線を追って、自分の靴を見やると、その下から何やら半分はみ出しているものがあった。そっと足をあげると、どうやら数センチばかりの芋虫を踏みつぶしたらしい。半分だけ、体液の痕がある。
それを見て、スミレがまた、悲鳴をあげる。その頃には、扉から数人の修練生がなにごとかと覗き込んでいた。
「ああ、せっかく採って来たのに」
「なぜ、芋虫をスミレに。喜ぶとでも思ったのか」
「兄さんの指示じゃないか。カイコだよ、カイコ。それっぽいのを何種類か見つけたけど、僕には判断できないから、スミレに見てもらおうと思ったんだ」
「それだけか」
「そうだよ。見せた途端にものすごい悲鳴をあげられて、しかも転んでしまったから助け起こそうとしたんだ。ところで、いつまで僕の腕を傷めつけているつもりなの?」
我に返って手を離すと、ウォーレンは腕をふるふる振って血行を促している。メルディーニは、スミレに近づこうとした。
が、
「来ないで!」
「なに?」
「虫を踏んだ足で近寄らないで! そもそも……その足で室内を歩かないで、虫もその男も何もかも連れて出て行ってちょうだい!」
なぜ遠ざけられるのか分からない兄弟に、召使いの女が呆れたように近づき囁いた。女は虫が嫌いなものだ、と。彼女は、一代前の母が、果敢にも山を越えて嫁いできた民だった。
この町は山裾にへばりつくように広がっている。すぐそこには深い森があり、虫も獣も、身近な存在だった。男だろうが女だろうが、その辺にいくらでもいる存在を怖がっていたのでは生活できない。初めて出会う価値観に呆然としているうちに、メルディーニは芋虫ともども、部屋を追い出された。
夜、執務室兼自室となっているメルディーニの寝室に、弟が訪ねてきた。
「まだ仕事?」
「いや、一区切りといえば一区切りだ」
弟の手に酒瓶があるのを見て、両手を広げて歓迎を現す。カウチに移り、この地方独特の強い酒を舐めるように楽しんだ。
「生き残った芋虫の中に、カイコだろう、ってスミレが言ってくれたものがあったよ」
「そうか。見たのか」
「うん。あの後、しばらくしてから、虫かごに一匹ずついれて並べておくように、って召使いから伝言をもらってね。それから、クワの葉を用意しておくようにって。かごの中にクワを入れて、食べた虫だけ遠くから観察してね、多分これだろうって。震えて、鳥肌を立てながらね」
その様子を思い出したのか、ウォーレンは微かに笑った。グリーンの目が細められる様は、父によく似ている。両親のいない兄弟は、二人きりの血縁だった。跡取りのメルディーニを助け、どんな仕事も嫌がらない二つ下の弟を、口には出さないが評価している。
実は、対外的には、父の死はいまだ隠されている。跡目をとる長男の、二十五と言う年齢は、侮られるのが目に見えている若さであるがゆえに、公表にあと数年は待ちたかった。どうせ、他所から人が来ることなど滅多にない。領民はもちろん知っているが、幼いころから指導者としての才能を持ち、さらには類まれな魔力をもつメルディーニの指示に従い、口を閉じている。
父の子として、次代の領主として、やれるべきことは全てやる。両親を失った時にそう決めたのだ。だから、禁術を破って異界人の召喚さえやってのけた。
直近の異界人が、戦略に長けた武人であったというのは、広く世界に知られている。次を待ち望む気持ちも、大きいだろう。異界人の訪れは、エルサンビリアだけに限られていた。そういう地力があるのか、あるいは他の理由があるのか、定かではない。
他国は常に、異界人の訪れに恐々としていた。新しいものはいつも、エルサンビリアから。そう言われている。
もちろん、各国で様々な分野での研究が進められ、様々な成果があがっている。しかし、異界人がもたらすものはそれらを軽々と越える。発想も技術も、思いもよらない進化をたどるのだ。
「繭をね、煮るらしいよ」
「なんだと?」
「幼虫から成虫になるのに、繭を紡ぐだろう? それを煮るんだ。そしてその外側の繭で糸を選り合わせて、布を仕立てる。それが、彼女が最初に着ていた絹の正体だ」
「中身が死ぬではないか」
「うん。だから、ある程度の数は成虫させて、卵を産ませる。年に4回、それを繰り返すそうだよ」
「残酷だな。そのくせ、あんなにカイコを怖がった理由が分からぬ」
弟は肩をすくめる。
「だからさ、彼女はそれを、知識として知っているんだ。学んだそうだよ。実際に作業を見たことはないし、意識したこともない。彼女は、動物が死ぬところだって見たことはないだろう。少し聞いたけれど、肉も魚も、食べられるばかりの形で小分けにされ売られていると。
それらは、彼女がお金持ちのお嬢さんだから、ということとは、無関係だ。彼女の世界は広く、しかも完全分業制で成り立っている。国同士がさかんにモノとカネをやりとりし、お互いの不足を補いあう。
例えばうちは、海と山があるおかげで、海産物や山菜には困らない。けれど、平地がほとんどないせいで、家畜の飼育や農業には全く向いていない。それなのに、細々と皆で畑をおこし、多大な時間をかけて、僅かばかりの収穫を得ている。そうしなければならないからだ」
「だからか」
メルディーニは、お互いの空になったグラスに酒を注ぐ。
「そうそう、だから彼女は悲鳴を……」
「違う。だからお前は、スミレが来てからずっとカイコを探していたのか」
ウォーレンはゆっくりと笑った。優しい笑みは、弟にはあって兄にはないものだ。父母に大事に育てられたがゆえと思っていた。だから、いつまでも子どもだと思い込んでいた。
「兄さん。絹は『商品』になるよ。あれで外貨を得て、その金で野菜を買えばいい。そうすれば、領民たちは、今まで田畑に割いていた時間を別のものに充てられる。例えば海だ。
僕たちにとっては当たり前のことだけれど、この海域は、温かい潮と冷たい潮の境目だろう? 海流が読みづらくて被害も多い、やっかいな土地だと思っていたけれど、そこには他国にない種類の魚が豊富に集まってきているんだそうだ。
まあ、魚はちょっと……売り込みに行くには、時間が勝負だけれど……とれたてのほうがおいしいなんて、当たり前だからね。でもさ、きっと何かあるよ。
僕をこんなふうに考えさせたのは、スミレだ。彼女には感謝しなくちゃ」
嬉しそうに言う。嬉しいのだろう。領地のためになることが、心から。
「何か、の中には、兄さんの魔術も含まれているからね。よろしく」
弟が去ってから、メルディーニはそっと部屋を出た。向かったのは、スミレのいる建物だった。
立ち番の修練生に軽く肯き、そっとドアを叩くと、警戒したような顔の召使いが顔を出す。メルディーニの姿に驚いた彼女に、人差し指を立てて声を出さぬようにと、片目をつぶってみせた。いつにないそんな仕草に、彼女は頬を赤らめてから、場所をゆずった。
昼間、虫を踏みつぶした痕がすっかり掃除されているのを確かめてから、奥の寝室へ向かう。スミレは、戦闘民族であるこの地の民ではありえないほど、無防備にぐっすりと寝ていた。
赤い唇に触れる。人差し指でゆっくりとなぞる。
「ん……」
かすかに吐息が漏れ、そうして、深い息をつく。いまだ目覚めぬ彼女の傍らにそっと滑り込むと、さすがにぼんやりと意識が浮上したらしかった。
「……メル?」
「分かるのか?」
「もちろん。だって……知っているわ、あなたの、――体温」
唇を塞ぐと、彼女はそっと目を閉じた。