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――ぐすっ……
――ぐすっ……
庭の片隅で、茉莉は泣いていた。
その日、榊家は朝からてんやわんやの忙しさだった。去年亡くなった祖父の、一周忌だったのだ。早すぎる死に、祖母はすっかり弱ってしまっていたから、すでに全権は母に移っていた。
姉の菫は、母について客用の膳の出し方から、仕出し屋から呼んだ手伝いの料理人への指示の出し方、客の席順や香典の取り扱い方まで、とにかく全てを教え込まれている。逆に、母はそれらを実際にやりながら教えなければならないわけで、目の回るような忙しさだったろう。
だが、五歳の茉莉にはそんなことは分からなかった。分かっているのは、座敷で客の相手をしている父も、忙しい母も姉も、そして女中の誰もが茉莉の存在を忘れてしまっていること。
目が覚めたのは、喧騒でだった。朝起こしに来てくれるはずの女中が来なかったのは、休みの日でもありえないことだった。茉莉はそろりと布団から抜け出ると、そっとふすまを開く。
廊下を忙しく行き来する多くの人間たちは、見知った女中もいれば、今日のために雇われた見知らぬ人もいた。
「あの……」
「まあ茉莉様、お着替えくらい自分でなさってくださいな!」
何があるのか聞こうとしたが、どうやら手伝いを頼もうとしたと思われたらしい。叩きつけるようなあわただしい女中の言葉に、首をすくめる。
良く分からないが、今日は自分で服を選んでいいようだ。いつもは母か女中が決めるので、嬉しくなる。はねるように箪笥を開き、白いワンピースを取り出した。裾に控えめなレースがついていて、シンプルだけれど、手持ちの中では珍しく可愛らしい意匠のものだった。清楚というよりは地味なワードローブのなかで、滅多に着させてもらえないお気に入りの服。
茉莉は背中のファスナーに苦労しながら、なんとかそれを身に付けた。見よう見まねで、鏡台の前で髪を梳ると、背中の寝ぐせに気付かないまま部屋を飛び出した。
人がいっぱいいる。誰も茉莉を見ることはなかったが、いつもと違うその雰囲気に、こどもらしく興奮していた。
朝食をもらおう、と思う。いつもの習慣を無意識に踏襲する。
茉莉は台所を覗いた。母がいた。
おかあさん。
呼ぶ前に母は振り向き、そして、蔑むような目で茉莉を見た。
「茉莉……おじいさまの一周忌だというのに、あなた、その格好がふさわしいと本当に思っているの?」
えっ、おじいさまの?
そんな、わたくし、しらなかったの。
声は、喉の奥でつっかえた。知らなかった。おじい様のための日だったなんて。
助けを求めるような顔を、つい、隣にいた姉に向けた。姉は母のように怒ってはいなかった。ただ、呆れていた。
こんなことも出来ませんの?
姉が最も茉莉に多く向けただろう言葉が、言わずとも聞こえてくるような顔だった。可哀そうに。可哀そうな茉莉。そんな顔だ。
茉莉は俯き、そして、
「……きがえてまります」
ようやく一言を残して、駆けだした。家の中を走ってはいけないことも分かっていたし、それがますます母たちを呆れさせることも分かっていて、そうせずにはいられなかった。急がなければ、涙がこぼれてしまうから。
人がいない場所を探して、庭に出た。広い日本庭園は、庭師の爺がいていつもは踏んでいい場所を細かく指示されるが、さすがに今日はいないようだ。茉莉は南側の、建物から最も離れた植え込みにしゃがみこむ。こらえきれずに、涙がこぼれた。
声を出して泣くようには躾けられていない。ただただ、流れる涙をぬぐい、鼻水をすする。
ぐすっ。
ぐすっ。
その後、どうしたのだったか。覚えていない。幼いころの思い出は、涙で閉じられている。
「マツリ様。いつまでそうしておられるつもりですか?」
セルジュの呆れたような声でマツリは思い出から目覚めた。
中庭でいいから出たい、と我儘をいって、襲撃後だというのにセルジュにつきそわれて外に出たのだ。城から離れないこと、と言われ、一番近くの東屋に行こうと思ったのだが、途中で気が変わった。低木に囲まれて、ぽっかりと空いた洞穴のような小さな空間が気持ちよさそうで、ちょっと体を入れてみたのだ。
それがきっと、自宅の庭に似ていたのだろう。思い出したのは、子どもの頃のあまり楽しくはないエピソードだった。今着ているワンピースの裾が、白いレースで縁取ってあったのも原因かもしれない。
「私、レースって大好き」
「はあ……それはよろしいですね」
「え? いいかしら?」
「まあ女性と言うのは皆、そういうのが好きでしょう。普通」
「普通、そうかしら」
「ええ、普通」
マツリはくすくすと笑った。セルジュからは呆れた気配を感じたが、なんとなく、嬉しかった。
「さあ、いつまでもそんなところにいては、大事なレースにほころびを作ってしまいますよ」
「そうね、それは哀しいわ」
「お手を」
金属ではなく、革で出来た籠手をはめたセルジュの手を握り、勢いよく立ちあがる。
ふわりと浮遊する感覚に混じって、かすかな既視感があった。しかしそれはすぐに消えてしまったので、マツリの興味は目の前の別の疑問に移った。
「フルプレートじゃないのは、魔術を唱えるから?」
「いかにも。魔術と金属は少し相性が悪いのです。とはいえ、剣に魔力をまとわりつかせて攻撃することもあるので、相反するというわけではないのですが」
「ふうん。ねぇ、呪文って、習ったの?」
「いえ、習うのは魔力の解放の仕方です。言葉は補助、あるいはきっかけに過ぎず、理論的には無詠唱も可能です。ただ実際には滅多にいないでしょう。
呪文とはスイッチのようなもの、無詠唱で魔術を発動できてしまうなら、常にオン状態であるのと同義であり、魔力が垂れ流しということです。そんな状態では、あっという間に魔力が枯渇してしまう」
マツリは首をひねる。
「内容はどうでもいいってこと?」
「端的に申し上げれば、そうです。しかし、炎に関する言葉から、氷の魔術を引き出すのは難しい。自らの中のイメージが一致することが、最も効果的でしょう。
しかし……ええ、もしかしたら、我々が同じだと思っている魔術が実は別のものである可能性はあるでしょう。
『回復』と唱えた時と、『治癒』と唱えた時、目に見える現象は同じですが、被術者の内部では違った行程が施行されているということが、ないとはいえない」
「セルジュ」
「はい」
「あなた、理屈っぽいって言われたこと、ない?」
彼は鉄仮面の下で黙りこみ、しばらく考えているようだった。
「ありません」
きっぱりと言い切られ、マツリは、言えないだけなのではないかと思ったが黙っていた。出会った日にされたことは今でも許していないが、彼が変わったのは事実だ。
マツリは絶対的な批判をしないと決めている。人は変わるからだ。そしてそれはとても難しい。マツリは知っている。いまだに母の判断を無意識にトレースしている自分は、まだまだ変わっているとは言えないし、先行きは明るいとは言えない。人が変わるのは、とても、難しい。
だから、マツリはセルジュを拒まない。
「おやつの時間よ」
「アステルに用意させましょう」
マツリにだけ聞こえる、泣き声がする。小さな自分。声を殺して泣いていた自分。
忘れようとしていたけれど、今はそれを堪えて考え続ける。
あの頃の自分が可哀そうだったこと。
母に、父に、婚約者に、彼女はこれから裏切られる。
哀れで小さな生き物。
――ぐすっ……
――ぐすっ……
城に入る二人を、黒い一対の目が見ている。
はるか、高いところから見ている。