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エルサンビリアの国境。そのもっとも南に位置する、ドゥーガ領は、人口も数千ばかりの貧しい国だ。無理もない。南に海を、東に隣国セヴァーゼアンを臨むドゥーガは、当国最強と言われる砦よりも国境側にある。見捨てられた町、というのが、領民の口癖だ。
王都から東に向かうと、いくつかの領地を通り、勇猛バルドア・イレニウス辺境伯の眼前を過ぎた後、そびえたつ剣山にぶつかる。この山こそが、エルサンビリアを難攻不落としている最大の理由だった。
かの山は、冬には西風をせき止めイレニウス領に大量の雪を降らせるが、その山頂は永久凍土と化している。それほどに標高があるばかりか、高さの半ばまでは深い森が、それ以降は氷土が現れるまで岩山となる。よほどの体力と精神力、山に呑まれぬ攻略の技術が必要だった。
その外側に、ぽつんと残されたのがドゥーガである。海と隣国と、せりあがるような剣山の東壁に囲まれた領地が、なぜセヴァーゼアン側に侵略されていないのかは謎だ。しかしその一端は、国民にあった。
彼らは戦闘民族である。環境がそうさせたのか、そうであったからの現状なのか、歴史を紐解くには遺された物が少ない。王都とは違い、来歴を記すような習慣はない土地だった。
「先生、そろそろ……」
修練科の若者が、就寝の鐘の知らせにきたのだろうが、すぐに入り口で止められる。
指導者の寝泊まりする建物の地下では今、まさに、床一杯に描かれた陣が魔力を臨界まで溜めたところだった。
慌てて口を閉じる若者には目もくれず、メルディーニ・ドゥーガは半ば目を閉じたまま、一心に呪文を唱えている。青かった陣の発光が、白くなると同時に、静かに最後の言葉を告げた。
瞬間、爆風にも似た、風と光の洪水が、小さな地下室を満たす。思わず全員が、ローブの袖を掲げて目を守った。バタバタとはためく裾が足を叩き、乱れる空気は壁に跳ね返ってあらゆる方向から男たちを襲う。
やがて、舞い上がるローブが落ち着きを取り戻し、ほっと誰かが息をもらす。
「……なんと、本当に成功してしまわれた……」
長老と呼ばれる領内で最も長生きしたロウですら、呆然と目の前の光景に立ちつくした。すでに光を失った陣の真ん中に、見慣れない服装の女がいた。
メルディーニはごっそりと魔力を持っていかれたことで、軽くめまいを起こしていたが、頭をふってそれを振り払い、達成感に笑みをこぼす。異界人の召喚。それは禁術であり、悲願でもあった。並大抵の呪術師には不可能と分かっているから、国も取り締まりを特段しようとはしない。
彼らは知らないのだ。メルディーニは並大抵ではない。底知れぬ魔力と、畏敬を越えて恐れを抱かせる才能があった。
そのメルディーニをしてさえ、魔力の枯渇を危惧させるほどの強大な陣を経て、彼女はそこに座っている。
「ようこそ、異界の女よ。名はなんと申す」
目を見開いて周囲を見渡していた女は、メルディーニの声に引き寄せられるように目を合わせた。黒い瞳は、濡れたように艶がある。髪もまた黒かった。真っすぐで長いその髪は、風に乱れて赤い唇に一筋、かかっている。
女はそれを、指先で払う。
「ここは? 私をさらったのは皆様かしら?」
「そうだ。いたしかたないこととはいえ、そなたの意思に反しているだろうことは謝罪しよう」
「仕方ない、とは、弱者の理屈ね。あなたが首謀者? 名前は? 目的は何?」
メルディーニは思わず、大声で笑った。周囲が戸惑っているのが感じ取れたが、もはや、目の前の女以外は見えなかった。
「我が名は、メルディーニ。辺境の外側と呼ばれる領地の、領主が息子である。そしてここは、そなたの国でも、世界でも、ない」
「……何をおっしゃっているか、分からないわ」
「ゆっくりと説明をしよう。危害は加えないと約束する」
「あてにならない約束はしない主義なの。手を貸しなさい。立てないわ」
腰が抜けたと言うのに上からものを言う女に、再び笑いながら手を差し出す。彼女の口の動きと、発せられる言葉がずれていることに、初めから気付いてた。赤く熟れたような小さな唇から、視線が離せない。異界人の特徴として伝わっているその事実が、自分の成功をはっきりと知らせてくれていることばかりが理由ではなかった。
「名は」
「スミレ」
小さな野の花の名前を告げ、女はこの地に降り立った。
スミレは特別な技術は持たなかった。ロウを含め、重鎮たちはあからさまにがっかりしていたが、彼女はそれを気にする風もない。そちらの都合で呼んだのだから、全てを補償するよう言い放ち、手をかけた食事と特別にあつらえた服を要求している。
もともと、かなり良家の娘であるらしい。命じ慣れた口調で、当たり前のように良いものを求めるのだ。
メルディーニはそれら全てに応えた。または、そうするように命じた。
彼女は、無学ではなかった。特に、薬草学に非常に通じていた。幸いなことに、生えている植物は非常にかの世界とは似通っているようで、今までになかった薬を彼女からの聞き取りで研究させている。とはいえ、治癒魔術のある国で、打ち身や腹痛の薬など、さほどの意味はもたない。すでに民間に広まっているものも多かった。
しかし、メルディーニはそれを指摘しない。彼女の価値は、そうしたところにあるとは思っていないのだ。
「スミレ、来い。馬に乗せてやろう」
「乗せてやろうとはごあいさつですわね。馬術も心得ております」
ひと月、ふた月と経つ頃には、さすがに寝所で夜ひとり泣いていたらしいスミレも、この寂れた暮らしに馴染んできた。着心地が悪いと顔をしかめていた服も、一人で着られるようだった。確かに、彼女が最初に来ていたワンピースは、とろけるような肌触りの、極上の布で出来ていた。普段着であるというそれを、使用人たちは洗うことさえできずにしまってある。カイコ、という蛾の幼虫がまとう繭から作るのだと言う。山に探しに行くよう命じてあるが、結果は出ていなかった。
「どうしたスミレ」
「軍馬ではございませんか! どうやって乗れとおっしゃるの? 普通のサラブレッドはいないの?」
「いないな。諦めて俺の馬に乗れ」
「……気が乗りませんわ。どちらへいらっしゃるの」
「海だ。海を見せてやろう」
彼女は、呆れたように笑った。
「乗せてやろう、見せてやろうと、押しつけがましくおっしゃるけれど、あなたがそうしたいだけではないの、メル。そういう時はこう言うのよ。一緒に来てくれないか、と」
「海は嫌いか」
「いいえ」
「では、海へ……一緒に来てくれないか」
馬上から手を差し出すと、スミレは弾けるように笑った。年相応の明るい笑い声に、近くにいた馬丁たちも目を細めている。
ほっそりした腕を絡め取り、引き上げる。軽々と、まるで飛ぶように馬の背に降り立つと、彼女はメルディーニに微笑みかけた。その唇に、目が引き寄せられる。視線を無理やりもぎ離すようにして、馬首を南に向け、拍車をかける。
走り出す馬の上で、胸元にしがみつくスミレの腰をそっと支えるだけで、メルディーニはめまいを覚える。まるで魔力をもっていかれた時のように。
いや。きっと持っていかれたのは――。